第8章:失われし物語(30)
「……困ったな。予定にないことが起こったぞ」
そんな言葉と共に、フレアは無表情のままアウロスの眼前で扉を蹴破った右足をゆっくりと下ろした。
「それはこっちの科白だ。お前がここに来るなんて予定、こっちは聞かされてない。
そもそもお前はサニアに強制連行されていった身だろ」
「そう。『お前は負け犬だ』って毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日呪文みたいに繰り返されて、単純な労働を強制された。辛い」
じっと左腕を眺め、吐き捨てるように呟くフレア。
恐らくは、負傷した左腕を動かせるようにするための治療的訓練なんだろう――――アウロスはそう推測し、この珍妙な乱入もサニアの差し金だと悟った。
ただ、もしそうならアウロスがここにいることが『予定にない』というのはおかしな話だ。
アウロスはデウスの用意したシナリオを必ずしも遵守するつもりはないが、現時点においてはそのシナリオ通りグオギギの拉致を行う為にこの医療室にいる。
これは『予定通り』のはずだった。
「お前の予定だと、ここには誰がいるはずだったんだ? そこで寝てる105歳だけか?」
「そうだ。お前はここにはいない、って聞かされてた」
予定外、が交差する。
問題は、この予定外がデウスのシナリオの破綻なのか、デウスのシナリオ通りなのか。
アウロスに渡された脚本が、本筋とは異なっているのであれば、アウロスはまた詰めの段階で騙されたことになる。
ウェンブリー魔術学院大学での解雇のように。
しかしこの時点において、アウロスを騙すことでデウスが得るメリットなどない。
だからこそ、アウロスは警戒の必要性を見出さずにいた。
だとしたら――――
「……ど、どういうことなのさ、お兄さん。っていうかフレアお姉さん、久し振り。元気だった?」
「お前、緊張感ないな。雰囲気にそぐわないぞ、存在が」
「酷っ!」
場の空気にアワアワしていたマルテが、錯乱したかのように蹲る。
イヤでも緊張感が漂い、正常な判断を失わせかねない状況において、道化師のようなマルテの挙動は救いだった。
思えば――――大学時代には、そんな人物はいなかった。
あのラディですら、根深い問題を抱え、一人苦悩していた。
過去の自分と少しだけ似ている、保護すべき存在と思っていた相手がいつの間にか有効な戦力となっていたことに、アウロスは思わず苦笑した。
あくまでも心の内で、だが。
「考えられるのは三つ。デウスの指示をサニアが無視しているか、デウスがあえて虚実のシナリオをサニアに吹き込んだか、サニアがデウスの指示を完遂するため、気を利かせて嘘を吐いたか。可能性が高いのは三つ目だ。俺とお前が裏で繋がっていて、何らかの悪巧みを企てているかもしれないから、俺の居場所を隠していたのかもしれない」
「……お前はどうしてそんなにポンポンいろんなことを思いつくんだ」
頭痛でもしているのか、フレアは顔をしかめ目を狭めた。
「何にしても、予定に変更はないってことだな? サニア」
フレアの呆れ顔を無視し、ここからは見えない人物の名をアウロスが呼ぶと――――
「流石はデウス師の見込んだ男。バレバレか」
フレアの後方――――扉を失った医療室の入り口から、サニアが入ってくる。
フレアもそうだが、最後に会った時から外見上の変化は特にない。
ただ、フレアの背中を眺める目が、以前とは少し違っていた。
アウロスの見ていないところで、関係性に変化があったことが間違いない。
尤も、それはアウロスには関係のない話だった。
「拉致というのは意外と人数が要るからな。我等は今、人手が足りない。
枢機卿の娘の手を借りたいほどにな。だが、我は貴様もこの枢機卿の娘も完全に信用してはいない。そういう理由だ」
ここにフレアを連れて来た理由と先刻の『予定外』の説明を、サニアはかなり簡潔に行った。
