第2章:研究者の憂鬱(7)
魔術の研究は、華々しさや騒々しさに溢れた戦場での魔術士とは正反対の、地味で繊細な作業が多い。
それは実験であっても例外ではなく、地道なデータ収集とそれに伴う様々な状況創作は、実に面倒極まりないと言われている。
「はい、せーの!」
例えば【水中における各属性魔術の吸収率】を調査する場合。
まず長さ3メートル程の巨大な水槽を用意しなければならない。
「重い……」
「ホラもっと腰に力入れて」
中に水は入ってないものの、相当な重さなので学生の力も借りて、倉庫から運び出す。
「次はこれ。テキパキお願いね」
「は、はい……」
次に必要なのは、中に入れる水。
長さと比べて幅や高さはそれ程でもないが、それでも中をある程度満たすには1000リットル程度の水が必要で、
その量の水を地下水路から汲み取って来なければならない。
10人でやっても1人20往復はしなければならず、相当な重労働だ。
貯水施設で実験が出来れば楽なのだが、魔術が水にどう言った作用を及ぼすのか不明瞭である以上、その許可が下りる筈もない。
自前で作るしかないのだ。
「はいご苦労さん。次はこれお願い」
「……」
実験に使われる道具も、多種に渡っている。
例えば、今しがた倉庫から引っ張り出されている金属製の盾も、その一つだ。
その金属は、出力された魔術に含有されている魔力を吸収し、吸収した量に比例して重量が増える性質があるもの(限界値あり)。
よって、この金属の盾に陸上と水中で全く同じ魔術をぶつけ、その重量の差異を計る事で、水中での伝搬損失がわかると言う仕組みになっている。
「はい、学生の皆はここまでで終わり。ご苦労様でした」
クレールのその声に、ヘルプで来ていた学生7名から歓喜の咆哮が上がる。
このように、大学における魔術の研究実験は、力仕事も多い為、しばしば学生を手伝いに使っている。
アルバイトだったり、後学の為だったり、人間関係だったり、理由は様々。
だが、クレールの場合は適当に声を掛ければ10人前後の男はすぐに集まる。
「美形の人って得ですよね。レヴィさんも簡単に人集められますし」
「と言うか、それなら俺らが手伝わなくても良いと思うんだがな」
水槽の壁を挟んで、重度の筋肉疲労に苛まれ明日が怖いアウロスとリジルは同時に嘆息した。
特に、盾を装備して腰まで水に浸かるアウロスの息はやたら重い。
「出来るだけ学生には頼りたくないのよね。色々と面倒だし。貴方達の実験も手伝うから、余り文句言わないで」
「了解。で、俺はここに突っ立ってればいいのか?」
学生は帰ったが、それは準備が終わったからで、実際の実験はこれから始まる。
「ええ。一応忠告しとくけど、決して気を抜かないでね。その盾で受け損ねて身体に当たっても、責任取れないから」
「実験中の事故って、色々難癖付けられて、労災下りない事あるんですよね……」
縁起でもない言葉の協奏に、アウロスのストレスはグングン上昇して行く。
「それじゃ、始めましょう」
そんな見えない負の力を無視し、クレールもサクッと水槽の中に入った。
腰の辺りまで水に浸かり、ローブが水に漂う。
大抵の人間は濡れるのが嫌なものだが、魔術の実験には濡れる、汚れる、燃える、破れると言った出来事は日常茶飯事なので、
いちいち躊躇などしていられない。
無論、女性のクレールも例外ではなかった。
「今日はどこまでやるんだ?」
「赤魔術を全部終わらせるつもり。【炎の球体】と【火影】、【鬼火】、【炎の旋律】……あと【火界呪】あたりもやっとこうかな。それぞれ十回ずつ」
クレールが今挙げた魔術は、それぞれ初級~中級の赤魔術だ。
一度の編綴辺り5~15S程度の魔力を消費する。
実戦で使用される頻度の高い魔術ばかりだ。
「サンプルは代表的な魔術で固めるのが定石ですけど、それだと多くないですか?」
「多いに越した事はないのよ。本当なら全ての赤魔術を試したいくらい」
