第10章:アウロス=エルガーデン【下】(78)
勝利の余韻と、デウスの容体を案じる不安とが入り交じる異様な空気に包まれたその部屋を出て、アウロスは一人黙々と歩く。
走るだけの気力はあっても、身体は最早ついてこない。
魔力が底をついた魔術士は、極度の睡魔に襲われる。
疲労感も相当なもの。
アウロス自身、その防ぎようのない魔術士の運命とも言うべき状態に何度か陥った事があり、その度に自分の才能のなさを恨みながら昏睡状態に陥ったものだった。
――――戦場において、魔力はいわば兵糧のようなもの。
魔力量の極めて少ないアウロスは、例えるなら常に体調不良で食欲の湧かない兵士のようなものだ。
そんな人間が全力で、後先を考えずに戦い続ければどうなるか等、誰でもわかる事。
それでもアウロスは戦争時、なりふり構わず戦い続けた。
人体実験の影響で、筋肉の発達も制限された中で、頼れるのは――――約束だけ。
『ぼくは魔術士になるんだ』
その夢を果たすという約束だけ。
アウロス=エルガーデンが魔術士として確かな足跡を残したという確固たる事実を作り出す――――その誓いだけだった。
人間の身体は、精神が動かしている。
精神だけではどうにもならないが、動力としての連動は確かにあって、それが時に連動だけでなく影響、影響だけでなく支配する事もある。
アウロスはそれを体現してきた。
ここまで生きてきた事そのものが、体現した証だった。
「……」
エルアグア教会の廊下に、人影が浮かぶ。
アウロスはその影を、歩を止めて眺めていた。
それが何者なのか、視認する事は出来ない。
薄れ行く意識を強引に繋ぎ止める代償として、五感が鈍っている。
ただ、認識は出来ないものの、わかってはいた。
理屈抜きの、感覚的な何かがそう告げていた。
わかってはいたが――――それを確信する事は出来ない。
アウロスは、そういう生き方を選んだのだから。
「グランド=ノヴァか」
だが、問う。
そこにいるのはルンストロムではないし、ゲオルギウスでもない。
フレアでもなければ、マルテでもない。
グランド=ノヴァの人格に浸食された人間の気配は、そこにはなかった。
「――――」
以前、デウスが一時四方教会から離れた際にサニア達と共に訪れたこの建物内で聞いた、声。
エルアグア教会にもグランド=ノヴァの人格が一部浸食しているのなら、今聞こえる声もその名残とも言うべきものだ。
人格はあっても意志はない。
意志がない声は、ただの音に過ぎない。
かつてグランド=ノヴァだった人物の思念が残存し、その頃の思考に基づいた声を音として発しているに過ぎない。
理解はしていた。
意味のない事だとは理解していたが、アウロスは問いかけた。
「お前の研究の一端を体験した。確かにあの融解魔術は、使い方次第ではこの国にとっての切り札になり得る。防ぐ術は、他のどの国も持たないだろうからな。どんな凄腕の剣士でも、途方もない数の財宝でも、融けてしまえば無価値になる。強さや権力を超越した魔術だ」
それは恐らく、自分自身に向けて発している言葉なんだろうとアウロスは考えた。
だが、やはり違和感は拭えない。
極度の疲労状態の為か、自分自身の所感にすら確信が持てずにいた。
「でも、どんな事でもそうだ。主張や成果なんて、実際は額面ほどの意味はない。誰一人反論出来ない完璧な正論は存在しても、その正論で全ての人間が納得してくれる訳じゃない。絶対的な合理性で生み出した発明が、見越した通りの利益になる訳じゃない」
自分に言い聞かせるのではないのなら、一体この口をついて出る言葉には何の意義があるのか――――
「お前は託すべきだった。その研究成果を、自分の望んだ通りに活用してくれる人間を探して、根気よく説明して、託すべきだった。お前だって、自分の研究が安っぽい自己顕示欲や権力維持に利用されるのは不本意だろう? そんな人間が辿り着く境地じゃない。あの邪術は」
そこまで話したアウロスはようやく、答えを見つける事が出来た。
「研究者は誰しも、目的をもって研究を始める。その目的は、研究成果よりも研究過程よりも、まして研究者としての矜恃なんかよりもずっと重要であるべきだ。研究者は人間なんだからな。命に限りのある人間である以上、そこからは逃れられない。人間である以上は、研究目的を研究の帰結とするのは責務だ」
「――――ならば、問おう。若き研究者よ」
声が音となり、音が形を模す。
それは言葉であって言葉でない、不可思議な現象。
しかし、炎であって炎でない別の何かを、氷であって氷でない異なる物質を作り出す魔術がそうであるように、不可思議ではあっても、それは現実だ。
「――――研究とは何の為にある? 世界平和。国の安寧。生活の確保。富。権力。野心。自己顕示欲。幼少期の夢。希望。好奇心。慈悲の御心。未来。過去。一体魔術研究とは何の為に行われている?」
禅問答に付き合う気は、アウロスには毛頭なかった。
己の研究者としての表現を、この教会に刻み込む気など一切ないし、必要ない。
まして、既にこの世にはいない人物にこれ以上、邪魔されるのは勘弁願いたかった。
「その全て」
だから、婉曲的な表現は一切避け、剥き出しの言葉を綴る。
「でも、全て一人で抱え込む理由は何処にもない。研究者は孤独でいい。ただし研究は違う。お前の言ったその全てを、魔術の研究者全員が各々の生まれ育った環境や自我で芽生えさせた目的を、各々の願望の下に果たす。それが研究だ」
アウロスは右手をかざす。
その指には、先人が血の滲む努力で作り出した魔具。
既に魔力切れのアウロスは、彼らの結晶を光らせる事は出来ない。
「だから研究者は、自分の目的に責任を負う。成果じゃない。過程じゃない。目的に負うんだ。必要なら他の誰かに助力を願う。自分の人生で果たせないなら次の世代に託す。俺なら、そうする」
魔具に魔力は集まらない。
光は生まれない。
けれども――――アウロスの指は、確かにルーンを綴った。
「――――お前は自分の目的を、夢を、他人に託しても満足出来るのか? 自分で果たさずに、実感を得られずに、それでも納得出来るのか?」
文字は最初から形を帯びず、霧散する事もない。
アウロスは指を踊らせたのち、右手を再び広げ、人影へ掌を向けた。
「さあな。死んだ後の自分なんて、知った事じゃない」
「――――託すのは、死が最低条件という訳か。若き研究者よ。このグランド=ノヴァに足りなかったのはその覚悟か」
「本当は、永遠の命が欲しかったんだろう? 永遠に生きて、何か成す事があったんだろう。だから託さなかった。自分で実験台になった」
「――――昔の話だ」
「あいつは、俺に託してくれたよ」
「――――本当にそうかね? 君が勝手にそう思い込んでいるだけでは?」
「答えはあの世で聞くさ。当分先の話だろうが」
『――――待ってるよ』
アウロスの右手が、ゆっくりと降ろされる。
その手をかざした相手は、もうそこにはいなかった。
隻腕の少年が、そこにはいた。