実際、説明に時間を割く余裕はない。
「わかった。でもフレア、お前はいいのか? 今回の件は立派な誘拐事件だ。
それも超大物の誘拐。今回の件に巻き込んでおけば、枢機卿の信用問題に発展するとデウスは目論んでいるはずだ」
「それくらいは私にもわかる。だから私はお前らの拉致に関与はしない」
「そういうことだ」
だったら何の為にここへ――――そう告げようとしたアウロスに、サニアは歪んだ笑みを浮かべ会話に割り込んできた。
「今回の拉致に必要なのは、標的を運ぶ人員と、運ぶ間周囲を警戒し、いざという時には拉致を成功させるために闘う人員。そして、拉致現場を発見する人員だ」
このグオギギ拉致は、あくまでもルンストロムに赤っ恥をかかせるためのもの。
ならば当然、完璧に仕組まれた犯行によって誰にも気づかれずに拉致されるより、お粗末な犯行で容易に気づけたにも拘わらず逃げられたという方が効果が高い。
その為には、早めに発見され、尚且つ発見されるタイミングが拉致する側に予めわかっている――――そんな状況が最適だ。
「フレアは俺たち誘拐犯を発見する係、ってことか」
「その通りだ。そうすれば、ロベリアが今回の件で非難を受けることにはなるまい。
教皇の孫、貴様は我らと同行して貰うぞ」
デウスとマルテの関係を考えれば、サニアのこの申し出は当然のこと。
だが、あえて『デウスの息子』ではなく『教皇の孫』と言ったあたり、複雑な思いが秘められているとアウロスは感じた。
「では、そろそろ始めようか。フレア、手筈通りに頼むぞ」
「……わかった」
イヤイヤながら、あの屋敷前での闘いで負けた代償故にフレアは頷き、廊下の方へ向かって――――
「お前ら、何者だ! その御老人をどうするつもりだ!」
フレアの声とは思えないような絶叫をあげた。
「ひぇっ!?」
全く予想していなかったマルテは、余りに声の大きさに不意を突かれ顔を引きつらせ耳を塞ぐ。
それくらい、予想外の大声だった。
「うむ。これで直ぐに『アクシス・ムンディ』の連中がやって来るだろう。
御老人を運ぶ係は我がやる。アウロス、貴様は絶望的に体力がないからな。
我が鍛えてやってもよかったのだが……」
「生憎、俺の身体は鍛えても筋肉がつかないだろう。それこそ絶望的に才能がない」
「天は万物を与えず、か。デウス師ですらそうなのだろうか……?」
そんな冗談めいた言葉で会話を区切り、サニアはなめらかな所作でベッドに横たわっていたグオギギを背負った。
これだけ近くで会話をし、強引に身体を起こしたにも拘わらず、グオギギは目覚める様子がない。
呼吸はしており、ポックリ逝っている訳ではない。
これだけの年齢となると、意識の覚醒には相当なエネルギーが必要で、現時点ではまだそこまで回復しきれていないということだ。
「……」
そんなグオギギの姿をアウロスは一瞥し、思わず顔を背けた。
かつて、人体実験と称し魔術を浴びせられ続けたアウロスの身体は、どれだけ運動しても筋力と体力を一定以上蓄えることができなくなっている。
成長が止まった訳ではない。
しかし、常人と同様とまでは言えない身体になってしまった。
尤も、アウロスにとって体力をつけたり筋力を増強したりすることは必須ではない。
それができればもっと様々な可能性を広げることはできたかもしれないが、魔術士として歴史に名を刻む上で、身体を鍛えられないということはハンデとはならない。
なら問題ない。
体力のないまま生きればいいだけ。
「……俺はお前とその105歳を守ればいいんだな?」
「正確には、足止めだ。頼むぞ」
それだけを言えば理解できるだろう。
サニアはそう目で訴えたのち、医療室の壁に向かってルーリングを行い――――
「教皇の孫。貴様は我と来い」
「え? ま、まさか……」
マルテが目を丸くする中、紅蓮の炎が壁の一部を一瞬で消し炭に変えた。