「でも、そこまでしなくても統計学的に十分理論値は出せますし」
リジルの疑問に、クレールは微かに目を細める。
そこからは、余り感情は読み取れない――――筈なのだが、アウロスはその所作に強い意志を感じた。
「普通はね。でも私は嫌なの。可能な限り詳細で綿密なデータが欲しいし、実験も出来るだけ実際に使われるのと同じ状況下の元でデータを取りたいの」
「なるほど~。すごく立派ですね」
クレールの言葉に、リジルはほんの一瞬――――決して良い意味ではないであろう笑みを浮かべた。
水槽内のクレールには見えなかったが、アウロスはその笑みからすぐに純朴っぽい笑みに上塗りする様まで、一部始終をジト目で眺めていた。
(あいつ、あんな子供じみた外見で、腹の中は相当黒いのか)
しかし、ここは大学。
腹黒い人間など、石を投げれば大体当たるくらいの場所だ。
よって特に気にする事もなく、クレールと向き合う。
「……ところで、それだけの魔術をあんた一人で全部編綴するのか?」
「勿論。私の魔力量は貴方の五倍くらいあるし」
しれっと現実を突き付ける。
アウロスは微妙にストレスのゲージを上げた。
「そろそろ準備して。始めたいから」
「……了解」
基本的に、赤魔術は水に弱い。
クレールの放つ魔術は水中で消えはしないまでも、大きく威力を落とし、アウロスの持つ盾に当たる頃にはかなり威力が弱まっている。
それでも、身体に当たれば多少は痛いし、火傷にもなる。
水中を一直線に突き進む炎の塊を集中して何度も受け続けると言う作業は、何気に体力よりも精神力を消費させた。
何度も何度も繰り返される、赤魔術の襲来。
炎が盾に当たる度に、熱が霧散し肌を炙る。
(熱い……)
炎が来る。
何度も、何度も、襲ってくる。
何度も――――
――――熱い。
少年が最初にその感覚を憶えたのは、生を受けて数年の後の事だった。
ほぼ同時にその対義語となる感覚も憶えた。
痛覚に直結するこれらの心的現象は、毎日、四六時中身体を蝕んだ。
意識の覚醒と遮断の狭間にあるのは、それらの感覚が主だった。
熱い。冷たい。痛い。痛い。熱い。痛い。冷たい。痛い。痛い。痛い、痛い――――
表現はされても主張される事のない感情には、慈悲などない。
しかし、それこそが慈悲であった。
「……いたい、よお」
誰もいない部屋。
部屋と呼ぶには、余りにも何もない空間。
空間と呼ぶには、余りに密度の濃い世界。
そして、世界と呼ぶには――――余りに慈悲のない領域。
だからこそ、声を出す事が許される。
何の反応もないこの場所だからこそだ。
「いたい、いたい……」
連呼する毎に、その言葉の意味は崩壊していく。
崩れ落ち、混ざり合い、別のものを形成する。
例え無慈悲な世界でも、そこに在る限り意味は生まれる。
それは誰が教えなくても、誰しもが持つ希望。
それが惰性の延長であっても。
「いたい。いたいよお」
故に、唱え続けた。
本能的に訴え続けていた。
或いは、言い聞かせていた。
日々は刹那的で、連続的だ。
――――熱い。
変わらない訳ではないが、本質に変化のない感覚は、例え苦痛であっても慣性化してしまう。
程度や時間は然程意味を成さない。
そこに何かを見出すには、他の何か――――例えば歓喜の歌のような、特別な感情を湧き出させる外力が必要だ。
しかし、ここには何もない。
磨耗する日々。
光もあれば闇もある。
色もあれば音もある。
しかし、全ては一つのベクトルでしかなかった。
それを認知する機能が判別しているに過ぎない、単なる事象。
産声は、上がらない。
「――――性係数――――摩擦は――――それを――――」
代わりに、音が響いていた。
自分の支配下にない音。
それ以外の認識が不可能な、唯の音。
遥か以前にそう認識され、変わる事はない。
何も、変わる事はない。
ただ、続いていた。
――――熱い。
そんな日々が、いつまで続いていたのだろうか。
ある時の事だった。
(……あれ?)
