第10章:アウロス=エルガーデン【下】(54)
通常、魔術における『不完全』は術者、つまり魔術士本人の未熟さに由来する。
既に確立されたルーン配列と、それに伴う魔力の制御。
ルーンは文字を連ねることで意味を持ち、その意味へと変質させる過程において適切な量を適切なタイミングで注ぐことが出来なければ、魔術は正しい形で具現化されない。
そして、その正しくない魔術の九割以上が、単に魔術そのものの劣化に留まらず、使用した魔術士の負担増にも繋がる。
魔力の過剰な消費、肉体への負荷、強烈な不快感――――それはそのまま魔術発動時の現象にも表れる為、失敗が直ぐ外部に漏れる。
戦略面においても、個人の名誉においても、その失態は許容し難い。
だからこそ魔術士は技術を磨くことを求められる。
一方、オートルーリングはそういった魔術士の未熟を極限まで排除出来る。
同時に――――例え最適でない、不完全なルーン配置の魔術であっても、強引に具現化、出力まで持って行けるという特徴を有する。
前者も魔術士全体の事、特に未来を考えた場合、必ずしもメリットのみとは言い難いものだが、後者に至っては大きな悪用のリスクを内包している。
今まさに、その問題が当事者を襲おうとしていた。
「その通り、これは脅しです。もし本当に君達へ向けて融解魔術を放てば、私が欲しているその魔具も融けてしまう。それでは元も子もありませんからね」
ルンストロムは敢えて、自分の矛盾的行動をそう説明した。
だがそれは同時に、本心でない事を示している。
「ここで俺を消しても、論文さえ今日中に手に入ればいい……そんなところか」
ルンストロムの狙いは、自身が融解魔術を完全に制御出来る証拠。
論文原本は、その証拠になり得る。
アウロスを殺害した事実を明かさず、『ここに論文の原本があり、その持ち主と手を組んでいる』と発表すればいいのだから。
それだけ、原本には説得力がある。
通常は大学なり研究所なりに厳重体制で保管される物なのだから。
「ウェンブリーの魔術士が優秀なのは結構な事です。だがそれは最終手段。やはりオートルーリングの専用魔具を証拠として提示するのが、最も"連中"を納得させられるのですよ」
「……準元老院を指している訳じゃなさそうだな」
アウロスは敢えて、話に乗る。
時間はかけられない。
マルテとフレアの容態が気になる。
とはいえ、融解魔術をこのままゲオルギウスに撃たせる訳にはいかない。
「無論。この国は腐り過ぎた。最早国内の人材のみで復旧するのは不可能なのですよ。そこから先は説明不要でしょう。君は優秀だ。既にほぼ把握しているのでしょう。私の人脈を」
だがルンストロムは乗ってこない。
アウロスの意図を察し、最小限の言葉で会話を打ち切った。
揺さぶりをかけ、アウロスを追い詰める。
『ここにいる連中を巻き添えにしたくなければ、魔具を寄越せ』
この部屋に入った時からずっと、ルンストロムはそう暗に唱え続けている。
撃たれれば終わり。
撃たれなければ、やはりアウロスの目的は潰える。
「……冗談じゃない」
反射的にそう呟いたのは、アウロス――――ではなくルイン。
母親の過去を穿り返すルンストロムへの苛立ちもあるのだろう。
今にも噛みつきそうな顔をしながら、結界を綴ろうとする。
結界をも融かすのが融解魔術。
とはいえ、結界が壁として機能すれば、結界が融ける最中はその結果内の人間は安全。
そう判断したのであれば、ルインの行動は理に適っている。
ただ――――
「結界は無意味ですよ。融解魔術は『情報の液体化』が原則。その魔術を出力した人間と同じ魔力で構成されている以上、結界は出力者の一部と見なされ、結界と一緒に液体化が始まりますからね」
