第10章:アウロス=エルガーデン【下】(73)
【雷槌】の光が屈折、変色し、徐々に消えていく。
完全に消えてしまったその瞬間、融解魔術はアウロスとルインへ向かって押し寄せてくるだろう。
そしてその瞬間は、直ぐにでもやって来る――――筈だった。
「貴方達……」
「勘違いはしない事だ。君達の為ではない」
食い止めたのは、デクステラだった。
テュルフィングならではの、常人の域を遥かに超えた身体能力で部屋の隅を駆け抜け、いち早くルインの隣へと到着。
同時に、疾走しながら綴っていた【安息の螺旋】を放つ。
もし移動中、少しでも霧状の融解魔術に触れていれば、身体を失いかねない危険な賭けだったが、その表情に強張りも安堵もなかった。
テュルフィングである以上、ルンストロムの裏切りがあったとしても、敵の敵は味方――――とはなり得ない立場。
そのデクステラが躊躇なく駆けつけた理由は、本人の言葉の通りルイン達ではない。
「御主人様は絶対に死なせません!」
ティアのその叫びが全てだった。
【安息の螺旋】が融解される中、ティアとサニアの二人もデクステラの両隣に駆けつけ、魔術を綴り始める。
そして――――デクステラの魔術を受け戦闘不能となっていた筈のトリスティも、融解魔術の範囲が及ばない入り口側でゆっくりと立ち上がっていた。
四方教会。
アウロスは一時身を寄せていたその組織を、何処か弱々しいと感じていた。
デウスの戦闘力が図抜けているのは、片鱗程度しか目の当たりにしていなくても理解出来たが、その部下四人、底の見えなかったデクステラ以外については明らかに精神面が未熟。
各自得意とする分野では目を見張るものを持っていても、総合力と全体像はデウスと比べると余りに見劣りする。
そしてそれを、本人達も十分に自覚している。
次期教皇候補を抱える戦闘集団としての意味合いが強い組織としては、頼りなさが際立っていた。
だが――――それは当然の事だった。
四方教会の本質は、保護と育成にあったのだから。
デウスが彼ら四人を守り、育てる為の機関。
それが四方教会だ。
ならば彼らにとって、デウスは父のような存在。
特にデクステラは、テュルフィングという立場を背負い生きる宿命を持ちながら、それでも受け入れてくれたデウスに恩義を感じない筈がない。
「素晴らしい"家族愛"です。それはそれで尊いものです。おかげで救われましたよ」
デクステラが救出に向かうのを、じっと待っていたのだろう。
ルンストロムは皮肉のみを残し、負傷した身体を引きずるようにして部屋を出て行く。
融解魔術が盾代わりになっている今、その逃亡を止める手立てはない。
「待ちなさいルン爺! ここで逃げても、選挙管理委員会に今日あった事をリークすれば教皇にはなれないよ!」
唯一、物理的に止められる立場にあるチャーチが回り込もうとするも、周囲にいたアクシス・ムンディの面々に止められる。
「貴方達、あの爺の味方したらしょっ引かれるよ!?」
「無論、犯罪に助成する訳にはいかぬ……が、彼は怪我人。怪我人をこれ以上留まらせる訳にもいかぬ」
「んぐ……だったら向こうのアウロスさん達だって怪我人だよね! ましてデウス=レオンレイは元雇い主でしょ!? 融解魔術を止めさせてよ!」
「……」
アクシス・ムンディの一員、クワトロ=パラディーノを、チャーチは正論で黙らせた。
だがそれは、勝利とは程遠いもの。
チャーチもわかっていた。
今この状況で、アウロス達も助けるべきだという主張がどれだけ無意味かを。
現在の彼らは、ルンストロムに雇われた護衛。
犯罪人に手を貸す事は出来ないのと同様に、雇われた人間の味方を妨害し、敵を助けるなどあり得ない。
ここに来てチャーチは、ルンストロムが何故聖輦軍の"全員"を使ってラディ達を追跡させたかを理解した。
彼らは立場上、アクシス・ムンディ以上にルンストロムには逆らえない。
だが、アウロスに恨みを持つ彼らが何かの拍子で、独断でアウロスを始末しようと突っ走っていたら、その中の何人かが融解魔術の範囲内に入っていたかもしれない。
もしそうなった場合、仲間を助ける為に謀反を承知でゲオルギウスを倒し、融解魔術の進行を止めた可能性は――――ある。
ルンストロムには、今のこの構図が最初から見えていた。
それを知ったチャーチは、背筋が凍る思いでその場に立ち尽くす。
全ては、本当に邪魔な人間を融解魔術という"一切証拠の残らない方法"で消滅させ、明日の選挙に望む為。
聖輦軍全員で追跡すれば、オートルーリング用魔具が手に入る可能性は高いし、仮に手に入らなくても、候補者の一人は消え、もう一人――――すなわちロベリア=カーディナリスについては、娘フレアのグランド=ノヴァ浸食とそれによる蛮行という情報を抑えている時点で問題ない。
単に選挙で勝つだけでなく、政敵を再起不能とし、更には海外進出後の自分の障害となり得る橋渡し役をも一夜で全て消し去る。
それが、危険を冒してまでルンストロムが自らここへ来た理由。
彼自身が描いたシナリオだった。
「流石、ウチのジジイのライバルだね……参ったよ」
自分が"ルン爺"と呼んでいる人物が、どれほどの事をしているのか、どれほどの用意をもって選挙に臨んでいたのかを理解したチャーチに、この場をひっくり返すような奇策を講じる力は残っていなかった。
そのチャーチの傍に、穴が開き崩れた天井の小さな破片が落ちる様子を、融解魔術を挟んだ向こうでアウロスは視界に収めていた。
デクステラ、サニア、ティアの協力で、なんとか融解魔術の進行は食い止められている。
このまま粘れば、ゲオルギウスの魔力が先に尽きるかもしれない。
だがその時にはもう、ルンストロムはエルアグア教会内にはいないだろう。
そして、ここでルンストロムを逃がせば、明日の教皇選挙で間違いなく彼が新教皇に選ばれる。
そうなれば、アウロスの目的は――――アウロス=エルガーデンの名が歴史に残る事はなくなってしまう。
「……力を貸してくれ」
ボソリとそう呟いたアウロスが、視線を下げる。
その視界に収まるのは、ただ一人。
「死にそうなのはわかってる。無理をすれば更に危険なのも。でも、頼む」
床に倒れ込んだままのデウスに対して、アウロスは頭を下げた。
既に意識がない可能性もある。
或いはもう――――そんな状態なのは、出血量を目の当たりにしているアウロスが誰よりわかっていた。
それでも、頼むしかない。
――――思い付いた以上は。
「お前の魔力と魔術じゃなければ無理な事を、お前に頼みたい」
「……」
「お前の緑魔術で、ルインを二階に持ち上げてくれ」
その案に――――デウスの巨躯が微かな反応を示した。