繰り返す感覚の中に、自我が芽生えた。
主張する。
これはこうだと。あれがああだったと。
比較する。
これとあれはこう違う、と。
それは変化だった。
劇的な誕生だった。
――――これはなに?
産声を上げた。
好奇心。洞察。行動理念。探究心。考察。思案。
そして、こころ。
それが何かを知った時。
衝撃が、身を包んだ――――
「……あ?」
無意識の声。
アウロスはそれが自分の声だと認識するのに2秒を要した。
そして、それは脳が覚醒したばかりである事に起因するものだと理解するのには、更なる時間を要した。
開けたばかりの目が映すのは、薄茶色の天井と炎の灯っていないペンダントライト。
それが、現在の状態をある程度把握する為の材料となった。
「つつ…」
ゆっくりと身体を起こし、視界を回す。
直ぐに飛び込んで来たのは、並んで配置されているベッド。アウロス自身もその上にいる。
研究室より少し広いその空間には、計4つのベッドがある。
それで、この場所が何処であるかを理解した。
最も多くのベッドが必要な部屋、すなわち――――保健室。
「あらあら、起きましたか」
見知らぬ顔。
しかし場所を特定した時点で、眼前の人物――――女性が誰であるかも、アウロスには容易に想像出来た。
「ああ、私怪しい者じゃありません。校医のシーダ=マルラーレンです。初めまして」
「はあ」
まだ起き切れない事もあり、丁寧な自己紹介を受けたにも拘らず、生返事をしてしまう。
しかしシーダは気にする様子もなく、温和な笑みを浮かべていた。
「何があったかわかりますか?」
「……気絶してた感はあるけど、具体的にはイマイチ把握出来てない。おおよその見当はつくけど」
右肩辺りに馴染みのある痛みと突っ張る感覚、そして後頭部に鈍痛がある事に気付き、小さく息を落とす。
「実験中の事故との事です。魔術が肩に当たって、その衝撃で頭を背後の水槽の壁にぶつけたみたいですね」
校医はテキパキと説明しながら机に向かい、何かを書いている。
診断書のようだ。
「施療院に行く程の怪我じゃないので、ここで処理しておきましたから……はい、これを」
手渡される。
その書類にはアウロスの名前、診断名(右肩の第Ⅰ度熱傷、後頭部打撲)、全治1週間の見込み、などと言った記載がされていた。
「労災が適用されれば、これを事務の方に提出しなければならないので、手数料が発生します。と言っても2ユロー程度ですけど」
「むー……」
2ユローと言う金額は、社会人にはタバコ銭なのだが、無駄な出費による喪失感は小さいストレスを生む。
アウロスはその要因の一部である人間の顔を思い浮かべた。
「ところで、俺をここに連れて来た人は?」
「ああ、何でも労災の手続きをするとか言ってましたので、恐らく闘いへ赴いたのだと思います」
「闘い?」
「実験中の事故で労災が下りるか否かは担当者と当事者の交渉次第なので」
交渉とは、剣も魔術も使わない戦争――――そう言っても過言ではない。
それは唯の駆け引きではなく、自己を防衛し標的を陥れる闘争である。
闘いと言う表現は形容ではなく、文字通りの意味だ。
その一方で、両者が落とし所を見つける譲り合いの作業、相手の性質を見極める上で最も優れたコミュニケーションと言う定義もあるのだが、
それはほんの一面。上っ面でしかない。
「まあ、仮に下りなかったとしても、それ程の負担ではありませんから。ご安心下さい」
「と言うか、金銭が目的じゃないと思います。多分」
「と言いますと?」
その闘いにクレールが赴いた理由。
それは――――
「労災が下りるのなら、唯の事故。ですが、下りなければ実験者の過失として周りに広がりますから。まあそれだけの事ですけど」
「そう言う事ですか。大変ですね、研究者の方々は」
体面を護る為に、あらゆる手段を講じる。
