第8章:失われし物語(35)
二階にある部屋の扉をノックし、中へと入ったアウロスの目に飛び込んできたのは、窓から差し込む日光を浴びている木製の少し古びた卓子と、その上に置かれていた趣味の悪い臙脂色の花瓶だった。
花瓶に花は挿さっていない。
埃が溜まったり薄汚れていたりしてはいないが、首座大司教が身を置く部屋としては余りに不釣り合いだ。
さぞ不満顔だろう――――そんな先入観を抱きつつ奥の方に目を向けたアウロスは、そこにいた老人の顔に思わず眉をひそめた。
予想外、といえる表情がそこにはあった。
不満顔どころではない。
「……」
今にも噛み付いてきそうなほど不機嫌な顔をし、アームチェアに腰かけていた。
上品な顔立ちながら、深く刻まれた眉間の皺と重厚な唇によって何処かクセの強さも垣間見える、白髪の老人。
その人物が首座大司教ルンストロムであることは、疑いようがない。
隣に立っている聖輦軍の髭面の男が、疲労に満ちた顔をしていることからもそれは明らかだ。
相当この状況に心的負荷を強いられているらしい。
「あれれ、おじさま。随分と不機嫌なんだね」
そんな空気を感じたらしきチャーチが、進んで声を掛ける。
先程の魔術による通信でもフランクな物言いをしていたので、それが許される間柄なのは明らかだったが――――
「これは汚点ですよ、チャーチ」
そのチャーチをもってしても、ルンストロムの不機嫌を消すことはできそうになかった。
「私は貧しい暮らしを否定する気はありません。寧ろ、そのような経験があるからこそ人として大事なことを覚えていくのだと思っています。辛い経験も、苦い経験も、やがて血となり肉となる。そうして魔術士は成長してきたと」
「ご立派だと思うよ、うん」
チャーチの顔に、冷や汗が滲む。
あちゃー、という声が聞こえてきそうだった。
「だから私は現状に対して不満を抱いているのではありません。問題は……そう、問題は別にあるのです。問題なのは、有事の際の対応です。今回の次期教皇候補者三名による面談は、デ・ラ・ペーニャの未来を決めると言い切っても決して過言ではない、重要な、極めて重い催しの筈でした。事実、面談は有意義な時間となっていましたから。それを潰されたのは非常に不愉快です」
「だ、だよね」
冷や汗というより脂汗が滲むチャーチの声には、先程までの余裕はもうない。
どうやら、想像以上に不機嫌だったらしい。
「ですが、それでもこのような事が起こり得るとは思っていましたから、面談の中止、緊急避難は仕方がないところです。このような三流の宿に一時的とはいえ身を置くのも、良い勉強でしょう。しかし……しかしながら!」
ルンストロムが突然、目の前の机を叩く。
チャーチだけでなく、フレアまでビクッと身体を震わせた。
「有事の際の対応がなっていません。我が国の宝とも言うべきグオギギ殿が誘拐されるなど言語道断の警備体制と言わざるを得ませんが、それ以上にその後の対応が余りにお粗末。緊急避難の案内も迅速とは言い難く、手配したこの宿も危険性という点では中途半端。これでは、我が国の危機管理能力が低いと指摘されても、反論できませんね」
眉間に刻まれた皺をより深くし、ルンストロムは低音で唸った。
激情型の性質と、気難しい性質の双方を兼ね備えた視野の広い老人。
何より、フレアを怯えさせるほどの胆力が凄まじい。
首座大司教の地位に相応しいだけの能力は持っている――――ルンストロムの第一印象をアウロスはそうまとめた。
「さて……老人の愚痴はこの辺にしておきましょう。待機中とはいえ、やる事は山ほどありますし、それほど時間は割けませんのでね……チャーチ、お二方の紹介を」
「あ、う、うん」
焦り顔をしつつ、チャーチはアウロスに目を向けた。
「この人が、さっき話したアウロスさん」
「アウロス=エルガーデンです」
ルンストロムの気性を考えると、敬語に徹した方が無難と判断し、アウロスは先程の医療室での『演技』に続き丁寧な口調で挨拶した。
「で、こっちが……えっと、誰?」
「フレア=カーディナリス……です」
