第9章:アウロス=エルガーデン【上】(1)
【ウェンブリー魔術学院大学】
そう銘打たれた学究的建築物は、大学と言うより館に近い外観だった。
神秘性を保ちつつ、それでいて何処か生活感の漂う空間。
だが、中にはその両方を全否定しかねないほどの重厚な、そして濃厚な理非曲直が存在する。
魔術大学なくして、魔術の研究は未来を成し得ない。
それは魔術国家デ・ラ・ペーニャの未来そのものでもある。
だが、そこに本来あるべき道徳や正義は所々が虫食いだ。
この複雑怪奇な空間を、たった一言で表現する便利な言葉がある。
「すなわち、野心」
それを告げたリジル=クレストロイの目は、まるで誰彼構わず牙を剥く猛り狂った狼のように鋭く、同時に珍しい昆虫を見つけた幼児のように穏やかな丸みを帯びていた。
「野心の塊のような貴方が身を置くに相応しい場所ですよ、ここは」
「ならば、本来お前もここにいるべきじゃなかったのか? リジル」
「そうですね。本音は、もう少しだけ大学生活を満喫したかったかもしれません」
肩を竦め、さも冗談を冗談だと誇示するかのように、リジルはわざとらしく微笑む。
その瞳の中に映る、この空間を支配する魔術の有識者――――ミスト=シュロスベルは、強面の顔を更に強張らせていた。
「まさか、こうも早く私の元に現れるとはな。その顔はどれほど分厚い皮に覆われているのかね?」
「随分、教授らしい言葉遣いになったじゃないですか。地位が人を作るとはよく言いますが、正直滑稽ですよ」
「……成程。どうやら宣戦布告でもしに来たらしい」
そう言いながらも、ミストは好戦的な態度は一切とらない。
そしてリジルもまた、表情を変えなかった。
「私と敵対するのか? あの時のように?」
「あの時……例の研究発表会のことですね。確かに僕は、どちらかというとアウロスさん寄りの心境でした。貴方のやり口がやや気に入らなかったことも多少は関係していますが」
「ほう。出し抜くことにかけては第一人者のお前が、か」
「近親憎悪とでも解釈して下さい。ですが、今回に関してはそれは該当しません」
リジルは緩んでいた口元を引き締め、ミストの眼前にある机を指でトントン、と叩く。
まるで苛立たしげに。
「……邪術に手を出すとは、少々驚きましたよ」
そして、今度は丁寧な口調とは真逆の視線をミストへ向けた。
「何のことだ?」
「惚ける意味はありませんよ。僕が何者か、貴方はよく知っているでしょう。トゥールト族の血を引き、魔術士と生物兵器の均衡を保ち続けるバランサー……」
その視線が、ミストの険しい顔つきを捉える。
「当然、此度の皇位継承問題には興味津々です。当人のみならず、その支持団体を全て洗い出す程度には」
「……成程。確かに意味は薄そうだ」
「邪術はこの世界の均衡を著しく崩壊させる、僕達にとって天敵に等しい存在。貴方がそれに目を向けるとなれば、相応の対応が必要となりますが」
「だから、わざわざ辞めた大学に足を運んだ、か。律儀なものだ」
「仕事熱心なんですよ。副業にばかり熱心な誰かさんと違って」
会話中、二人の顔には一度として笑みが浮かばずにいる。
リジルが大学在籍中にはなかったことだ。
「……邪術が必要なのは私ではない。次期教皇候補の男だ」
「デウス=レオンレイですか。彼も中々思い切ったことをする人物ですね。
邪術の中でも悪質な部類に入る融解魔術を就職活動に利用するとは、恐れ入りますよ」
「お前は私を野心家と言うが、奴の方が余程その言葉が相応しい。禁忌の術を手に入れてでも魔術士の頂点に立とうと言うのだからな」
「そんな人物を踏み台にしようとしているのだから、訂正の必要はないでしょう。貴方が何の展望もなく、邪術や皇位継承問題に足を突っ込む道理はない」
断言したリジルに対し、ミストは強張った顔のまま嘆息した。
その姿を見下ろしながら、リジルは細めていた目を更に細める。
「……次期教皇の次の席でも狙っているんですか?」
リジルの指摘に対し――――ミストは根負けしたかのように破顔した。
「飛躍し過ぎだ。そもそも、デウスという男は教皇制ではなく王制を希望しているだろう。ならば、必然的に世襲制が採用される。他人の私がどうやって王座につく?」
