第9章:アウロス=エルガーデン【上】(6)
もう少しで目的が達成できる。
長年積み上げて来た苦労が報われる。
ようやく、顔向けができる――――
その寸前、全てが闇に帰した。
忘れもしない、あの日。
「本日付けで、君を解雇する」
自分を絶望へと追いやったミストの声が、頭の中に響きわたる。
ミストに研究を奪われた際、アウロスは苦悩の果てに次善策を模索した。
つまり、オートルーリング以外で名を残す方法。
だがやはり、それではダメだという結論に至った。
できることをやる。
できないことはやらない。
可能性が皆無ということは、文字通り絶対に達成できないことであり、それをやり続けるのは時間の無駄、労力の無駄、人生の無駄でしかない――――その考えに変化はない。
アウロスは昔からずっと、そう思い続けている。
合理主義だから当然だ。
けれど、可能性というものは、推察でしか計れない。
客観視したからといって、それが正しい訳でもない。
そして何より、可能性は不変でも不可逆でもない。
揺蕩うものだ。
事実、論文がマラカナンに流れたと知った時、アウロスはその揺れ動く様を目の当たりにした。
まだ終わっていない。
可能性は残された。
もし、流れた本物の論文を入手できたならば、それを盾に、或いは矛にして自分がオートルーリングの開発者だと主張することはできる。
勿論、既にミストは自分こそがファーストオーサーだと発表会で断言している為、身分のないアウロスの発言など殆どの人物が耳を貸さないだろう。
けれど、あくまで『殆ど』だ。
ミストは論文内に記したオートルーリングの知識は全て頭に入れているだろう。
だが、アウロスの頭の中にある、オートルーリングについての考察は持ち合わせてはいない。
アウロスは、常にオートルーリングについて考えてきた。
この技術が魔術士にどれほどの恩恵をもたらすか。
市場にどれくらいの規模の変革を生み出すか。
そして――――どうすれば、オートルーリングに対抗できるか。
オートルーリングを使う魔術士と闘うならば、どう対処すれば有効か。
更に、オートルーリングによる魔術士の発展にどのような落とし穴があるか。
そういった、負の遺産にまでも考えが及んでいる。
オートルーリングに欠点はない。
専用の魔具は大量生産も可能だし、誰にでも扱える簡単な技術だ。
だからこそ、その技術が邪魔となる魔術士も少なくない。
例えば、臨戦魔術士にこれ以上権力を渡したくない人物だっているだろう。
ルーリングの速さに自信のある魔術士なら、自動化によって画一となる状況は到底受け入れられないはず。
もし、アウロスがそういった人々に訴えればどうなるか。
あの技術は俺が開発した。
でも、必ずしも魔術士の未来を明るくするとは限らない――――と。
そうすれば、自ずと新たな環境を生み出すことができるかもしれない。
オートルーリングの生みの親が、オートルーリングを収束させる――――そういう歴史の中に、名を刻むことができるかもしれない。
その為に、論文は必ず必要だ。
原本を持っていること、何よりそれが『開発者』としての最低限の証。
話を聞いて貰う為の第一歩となる。
アウロスは、ずっと温めていた解答をルインに全て話した。
「この前言っていた戦力というのは、アンチ・オートルーリング派で尚且つそれなりの地位を持つ人間……?」
正しい解釈をしたルインに一つ頷き――――
「……もしかしたら、これは彼への裏切りなのかもしれない」
ポツリと、そう呟く。
流れた論文を手に入れる。
マラカナンへ赴いたその理由の先にある、本来の、そして最終的な目的。
アウロス=エルガーデンの名を残すには、どうすればいいか。
残された手段はもうこれしかないと、そう結論付けた。
オートルーリングの開発者として名を残すには、オートルーリングを自らの手で無効化しなくてはならない。
この上ない矛盾だ。
オートルーリングの発案者であるアウロス=エルガーデン――――あの壁の向こうの少年に対して、真っ向から対立するようなもの。