アウロスの口調から空気を読んだのか、フレアも舌を噛みそうに成りながら敬語を使った。
そんなフレアの自己紹介に、ルンストロムがギョロリと目を剥く。
フレアは再び身をすくめた。
「カーディナリス……まさか其方、枢機卿ロベリア=カーディナリス様の親類ですか?」
「えっと、娘です」
特に身分を隠す意義もなく、フレアはありのまま答える。
片や、ルンストロムはフレアの存在に多いに興味を抱いたらしく、表情を柔和にした。
「まさか、枢機卿様の御令嬢が挨拶に来てくれるとは。これは失礼をしました。
枢機卿様は無事ですか? あの方とは立場上対立しているが、決して悪い感情を抱いてはいません。
無事であればこの上なく喜ばしいのですが」
「い、いや、その……」
フレアは対応に困ったのか、しどろもどろになりながらアウロスに目で訴える。
いつものように、達者なその口でどうにかしろ――――と。
アウロスは心中で嘆息しつつ、視線をフレアからルンストロムへと移した。
「彼女の御尊父様は無事です。今回の件で誰かが傷つくことはありません」
「……そういえば、君でしたね。チャーチが言っていた『今回の事件の裏事情を知る者』とは」
フレアへ向けていたものとはまるで違う、据わった目を向け、ルンストロムが威圧的な物言いでアウロスとの対話を始める。
威厳に満ちた古老の迫力は、ミストやデウスとはまた違った圧があった。
「先程も話しましたが、時間的余裕はありません。率直に尋ねましょう。君は何が欲しいのですか?」
率直という言葉に嘘はなかった。
ルンストロムは、アウロスがチャーチに頼んでこの会合の設えを行った時点で、情報交換を希望していると読んでいた。
この辺り、同じ老人でも大学にいた連中とは全く違う。
当然、彼の部下である司祭達とも。
アウロスは、自分の中で集中力が芽生えていくのを感じていた。
それは、久々の感覚。
サニアやトリスティと闘った時にも、エルアグア教会に忍び込んだ時にも、フレアと闘りあった時にもなかった昂ぶり。
デウスと情報戦を繰り広げていた時以来の感覚だった。
「こちらも、率直に答えます。俺が欲しいのは――――論文です」
アウロスの淀みない答えに、ルンストロムはピクリと眉を動かした。
自分の眼力に対し、まるで怯んでいない若者の異常性に気づいたからだ。
「論文……はて、私は大学出身ではありませんから、魔術論文など手がけた記憶はありませんが」
だが、動揺には程遠い。
恍けるというより、推し測るような物言いでアウロスの反応を待つ。
古狸という言葉が、アウロスの頭に浮かんだ。
「ええ。貴方が手がけた論文ではありません。俺が欲しいのは、貴方が手に入れた論文です」
老獪さに対し、アウロスは再び率直に胸元を抉るような言葉を選ぶ。
これは、完全なカマ掛け。
オートルーリングの論文を、彼が入手したという証拠はない。
「……どうも、話が噛み合っていませんね。私が論文を? 全く記憶にないですね」
ルンストロムは思案顔をしながら、ハッキリとそう否定した。
現状では、彼が論文を持っているかどうか、判断する材料はない。
恍けているのなら、確実に入手している状況証拠となり得るだろう。
会話を打ち切らずにいる現状は、その可能性を示唆している。
だが、頭ごなしに退室を命じたり、怪しまれたりしていないからと言って恍けているとも限らない。
実際に論文など心当たりがなく、敢えてアウロスから誘拐事件の情報を引き出すべく誘導しているという可能性もある。
自分に有利となる線を残したまま会話を進める辺り、実に巧妙だ。
だが、アウロスはずっとこの時を待っていた。
論文の手がかりを得る機会を探っていた。
ここでそれを手放す訳にはいかない。
集中力は研ぎ澄まされ、知恵の泉を頭の中に湧かせている。
アウロスはルンストロムから視線を外し――――
「実は俺、ウェンブリー出身なんですが……」
そこから手土産となる可能性のある材料を一つ得、生成した。
「アランテス教会ウェンブリー支部で、貴方を見かけたことがあるんです」




