第9章:アウロス=エルガーデン【上】(10)
戻ってこい――――そんな言葉を、アウロスはこれまで一度としてかけて貰ったことはなかった。
いつだって、切り捨てられてきたから。
親からも。
教授からも。
魔術士からも。
時代からも。
さよならの言葉を言わなかったのは、友だけだった。
「お前の目的は知っている。俺の手元にあるオートルーリングの論文だな。
しかも、ただあれを手にするだけでは意味がない。ファーストオーサーの名前をミストからお前に変えなければならない。そうだな?」
アウロスは返答しない。
単なる息継ぎに等しい確認なのだから当然だ。
「ならば話は早い。俺の元へくれば、論文はお前に返そう。俺の目的が済んだ後にな。それでも問題はないだろう。そして、ファーストオーサーに関しても、俺がこの国の王となった後に便宜を図ろう。王ともなれば、たかが一論文のファーストオーサーなどどうとでもなる。何も問題はない」
デウスは敢えて、ロベリアがいるこの場でアウロスを誘っている。
それが有効だと知っているからだ。
そしてアウロスもまた、それを理解している。
事実、隣にいるフレアが不安そうな目でアウロスの返答を待っている。
その不安は、ロベリアへ伝搬する。
アウロスがデウスについたところで、政局は変化しない。
が、娘の落胆は父に少なからず傷を負わせる。
この交渉の場には、そういう付加価値もある。
そして、今ならわかる。
ここに至るまで、デウスが敢えてわかりやすい流れを作ってきたのは、アウロスを懐柔しやすい空気を作り出す為だと。
交渉は環境作りが重要だ。
問題は――――
「どうして、一度離れた俺を呼び戻す必要がある? お前のメリットは何だ?」
デウスの得る利。
アウロスの問いかけに、デウスは若干目を狭め、柔和な顔で答えた。
「素直に答えよう。お前の持つその魔具だ」
それは、想定内の返答だった。
「俺はオートルーリングを必要としている。臨戦魔術士として、この技術はこの上なく魅力的だ。重要なのは実戦で使える技術だということ。それを実証するには、専用の魔具が必要だ。だがミストは安易に与えてはくれないだろう」
その読みはアウロスと同じ。
可能性大といえる。
「となれば、オートルーリングを実践する為にはお前が必要ということになる。極めてシンプルだ。お前も、それを想定していたはずだ。どうだ?」
その指摘にも誤りはない。
アウロスは沈黙で肯定した。
「それに、お前がいると俺が楽をできる。四方教会時代に実証済みだ。俺が王になれば、相応の地位も与える。断わる理由は……そうだな、俺が突然、お前を切り捨てるという不安くらいか」
まるでアウロスの過去を見てきたかのような、ピンポイントでの指摘。
一瞬、奥歯を噛みそうになったアウロスは、必死でその衝動を抑えた。
「だが、それはない。切り捨てられない地位に就いて貰うつもりだからな」
「そんな地位、付き合いの短いこいつに与える訳ない。嘘だ」
そう反論したのは――――フレアだった。
珍しく、感情的な声。
アウロスは少し驚きつつ、デウスの返事を待った。
「確かに、他の部下のように付き合いは長くないな。だが……俺は誰よりもその男を買っている。理由も言えるぜ。闘えるからだ」
それは――――デウスが何度も主張する、臨戦魔術士の重要性と重なっていた。
「臨戦魔術士としての才能は、魔力量を考えればないに等しいだろう。だが、魔力量で魔術士としての才能を図る時代は終わる。戦場で実際に必要なのは、どの魔術をどのタイミングで使うかという判断力。戦局を見極める目。そして何事にも動じない胆力。使える魔術の豊富さも、言うまでもなく大事だ」
アウロスは、それらを全て持っている――――デウスはそう言っている。
「臨戦魔術士とは本来、お前のような魔術士に与えられる役目だ。だからこそ、俺はお前を懐に収めておきたい。俺の次の王の為にな」
「……次の王?」
眉間に皺を寄せたまま問うフレアに、デウスは敢えて答えなかった。