大学に身を置く人間の身嗜みだ。
「さて、それじゃ……」
「アウロスくん!」
特に休息を必要としないと判断したアウロスが部屋を出ようと、声を上げた刹那――――クレールが険しい顔で入室して来た。
「良かった。気が付いたの」
「あ、ああ……」
慈悲に満ちた言葉とは裏腹に、刺々しい殺気を帯びている。
と言っても、それはアウロスに向けられたものではない。
まだ交渉の途中のようだ。
「それじゃ、まず私の非を謝ります。正確に盾を狙えなかったのは私の落ち度。ごめんなさい」
優雅さの欠片もなく一礼。
重力などお構いなしに、下げた速度より早く頭が上がる。
「で、それを前提として言わせて貰うけど……」
「どうぞ」
「気を抜くなって事前に忠告したでしょう!? もしもの事があったらどうするの!」
予感はあったものの、クレールの剣幕にアウロスは一瞬身体を強張らせた。
その17歳の研究者は、詰られたり中傷される事は珍しくないのだが、叱られた事は滅多にない。
何故なら――――叱ると言う行為は教育の一環であって、関心のない人間に対して行われるものではないからだ。
「……悪かった。危うくあんたと研究室のキャリアに傷が付くとこだったな」
「そう言う謝り方、可愛くない」
動揺を隠す為に敢えて皮肉げな物言いをしたのだが、余り効果はなかったらしい。
「いい? 実験には死とか後遺症とか、そう言う人生をダメにする危険と常に背中合わせなんだから。自分のミスを棚に上げて何言ってんだこのアマとか思ってるかもしれないけど、これはちゃんと聞いて」
そんな事は全く思っていなかったが、ここは空気を読んで沈黙する。
「実験中に気を抜いちゃダメ。わかった?」
「……」
アウロスは先の科白との矛盾を感じ、少し混乱を覚える。
果たしてこの説教は、親しくはなりたくない人間に向けてのものなのだろうか――――?
「何。文句ある?」
「……いや。次からは気を引き締める」
その答えを聞かないまま、生徒の面持ちでクレールの叱咤を受け入れた。
「そ。じゃ、これにちゃっちゃっとサインして」
「これは?」
「申請書。これ出さないと労災下りないのよ」
どうやら交渉は上手く行ったらしい。
アウロスは色んな意味で感心しつつ、校医から借りた羽ペンで書類にサインし、それを手渡した。
「手続きは全部私がやるから、貴方は暫く寝てなさい。軽傷でも怪我は怪我だから」
「実験は?」
「今日の分は殆ど終わってたから問題なし。明日も勿論付き合って貰うから、しっかり養生してね」
それはクレールなりの気遣いだった。
しかし、アウロスにとってそれが必ずしも有り難い言葉とは限らない。
(何なんだろうな、この人は……)
部屋を去る背中を眺めつつ、アウロスは心中で嘆息する。
ミスト研究室には変わり者が多いと言う事を、改めて実感した。
そんな今更ながらの認識に苦笑いを浮かべている最中――――
「……?」
部屋の外に人の気配。
が、すぐに薄れ、次の瞬間には消えてしまった。
「どうされました?」
「いや……」
その気配には攻撃的な感情が若干含まれていた。
しかし、それだけで気配の主を特定できる筈もなく、アウロスは気張った身体を脱力させて呻く。
「何か、色々と疲れた……」
「でしたら、暫くここで休んで行っては?」
「そうします」
アウロスの同意に、校医が何故か喜びの表情を浮かべる。
「な、何ですか」
「ええと……実はですね、私、実験で怪我しちゃうようなドジッ子が大好きな人でして」
「……」
「あの、はう~とか言って貰っても宜しいですか?」
「宜しくない」
「つれないです……」
アウロスはドジッ子の称号を得た!
結果的に、この件がアウロスの評価をコネっ子と言う設定と近付ける事となったのだが――――余り喜べなかったのは言うまでもない。