「そんな方法、幾らでも思いつくでしょう。貴方ならば」
「それに関しては否定せんがね。だがそれ以外はお前の早とちりだ」
「邪術を我が物にする気はない、と?」
「無論だ。それで魔術士の頂点に立ったところで、今の数千倍の敵を作りかねん。少なくとも合理的ではあるまい」
机に付いた肘を上げ、ミストは両手を重ね後頭部に当てた。
リジルの記憶の中のミストにはない仕草だった。
「……いいでしょう」
「かつての仲間を信じる気になったか?」
「貴方が言語上否定したという事実を認識した、という意味に過ぎません。それに、今の質問がいかに無意味か、貴方はよく知っているでしょう」
「確かにな」
その返事を聞き終えると同時に、リジルは踵を返した。
「もうお帰りかね?」
「これから、隣の国で重要な会議があるんですよ。実に楽しい集いなんです、これが」
「ほう。一度混ぜて欲しいものだ」
「やめておいた方がいいでしょう。貴方が早々に切り捨てた、あの魔術士の権威……ルンストロム氏も、輪の中に入っていますから」
突然現れたウェンブリーの首座大司教の名に、ミストは口の端を吊り上げた。
「余りぞんざいに扱わないでやって下さい。彼は僕の友人なんですよ」
「善処しよう。彼の身分はまだ十分に価値あるものだ」
「利用価値……ですか。たかが一大学の教授が、随分と大きな口を叩くものです」
「それくらいでなければ、野心家とは言えないだろう?」
『俺』も『お前』も――――
そう心の中で付け足し、ミストはリジルの背中に昔を懐かしんだ。
「……それにしても」
背中越しに、リジルはため息混じりに呟く。
「まだ何かあるのか?」
「どれだけ外観を装ってみても、経年によって内面は表層に現れてくるものですね。この大学の外壁、少し痛んでましたよ。腐敗の始まりでしょうね、あれは」
「中々興味深い話だ」
「知り合いに腕利きの塗装屋がいるんですけど、紹介しましょうか? 少々奇妙な術を使うのと、性格に難がある点には注意が必要な曲者ですが」
「……遠慮しておこう。お前が曲者と表現するのなら、そいつはきっとこの世で最も捻くれた人物に違いない」
「いえいえ、貴方ほどではありませんよ。ではまた、事が片付いたら遊びにきます」
最終的な表情はお互い知ることはなく――――リジルは教授室をあとにした。
主だけを残した空間に、静寂が訪れる。
だが、それは一瞬だった。
「始末しましょうか?」
一切の感情を排除したかのような、女性の無機質な声。
それが、ミストの机の下――――正確には机の中から聞こえてくる。
「奴は友人だ。それに先程のやり取りはただの言葉遊びの延長に過ぎん」
「そうですか。失礼しました」
声は少し意気消沈したかのように、音量を落とす。
最年少教授、次期学長候補――――そんな肩書きを持つ今のミストは、常に身の安全を守る『護衛』が必要。
ウェンブリー魔術研究大学・第二前衛術科研究員【特別研究員】、ファオ=エリティア。
半年前に赴任した彼女が、現在はその役割を担っている。
直近の護衛が女性である理由は、無限に用意できる。
その中の一つが――――
「それに、お前が奴を仕留めるのは不可能だな。奴は女だからといって気を抜いたり手加減したりする性質の人間ではない。ここにお前が潜んでいることも奴は見抜いていたよ。机を叩いたのがその合図だ」
「……」
ついには沈黙。
机の下に潜る護衛にミストはフォローの言葉こそ発しなかったが、彼女の頭を優しく一撫でし、その手で自身のローブにできた皺を伸ばした。
「さて……これからデ・ラ・ペーニャは忙しない時代を迎えることになる。果たして誰が、その先頭を歩くのか……」
襟元を正し、天井を仰ぐ。
何もない景色に見えるのは、何もない過去の自分。
それから、多くの物を手に入れた。
多くの心を鷲掴みにし、放してきた。
中には、それを惜しむ時もあった。
しかし全ては――――
「……それによってこの国の歴史が決まる。楽しみですね」
――――全てはもう、遺物に過ぎない。
リジルは美しく塗装された外壁を指でなぞりながら、ウェンブリーの空を見上げた。
それは本来、遥か遠くにある別の聖地へと続く青の道。
しかし、この日は色を変えている。
空は、雲に覆われていた。




