第8章:失われし物語(36)
丁寧語の体を成してはいても、何処かぶっきらぼうな口調で話すアウロスの様子に、ルンストロムは顔色一つ変えない。
寧ろ、どこか興味深そうな様子で口元をほころばせている。
アランテス教会ウェンブリー支部に彼が所属していることは事実なので、アウロスの発言内容そのものに動揺する理由はないが、同時に何か重大な秘密を握られているのではないか、と危惧するべき状況でもある。
しかしルンストロムの顔に動揺は一切見られない。
波紋一つない湖の底に、巨大な影が微かに映っている――――そんな、枢機卿ロベリアやデウスとはまた一味違う佇まい。
同じ教皇候補とはいえ、くぐり抜けてきた修羅場と削ぎ落とした人間味の数が違う。
アウロスの双眸には、目の前の老人が人の皮を被った違う生き物のように映った。
「……ほう。いつかね?」
口元を緩ませたまま、ルンストロムは問う。
若造のお手並み拝見――――そんな余裕の笑みだ。
アウロスは思慮の網を張り巡らすような感覚で記憶と知識を手繰り、窓の外から覗く景色を眺めつつ、言葉を吟味した。
「正確な時期は覚えていませんが……一年は経過していないと思います。
たまたま教会に足を運ぶ用件があったんですが、敷地内で少し迷ってしまいまして。
そこで、妙な小屋を偶然見つけて、無断で申し訳ないとは思ったんですが遭難していたこともあって、勝手に入らせて貰ったんです」
「……そこに私がいた、と?」
ルンストロムの瞳は揺れない。
相変わらず動揺など微塵もなく、表情や息遣いに特別な変化も見当たらない。
だが、アウロスは見抜いた。
黙って聞いていればいいものを、いかにもミスリードを期待したかのような誘導。
つまり、アウロスの反応を楽しんでいる訳ではない。
この状況そのものが、自分の思い通りに進んでいるからこその余裕。
ならば、アウロスの発言も想定内。
ということは、アウロスが、かつてアランテス教会ウェンブリー支部に侵入し、ウォルト=ベンゲルの父親が魔崩剣の研究をしていたあの小屋で籠城していた過去を知っている可能性が高い。
つまり――――ルンストロムは、アウロスのことを知っている。
聖輦軍からの報告で名前だけは知っていたのか。
他にアウロスを知る何らかの理由が存在するのか。
もし後者なら、アウロスのことを調べ上げ、オートルーリングの論文の作成者だと突き止めたと考えられる。
ならば、このルンストロムが論文を持っている可能性は十分にある。
危険を冒して、恍けるこの老人を追及する価値も。
「いえ。生憎そこには誰もいませんでした。貴方をお見かけしたのは、その前に教会内で遠巻きに」
「……それと、私が貴方の欲している論文を入手したという貴方の見解とどのような繋がりがあるのですかな?」
眉をひそめるでもなく、眉間にシワを寄せるでもなく、ルンストロムは厚そうな顔の皮を親指で擦りながら問いかけてくる。
それだけの動作なのに、威圧感が滲み出ていた。
加えて、睨むでもなくそこに向けるだけで息苦しさを誘発するかのような、鈍く光る三白眼の眼圧。
一言発するだけで、それらがいちいち自己主張してくる。
アウロスにとっては、余り関わり合いになりたくないタイプの人物だった。
とはいえ、そんなことを言っていられる段階ではない。
窓を横目で眺め、心を落ち着かせつつ返答を練る。
「その小屋で休ませて貰っている時に、外から声が聞こえて来たんです。『もしかして、ルンストロム様が気にかけている例の論文を盗みに来たんじゃ? ルーリング作業の高速化をテーマにしてるっていう……』。あ、会話はうろ覚えなんで、一語一句正しい訳ではありませんので悪しからず」
「……」
ルンストロムの顔に然したる変化はないが、雰囲気は明らかに変わった。
無論、このような実聞はない。
アウロスは確かに小屋に入った。
だが、そこから外の声を聞いた訳ではないし、ましてルンストロムのことを話している声を聞いた事実などない。
ルンストロムの方も、そんな報告は聞いていないと事実のままに一笑に付せばいいだけの会話。
だが、それができない。
できる筈もなかった。
何故なら――――あの小屋には、魔崩剣の研究記録が残っていたからだ。
魔術士を始末する為に生み出された魔崩剣を、魔術士の頂点に立候補しているルンストロムが欲していたという証拠になる。
アウロスがルンストロムに提示したのは、アウロスの欲している論文をルンストロムが持っているという証拠ではない。
魔崩剣の研究部屋であるあの小屋で、教皇レースに多大な影響を与えるであろう秘密を自分が握っている、ということを暗に示していた。
もしルンストロムがそこに気づかなければ、アウロスの発言を歯牙にもかけず会話は打ち切られていただろうが、アウロスの目論見通り、この老練の士は直ぐにそこに気づいた。
すなわち、手土産に。
交渉の道具としては、十分な質だ。
「ふむ。どうやら話に聞いていた通りの叡智を授かりし少年……いや青年ですね」
ルンストロムの目が細まる。
だが、その表情の変化より、アウロスは言葉の方を気に留めた。
叡智を授かりし少年――――そんな褒め言葉が、聖輦軍やウェンデル司祭の報告によって伝達されるだろうか?
