第10章:アウロス=エルガーデン【下】(53)
――――その音は不快だった。
魔術士なら例外なく苛立ちを覚える微かな、しかし確実に耳を、そして頭の中を蹂躙してくる音。
空気の微振動に由来する魔術の発動時の音だった。
勿論、それがただの魔術であるなら、嫌悪感や忌避感を抱く筈がない。
だが今し方エルアグア教会に響いたのは、あからさまな――――制御不完全な魔術が奏でる不協和音だった。
発信源は、ルンストロムの隣で佇んだままのゲオルギウス。
ローブの袖で覆われた右手の人差し指が、布越しに淡い光を放っている。
それは――――アウロスがよく使う手段。
ルーリングを相手に悟らせないよう、なるべくその手を隠して編綴を行う。
魔術士として潔さがないとしばしば揶揄される一方で、最小限のルーン数で魔術を発動出来るオートルーリングとの相性は抜群だ。
そして、今ゲオルギウスが使用したのも、そのオートルーリング。
アウロスは直ぐにそれを感じ取った。
オートルーリング仕様の魔具だからといって、魔力の霧散現象や空気の微振動といった魔術発動時特有の現象が通常と異なる、という事はない。
しかも袖に覆われ、魔具をしているであろう指は全く見えない。
だがわかる。
親が子を一瞬で見分けられるように、生みの親なればこその理論を超越した直感によって――――である筈もなく、アウロスは状況のみでそう判断した。
「模造品か」
「その通りです。正確には、模造品の模造品ですがね」
ルンストロムの声には、今まで見られなかった高揚感の欠片が存在した。
オートルーリング専用魔具の製造方法を記載した論文は流れに流れ、最終的にはデウスの元へと漂着した。
以降、デウスがずっと保管し続け、現在はそのデウスがアウロスへと譲渡した為、本来の持ち主の元へと還っている。
ルンストロムがその論文を目にする機会は一瞬たりともなかっただろう。
だが――――デウスがザンブレア総合魔術研究所で製造させていた魔具なら
入手する方法はある。
豹変し、デクステラと共に行動していたマルテが持ち出していたのだから、保管は決して厳重とは言い難い物だったのだろう。
或いは、テュルフィングが手ほどきをしていた可能性もある。
もしそうなら、ルンストロムが模造魔具を手に入れるのは容易。
かなり早い段階で入手していたのだろう。
そして同時に気付く。
この模造魔具には欠陥があり、そしてその欠陥故に融解魔術の制御は不可能だと。
「ルーン配列情報の記録が変質する可能性有り……そのような魔具では、夥しい数のルーンを必要とする融解魔術を制御出来る可能性はないに等しいので、改良を施したのですよ。無論、世界最高峰の魔具専門家に依頼して」
ルンストロムの地位にいれば、それくらいは出来る。
秘密裏に、しかも邪術専用の魔具を真っ当な技師や研究者が携わるのはあり得ない――――
そんな綺麗事が通じる世界ではないのだから。
「とはいえ、やはり前例のない特殊な研究。しかも設計図たる論文はなく模造品のみ。難航するのはやむなし、といったところでしてね……出来れば原物が欲しかったところです」
原物――――すなわちアウロスが今持っている魔具。
ただ、原物はこれだけではない。
模造品の欠陥が材料の保管方法にある事は、世界最高峰の研究者なら直ぐ気付くだろう。
なら、この地域以外で作られた物――――ウェンブリー魔術学院大学で製造された物なら欠陥なく使用出来る。
「手に入れる方法はあっただろ?」
アウロスの言う意味を、ルンストロムは即座に理解した。
つまり、自身の持つ権力で大学に命じればいい。
先日論文発表されたオートルーリング用の魔具を寄越せ、と。
「君も一杯食わされた口なのでしょうが、あのミストという男は曲者ですね。
何度も要求したのですよ。論文の件は水に流す、その後の身分も保証する。
だから魔具を送れと。現地派遣も試みたのですがね」
「あの男が首を縦に振る筈がないでしょうね。完成品を一つでも与えれば、そこから量産するくらいの事は出来る。例えそれが新規の技術でも」
ルインの発言は、ラディですら納得するほど単純明快な内容だった。
ミストはオートルーリングという最新鋭の技術を使って、この国の上層部と駆け引きをしている。
自分が成り上がる為に。
そんな彼が、自らの切り札を安売りする筈がない。
何より、権力に屈し自身の野心を鎮火させるような可愛げのある人間ではない。
そしてルンストロム自身は、選挙活動の為に自ら赴く時間も余裕もない。
その結果、マラカナンにいるアウロスの魔具が、唯一の入手可能な原物となった。
「理論さえ蓄えておけば、後は原物を手に入れるのみ。融解魔術をその魔具に記録するのは相応の時間が必要ですが、その方法さえ提示すれば『融解魔術を制御出来る』証となりますからね。選挙当日までに必要なのは、そこまでなのですよ」
そう告げた刹那、ゲオルギウスの右手から光があふれ出す。
そして同時に、彼の手を覆っていた袖が――――微かに融け出した。
「模造の模造故に、発動する力は微弱。発動まで時間がかかり、制御もままならない。今このゲオルギウスが綴った融解魔術は、融解魔術と呼べるようなものではありません。抑止力にも、その他の分野への応用も不可能。しかし……人間数人を遺体なく消滅させる程度の効果は十分に期待できるのですよ。デウスのような絶対的魔力量がなくとも」
それが――――具体的な宣戦布告の声となった。
同時にアウロスは、ルンストロムがここへ自ら足を運んだ最大の理由を知る。
これは、実験なのだろう。
融解魔術が人間をどのように融かすのか――――それだけの実験。
だが研究者の性として、実験に立ち合う事を望んだ。
紛れもなくルンストロムは研究者。
政治家であり研究者だった。
そんな人物が、自分の地位と名誉、そして研究成果の確認を一度に満たそうと目論んでいる以上、情けや道徳が通用する事はない。
ゲオルギウスが融解魔術を解き放った瞬間、身体は次第に融け出していくだろう。
だが、その右手はかざされる事なく、袖は肘の辺りまで融けてしまった。
「フフン」
その様子を、ラディが鼻で笑う。
ただし、緊張は解かないまま。
「どうせ脅しなんでしょ? ロス君の指輪が目的なんだから、それごと融かしちゃうなんて出来っこないもんね!」
若干声は震えていたが――――その指摘は正しい。
だが、矛盾を突かれた筈のルンストロムは、余裕の表情を崩さないまま威風堂々とラディを見下していた。