ルンストロムの説明は、結界が融解を防ぐどころか、攻撃される面積を増やすだけ、という絶望を与える趣旨の発言だった。
だが、ルインはほくそ笑む。
「それは有益な情報ね」
その笑みに――――迷いはなかった。
「ルイン!」
「撃ってみなさい。その不完全な融解魔術とやらを」
アウロスの制止を無視し、ルインは結界を綴った。
自分の周囲、マルテやフレアも含め全員を覆う魔術の障壁。
壁、天井に密接し、四角形となったその結界は、対魔術に特化したものだった。
「それとも、私ごと結界を融かす自信がないのかしら?」
今度は、ルインがルンストロムを揺さぶろうと言葉を連ねる。
その目的は、アウロスも、ラディも、そしてルンストロムも理解していた。
「さっきから魔術国家の為、未来の為などと連呼しているけれど……貴方はただ出身地で虐げられた恨みを晴らしたいだけなのでしょう?」
それは――――挑発。
「でも、自分だけではどうしようもないから、他国から力を借りる。邪術から力を借りる。
大きな目的を掲げて正当化している。ただそれだけに過ぎない」
ここでゲオルギウスが融解魔術を放てば、ルインだけが被害を受ける。
その隙にアウロスが二人を攻撃。
ルイン自身も結界を即座に解き、攻撃。
一瞬で融ける訳ではないのだから、一撃くらいはお見舞い出来る。
ただし、周囲にいるルンストロムの護衛と思しき連中も残っている為、ルンストロムを絶命させるのではなく、無力化し人質に取る必要がある。
そうすれば――――自分だけの命でこの場を切り抜けられるかもしれない。
「ウェンブリー出身だろうがマラカナン出身だろうが、貴方に教皇たる器など微塵もないのよ。その矮小極まりない容れ物に収まるのはせいぜい、田舎の教会や大学くらいでしょうね。寧ろウェンブリーに生まれて幸せだったと思いなさい」
そこまで思い描いたルインに迷いはない。
そして彼女は、挑発が抜群に上手かった。
「研究者でありながら他人の発明品を他国に売り渡す事でしか成り上がれない貴方が一定の地位を得られたのは、幸運以外の何者でもないのよ。一生涯、幸運に感謝して涙していなさい。その命が枯れるまで」
声を荒げず、寧ろ聖母の如き柔和さで言葉を突き刺す。
相手がどんな言い方をされれば腹立たしく思うかを知り尽くした、熟練の域。
挑発である事を理解している筈のルンストロムすら、その目を充血させていた。
「ルイン、止めろ。もういい」
「そ、そうよ! 本当に撃たれたらどうすんの!」
「心配しなくても、そんな度胸はないのよ、そこの首座大司教には。年端もいかない子供を利用して得意顔で暴露する器の矮小さなのだから」
アウロスとラディが制止を試みるも、ルインに一切の迷いはない。
そして――――
「……自分の力不足など、疾うに認めていた筈なのですがね」
その挑発は、ついに奏功した。
「他人、それもあのミルナ=シュバインタイガーの娘に言われるのは心外ですね。残念ながら……貴女の勝ちです。私にその言葉を受け流す度量はない」
「待て!」
「……やれ」
アウロスがらしくない大声で止めようとしたが、最早後の祭り。
ルンストロムは表情こそ崩していなかったが――――その目はもう、真っ赤だった。
「ボサッとしていないで攻撃態勢を」
ゲオルギウスの右手を包む光が濃さを増し、その光が持ち上がっていく。
ルインはその様子に、口元を緩めた。
「お前……!」
「他人の心配をする余裕はない筈でしょう? 貴方には」
ずっと――――
ずっとルインは負い目を感じていた。
アウロスに対して母親がした事を、負い目に感じていた。
そしてその負い目がある限り、本当の意味で本心を差し出す事は出来ないと、そう感じていた。
「私は満足よ。ここで貴方を生かせるなら」
光は、静かな微笑みを融かすように――――霧散した。