このエルアグア教会が破壊されれば、それだけクリオネ達の失態となる。
デウスの狙いに忠実な脱出方法だ。
「あ、あの、お、お兄さん……」
「取り敢えず行け。この場にいても誘拐犯の仲間と思われる。
あの女についていけば、脅されていたと言い訳もできる」
「う……わ、わかったよ」
簡潔なアウロスの説明に納得したのか、マルテは混乱しながらも黒煙の籠った中をもがくようにして、ポッカリとあいた壁の穴を通り外へ出る。
医療室に残ったのは、アウロスとフレア。
「で、この時点で俺は誘拐犯の一味。お前は発見者な訳だけど……
サニア達を追わなくていいのか? ここにいるってことは、発見しておきながら俺に足止め食らってる訳だから、あんまり良い評価を貰えないぞ」
そう尋ねる中、廊下の方からは大量の足音とわめき声。
直ぐにアクシス・ムンディや聖輦軍の面々が押し寄せてくるだろう。
彼らがここへ来る前に、フレアは自分の立ち位置を決めておく必要がある。
グオギギ誘拐の現場を目撃した――――それが今の彼女の立場。
なら、グオギギをさらった人物を追うのが正しい行動。
先程の叫びとこの状況で、グオギギがさらわれたのは一目瞭然であり、ここにフレアが留まり『グオギギが誘拐された!』と訴える必要はない。
しかし、フレアはその場を動こうとしない。
ならば次に考えられるのは――――
「それとも、誘拐犯の一人を引っ捕らえて、拠点の場所を吐かせるか?」
その体なら、ここにいても問題ない。
ただし、アウロスと闘い勝利するのが必須条件。
そうしなければ、ただのマヌケだ。
ロベリアの顔に泥を塗りかねない。
「……私は」
フレアは――――
「きっと、愚かなんだろう」
クルリと、アウロスに背を向けた。
その目には、医療室の入り口が映る。
敵という体の相手にする行動ではない。
「でも、こうしなきゃいけない気がする。なんとなく」
フレアはポツリと、アウロスに顔を見せずそう呟いた。
「……確かに愚かだ」
心底呆れつつ、アウロスは頭を掻いた。
アウロスの担う役目は、足止め。
サニアが無事に逃げ切るだけの時間稼ぎだ。
しかしその為には、アクシス・ムンディをはじめとした警備の面々を全員相手にしなくてはならない。
当然、不可能。
少なくとも半数以上は、この医療室から直ぐに出て廊下を伝い、外へと向かうだろう。
外へ連れ去られたグオギギを追う為に。
それを止める手段はない。
だが一つ、不可能という前提を覆す方法がある。
恐らく、フレア本人が考えついた訳ではない。
アウロスはそう断定していた。
こういうことを思いつくのは、性格のよくない人間だ。
サニアでもない。
サニアを通じてデウスが伝えたに違いない。
「私を人質にしろ。そうすれば、全員動けないはずだ。私は……枢機卿の娘だからそれなりに価値がある。きっと」
この言葉をフレアが吐き出すことが、どんな意味を持つのか。
ロベリアへの貢献を常に考え、足を引っ張ることを過度に恐れていた
フレアが、自ら人質となって枢機卿の娘としての価値を投げ売りすることが、どれほど辛く、けれど誇らしいことなのか。
アウロスは――――久々に湧いてくる感情を敢えて抑えなかった。
特にその必要はないと判断した。
本当に、久々のことだった。
「生憎、俺はデウスのシナリオ通りには動かない」
「……え?」
そんなやり取りの直後――――
「一体何がありましたの!?」
意外な人物が先陣を切って乗り込んできた。
アクシス・ムンディの一人、踊り子のお嬢さまフェム=リンセスだ。
そしてその背後にも、次々と警護していた連中が現れる。
アウロスはそんな状況に、かつて聖輦軍と対峙した時のことを思い出した。
あの時は、賭けに出なくてはならなかった。
逃げ切るしかなかった。
今回は――――
「グオギギ=イェデン様が『何者か』に誘拐された。だが、どうしても追えない事情がある」
攻めることを選んだ。