「無論、お前なら政治力も身につけられるだろう。そういう意味でも有用だ。魔具も欲しいし、人材も欲しい。文句の付けようがない理由だろう?」
デウスのアウロスに対する評価は、相当に高い。
過剰評価とさえ言えるほどに。
ミストの期待とは明らかに違う。
何より異なるのは、ミストとは違い、デウスがアウロスを切るメリットがないこと。
せいぜい、アウロスがデウスに取って代わって王となろうとする場合にそれが生まれるくらいだ。
当然、そんな要求はアウロスにはない。
ただ、名前を残したいのだから。
ただ――――
「時間はくれてやる。好きなだけ悩ん……」
「お断りだ」
アウロスは、デウスの締めの言葉を待たず結論を出した。
これは、流石のデウスも想定していなかったのか、一瞬顔が歪む。
してやったり――――等とは思わない。
言葉遊びの時間はとうに終わっている。
「……理由を聞こうか」
「そう難しいことじゃない。至って単純だ」
アウロスは椅子に腰かけたまま、デウスを睨みつけ――――
「お前は研究者を嘗めてる。魔術について何もわかっていない」
そう断言した。
デ・ラ・ペーニャ屈指の実力を誇る臨戦魔術士へ向けて。
「王になれば、たかが一論文のファーストオーサーなどどうとでもなる。そう言ったな。本当にそう思っているのなら、研究者を嘗めているとしか言いようがない」
「どうとでもできない……そう言いたいのか?」
「若くして教授にまで登りつめたミストが発表した論文だ。王だろうが教皇だろうが、ミスト以上の権力を持った人間がそれを否定すれば『勢いのある若手を封じ込める為の卑劣な行為』に映る。そしてそういう行為は研究の世界では……珍しくない」
「押し通せばいいだろう。卑劣だと言わせておけばいい。何を言われようとお前がオートルーリングを実用化させた事実は動かないのだから、それを王の名の下に、正当に主張すればいいだけの話だ」
「それじゃ、研究者の歴史に名前は残らない」
そう断言したアウロスに対し――――デウスは目を丸くし驚いた。
「ほう……お前、歴史に名を残したかったのか。そんな野心があるタイプには思えなかったが……」
実際には、野心とは程遠い願い。
だが、アウロスは一切、否定の言葉は発しなかった。
意地でもない。
理性でもない。
ただ真っ直ぐに前を見る目だけが、そこにはあった。
「お前の本当の目的はわかった。だが、その理屈だとお前がファーストオーサーに返り咲く可能性はないに等しいんじゃないか?」
デウスの指摘はもっとも。
ミストより権力のない人間が論文の所有権を変更させるのは不可能だし、それ以外の方法となると、アウロス本人が真っ向からミストに反論する形で新たに研究発表会の場で『自分の研究』だと主張し、他の研究者および魔術学会を納得させなければならない。
だがアウロスには、その納得を得るだけの力はない。
権力も財力も、魔術士としての格も研究者としての実績もないのだから。
冷静に考えればわかること。
状況は絶望的であると――――
「ない訳じゃない」
しかし、アウロスは努めて冷静にそう答えた。
「希望はある、ってか? 奇跡でも起こさない限り、無理だと思うぜ」
「奇跡なんてものは、ただの偶然の一群に過ぎない。そんなものに頼る必要はない」
アウロスは立ち上がる。
その目はデウスの顔を捉えている――――が、見ているのはそこではない。
遥か先。
もう決して長くはない道のりを経て辿り着く、最果ての場所。
「要は、俺がミストを凌ぐ研究者と思われれば良い話だ。その上で、堂々とオートルーリングは俺が生み出したと主張すれば良い」
「どうやって? これから長い年月をかけて、ミストを超える研究者になるか?
大学の最年少記録を作った男を超える気なら、応援くらいはしてやるぞ」
呆れ気味な口調だが、デウスの目は決して笑ってはいなかった。
そんな教皇の血を引く稀代の魔術士に対し、アウロスは告げる。
「俺は……」
堂々とした顔つきで――――
「賢聖になる」
――――と。