果たしてそれが、本当に正しいのかどうか。
「正直なところ、俺にはまだわからない」
「迷ったまま、実行できるの?」
ルインの声からは、いつの間にか苛立ちが消えていた。
「……結論は出さないといけない。そして出せば、それに向かって迷いなく突き進める自信はある。でもまだ結論が出せない」
「そうなると、今の貴方は頼りないのでしょうね。強靱な意志で駆け抜けている貴方でなければ、怖さはないもの」
「怖さ?」
意外な自分への表現に、アウロスは思わず顔を上げる。
同時に、いつの間にか俯いていた自分に気付いた。
「大学時代の貴方には、確かに怖さがあった……ように思う。危うさ、と言えるのかもしれないけれど。その危うさは恐らく、敵対する者にとっては相当な脅威だったはず」
「……」
ある意味、実感はあった。
そうでなければ、才能もない、魔力もない、体力もない貧弱な人間が司祭や殺し屋と渡り合えるはずがない。
戦時中にも、きっと相当な実力者が目の前にいただろう。
けれどアウロスの視界には入らなかった。
入れる間もなく仕留めた。
油断を呼び込む自分の幼き外見を最大限に利用して。
当時から、実感があったのかもしれない。
「だとしたら今の俺は、子供の頃より弱いのか」
自嘲気味に呟きつつも、認めざるを得ない部分だった。
マラカナン、そしてこのエルアグアへ赴き、マルテやフレアと出会った今の自分が、大学時代ほどの強固な意志を発揮できないかもしれないと。
まして、鋭利に磨いだ針のように全てを捨てて猛進していた戦時には到底及ぶべくもないと。
だが――――
「それでも、迷うことは必要だと思ってる」
「……なら、迷いなさい。心ゆくまで。見届けてあげるから」
ルインは納得したかのように、何処か晴れやかな声でそうアウロスを激励した。
確かにそれは激励だった。
あの魔女が、死神を狩る者が、激励の言葉をくれるなど昔の姿からは想像もできず、アウロスは内心苦笑を禁じ得ない。
なんとなく照れ臭くなり、視線をルインから外し、景色を眺める。
「今の一番人気はルンストロム首座大司教ですよー! さあ早い者勝ちだ!」
盛んに賭博が行われているらしく、左側の路上では先程の酒場とは違う胴親が賭けを促す呼び込みを行っている。
一方、右側では妙な人集りができていた。
「我々は、新たな教皇に何も期待してはいない! 一部の老人による利己的な選別で定められた代表など、認める訳にはいかないのだ!」
どうやら、教皇君主制への批判らしい。
教皇選挙などの節目にはよく見られる現体制への反発。
そういった政治活動に関して、アウロスは一切興味がなかったが――――
「我々の救世主たる者は、確固たる実績を残した【賢聖】のみ! 早急に賢聖の復活を望む!」
声高にそう叫ばれた言葉には、引っかかるものがあった。
大学時代、帰り道の途中に偶然ミストと会った際、交わした会話の中にあった言葉。
――――賢聖。
目覚ましい業績を収めた魔術士の栄誉を讃え、贈られる魔術士最高の栄誉であり称号。
同時に、今や94年もの間不在となっている幻の称え名だ。
血や権力、財力とは関係のない、純粋な実績にのみ贈られる称号とあって、神格化する国民は多い。
仮に、この賢聖という存在になることができれば、その名は永遠に魔術国家の歴史に刻まれるだろう。
とはいえ、余りに非現実的な称号でもある。
何しろ、94年も不在なのには相応な理由がある。
基準が余りにも曖昧なのが、最たる原因だ。
更にいえば、この賢聖の称号を贈るのが教皇である点も無視できない。
教皇にとって、自分を凌ぐ国民的英雄として称えられる賢聖など、邪魔以外の何者でもない。
基準がない以上、教皇が首を縦に振らない限り、どれだけ待望論があろうとどんな英雄が生まれようと、敢えて贈与する必要はない。
当然、教皇以外の権力者も同じ意見だ。
賢聖を目指す者がいるとするならば、それは世の中の仕組みを知らない者だけ――――
「……賢聖、か」
その非現実的な称え名を、アウロスはポツリと呟いた。