寧ろ、狡猾や奸智などといった言葉の方がしっくりくる。
風向きが変わった。
そうアウロスは察した。
「教会に無断侵入し、そのままおめおめと逃げおおせた男がいるという報告は耳にしていました。しかも、事もあろうに『元司祭』に対して狼藉を働いた……とも」
それがアウロス本人だとルンストロムに悟られるのは、想定済み。
自ら教会への侵入を暴露しているのだから、以前教会内で発生した侵入事件を連想するのは、例え優秀な人間でなくても決して難しくない。
問題は――――
「その人物が、今度はあのデウス=レオンレイと組み、枢機卿ロベリア=カーディナリスの娘と共に、私を脅しにやって来るとは……」
全てが筒抜けになっている可能性。
最早、検討するまでもない。
風向きは変わったわけではなかった。
最初から――――逆風だった。
「流石にこれでは、私も自分の身を守る行動を起こさなくてはならないようだ。もっとも……」
不敵に笑んだルンストロムが、指をパチンと鳴らす。
「心強い護衛がいたのは幸いでしたがね」
それを合図に、部屋の扉が開く。
そこには、ルンストロムの言う護衛の面々が控えていた。
ただし、聖輦軍ではない。
「……おいおい」
思わずアウロスはそう呟く。
ルンストロムの三白眼の向こうにいるのは、アクシス・ムンディの面々だった。
狭い廊下から隙のない所作で部屋に入ってきた護衛の数は3名。
オールバックの男、クワトロ=パラディーノ。
銀髪の男性、ピート=シュピオーン。
そして――――
「報告なのですなのー。周囲に怪しい動きをする人物いませんでしたいまー」
あの鎧娘、チトル=ロージ。
いずれも、デウスが招いた筈の護衛だ。
にも拘らず、彼らがここにいる意味は――――
「ミストか……?」
ポツリと、アウロスは誰にも聞かれない囁き声でそう漏らした。
デウスとルンストロムが組むのは、教皇レースの構造上あり得ない。
だが、ミストがルンストロムと繋がっていた場合、間接的ながらデウスとの間に情報の共有が発生するのは必然だ。
そして、先程のルンストロムが口にしたアウロス評は、ミストのものと考えれば矛盾が消える。
ウェンブリーにいる両者が繋がりを持つのは、決して難しくはない。
それに――――ミストが教授以上の野心を抱いているのならば、ルンストロムと繋がりを持つのは道理。
気付ける材料はあった。
この状況を回避できる可能性はあった。
「お、おじさま? これって一体何の冗談……?」
アウロスの視界の隅で、チャーチが狼狽えている。
この罠は、彼女には知らされていなかったようだ。
アウロスをおびき寄せるまでは彼女の役目――――推測するならば、そんなところか。
とはいえ、それは今やどうでもいい話。
問題は、魔術士の世界で屈指の権力を有した人物が、牙を剥いたという事実。
論文を取りもどすどころか、この狭い空間の中に敵が犇めくという絶体絶命の危機に瀕している現状。
「……」
アウロスは、浅く息を吸った。