第10章:アウロス=エルガーデン【下】(76)
エルアグア教会の外から聞こえる轟音を背に、アウロスは手動によるオートルーリングで【細氷舞踏】を放つ。
殺傷力皆無の目眩まし用魔術だが、融解魔術の進行を止めるのに支障はない。
魔力の消費量も少なく、この状況には最適な魔術の一つだ。
しかし、それでも――――アウロスの魔力は尽きかけていた。
「……残りあと一回、ってとこだ」
強がったところで誤った情報を仲間に与えるだけ。
身体にのし掛かる、燃料切れの気怠さを極めて強く感じながら、アウロスは自分の現状を正しく背後で待機するティアへと伝えた。
「了解しました。では、貴方とトリスティは御主人様の所へ」
そのティアは、次に備えルーリングを始めつつ、アウロスへとそう告げる。
明らかな、覚悟を完了した目。
そしてその覚悟の内容は、本人の口から発せられる前から想像はついた。
「非力とは言え男性。二人なら、御主人様の身体を外へ運び出せるでしょう。後ろの壁の穴から脱出を」
案の定、それは自らがここに留まる事を意味していた。
デウスが動けない今、融解魔術の進行を食い止めなければデウスは確実に融かされる。
また、進行速度を考慮すれば、誰かが止めていない限り部屋の外に逃げるだけの時間もない。
逆に言えば、誰かが進行を食い止めていれば、その間に脱出は出来る。
ただし、アウロスの見解が正しければ、そこにはルンストロムの護衛の誰かが、或いは複数が待ち構えているだろう。
足止めを喰らえば、全員纏めて融解魔術の餌食だ。
ルンストロムならば、護衛が犠牲になる事など意にも介さないだろう。
「魔力の尽きた貴方は戦力外としても、トリスティは別です。ここは私とサニアで食い止めます。さあ、御主人様を外へ」
そのデウスは――――思わず反射的にティアへの合理的な反論を試みようとしたアウロスは、一瞬の逡巡もなく喉元で言葉を消す。
デウスの死は、まだ確定している訳ではない。
けれども、実際にティアの言うようにしたところで、デウスの巨躯を抱えながら待ち構えている護衛を一瞬で倒すのは無理がある。
「最早、それしかあるまい」
その声はアウロスではなかった。
ティアと入れ替わりで融解魔術へ向けて【炎の天網】を放ったサニアが珍しく、弱々しい声で代わりに答える。
「恐らくは、あの壁の向こうにルンストロム側の人間が待ち構えておる。デウス師を抱えては始末出来まい。先に敵を倒してからデウス師を運び出すがいい。その時間は我とティアで稼ごう」
「い、嫌だよ! なんで、なんでここまで来て二人を見捨てなきゃならないのさ!」
そう叫ぶトリスティの顔色は、明らかに数刻前より悪い。
彼だけではない。
サニアも、そしてティアも、疲労と魔力の消費によって限界を迎えつつあった。
「感情論で語るべき段階ではない! わからぬのか!」
その中で、サニアは全身全霊をかけ叫ぶ。
室内の空気が軋むほどの大声に、トリスティは思わずすくみ上がった。
「このままでは全員無駄死するだけではないか! ここで、こんなところでデウス師を失ってよいものか! 我等の存在意義は何だ! 何だ言ってみろ!」
「あ……う……」
本来はサニアの次に魔術を放つトリスティに代わり、ティアが再度魔術を放つ。
彼女の得意な黄魔術は、速度重視のものが圧倒的に多く、広範囲に攻撃する魔術は消費量が大きめで、この状況下における融解魔術の食い止めには向いていない。
だが、ティアの体力では、デウスを運び出す助力にはならない。
サニアもそれを承知しているからこそ、トリスティに託す事を承知していた。
「お願い。トリスティ、御主人様を救って」
その覚悟は、若干一四歳のトリスティに覆せるものではなかった。
だが――――
「生憎だが、無理だ」
サニアが生み出した熱を瞬時に冷却するような声で、アウロスは反論する。
先程とは打って変わり、合理的、そして現実的な言葉で。
「俺の体力は一般男性の平均を大きく下回る。トリスティと二人がかりでもデウスの身体を短時間で運ぶのは不可能だ」
正しい情報は、時に絶望を生む。
それでも発しなければならないのは、残酷だ。
アウロス自身、何度も現実の無情さに晒されてきた。
それでも、熱にほだされる訳にはいかない。
出来ない事は出来ないのだから。
「……そうか。出来ぬか」
ポツリとそう口にしたサニア。
声すら出せず、アウロスの言葉に大きな落胆を隠せないティア。
少しずつ、しかし確実に迫ってくる終末が、二人を呑み込もうとしていた。
「だから、代案だ」
ティアの魔術を融解魔術が溶かし尽くした瞬間、アウロスは【細氷舞踏】を放つ。
残された最後の魔術。
茫然自失としていたサニアとトリスティの代わりを、魔力の残滓を使い果たしアウロスが務めた。
「俺はここで絶対に終わらない。だからここにいる」
そして、壁に空いた穴を横目で睨み、堂々とそう宣言した。
一か八か、待ち伏せに攻撃される覚悟で逃げ出す事は出来る。
この場にいる何人かを犠牲にすれば。
だが、目的を果たすのに、その方法は最善ではない――――そう確信して。
「向こうを見ろ。人影が一つしかない。ゲオルギウスだ」
「……それがどうした? デクステラならば、ルンストロムと共に逃げたのだろう――――」
「チャーチも見えない」
アウロスのその言葉に、サニアが目を見開く。
絶望と極度の疲労で折れかけていた心は、折れる直前で新たな支柱を得た。
「まさか……逃げたのか? それとも、ルンストロムを追いかけた?」
「護衛を引き連れたあの状態で追っても無駄だ。チャーチにそこまでの戦闘力はない」
「なら、やはり……」
「俺は"見えない"って言ったんだ。いないとは限らない。だから待て。粘って待てば……勝機はある」
魔力が尽き薄れ行く意識の中、アウロスは説明を終えた。
待つという行為は賭けだった。
他の手段もあるが、それよりも待つ事が最適解だとアウロスは判断した。
出来る事があるのに、それをせずただ待つのは、大きな苦痛を伴う。
それでも――――
「……わかりました。貴方を、貴方を信じた御主人様を信じます」
最初にそう答えたのは、ティアだった。