第8章:失われし物語(18)
灰色の寒空から、しんしんと降り積もる雪。
しかし、窓のないエルアグア教会からは白く染まったその景色を見ることは叶わない。
アウロスは教会の個室で寒さだけを感じつつ、白い息を吐いた。
現在、アウロスはマルテと共にこの部屋での生活を余儀なくされている。
フレアに治療を受けさせてもらう代わりに、デウスの希望を叶える形でこの教会に留まっている格好だ。
だが、現在ここにいる理由は別にある。
自分の所在を明らかにしておくという意図だ。
「……」
あの予想もしない登場からしばらく経つが、ルインは一向に姿を見せない。
まさか本気で離婚、つまり縁を切るつもりだとはアウロスも思っていないが、音沙汰のない期間がここまで続くのは予想していなかった。
初めての出会いは、牢獄の中。
宙を漂うこの白い雪のような、落ちる運命の時。
再会したのは、大学の中。
積もったばかりの雪のような、じっと未来を待つ時期。
そしてもう一度再会したのは、この教会の中。
果たして今は、どんな時期なのか――――
「ボーッとしているな」
不意に扉が開き、フレアのぶっきらぼうな声が室内に響いてきた。
「ノックくらいしろ」
「した。お前が気づかなかっただけだ」
「なら声をかけろ……黙って入るのはその後だ」
呆れつつ、アウロスは自分の物思いが予想以上に深いものだったと自覚した。
自分が最優先すべきものは、もう何度も頭に叩き込んでいる。
ただ、以前ほどの貫いていくような感覚はもうない。
雑念と呼ぶべきなのか、それとも――――
「またボーッとしている」
「……で、何か用か?」
いつの間にか目の前に接近していたフレアに、アウロスは右手で前髪を掻き上げながらため息を落とす。
「私に勝ったあの女が来た」
指の隙間の向こうに――――その女がいた。
サニア=インビディア。
戦闘中でもないのに、好戦的な笑みを浮かべている。
或いは――――今から殴りかかる予定なのか。
「上司のお使いか?」
嘆息混じりに問うアウロスに、サニアは肩をすくめ『やれやれ』といった表情を浮かべ、前を向いたまま背後の扉を閉める。
「デウス師を相手に、随分と大胆な仕掛けを企てたものだな」
「情報伝達が早いな」
「無論だ。その速度が雌雄を決する事もあるのだからな。戦争は」
物騒な物言いだったが、戦争という言葉はあながち大げさでもない。
三勢力による皇位継承争いは、デ・ラ・ペーニャにおける冷戦そのもの。
もし、どこか一つでも魔術による制圧を行えば、文字通り戦争となる。
「で、何の用だ。お前らは表立ってここへ来れる立場じゃないだろ」
四方教会の幹部四名はデウスに棄てられ、その怨みもあってエルアグア教会の敵となった――――それが、現在このエルアグア教会に対してのカムフラージュである以上、姿を見せるのは二重の意味で危険。
特に、デウスに疑いの目を向けられるのは致命的なはずだ。
「それも無論だが、心配は無用。平和ボケしている教会に気づかれぬよう侵入する事など、赤子の手を捻るより容易い」
「……俺の記憶が確かなら、つい先日ここに侵入して全員引っ捕らえられたんじゃなかったか。あれはわざと、って訳じゃないんだろ?」
「そのマヌケに負けた私が余計にマヌケだと、そう言いたいのか」
回り回ってフレアがダメージを受けていた。
「うむ。完璧にやられた。ゲオルギウスだったか。あの男は化物だ。
デウス師ほどではないだろうがな」
サバサバした答えとは裏腹に、サニアの身体からは剣呑とした雰囲気が漂う。
相当の屈辱だった事は想像に難くない。
「で、そろそろ用件を言って欲しいんだが。俺もそうそう暇じゃない」
特に気を使う理由もないが、アウロスは円滑な会話を望んだ。
「特に貴様に用という訳でもないが、一応許可はとっておこうと思ってな」
「……」
「この女、借りるぞ」
サニアは無造作にフレアの左肩に手を置こうとする。
瞬間、フレアの身体が過剰なまでに震えた。
「……急に触ろうとするな」
「やはり、まだ動かせなくなって日が浅いのだな」
一人で勝手に納得したサニアは、視線をアウロスに向けたままどこか嬉しげに微笑んだ。
「枢機卿の屋敷の前での闘い、負けた方が勝った方の言う事を聞くという約束だったはずだ」
「ああ。で、そいつをどうする気だ?」
「我が預かる。左腕が使えないだけならまだしも、左腕が使えない事を過剰に気にしているようでは、再戦がつまらなくなる」
闘って友情が芽生えるのは、男の専売特許ではないらしい。
「私はそんな事望んでいない」
「貴様に反抗する権利はない。負け犬めが」
「……」
否定を一蹴され、フレアはふて腐れた。
「という訳で、暫くこの娘は我の手元に置く。文句はないな?」
律儀にも再度確認をしてくるサニアに、アウロスは渋々うなずく。
「ま、俺が出した条件だから仕方ないか……戦闘要員が離れるのは痛いが」
「痛いのか」
フレアは若干嬉しそうだった。
「では、遠慮なくつれていくぞ。それとついでだ。エルアグア教会の敵となった我ら四方教会は、近々奇襲を仕掛ける」
「ようやくか」
「流石にそれくらいは読んでいるか。その際に、貴様が我らの新たなリーダーだと宣言する予定なので、身の振り方を考えておく事だな」
以前、ロベリアの屋敷でサニア達はアウロスに対し、デウスの目論見を話した。
この『アウロス新リーダー論』もその一つだ。
デウスが言っていた『来るべき時』とは、この奇襲の時なのだろうとアウロスは判断していたため、特に驚きはなかった。
「その際に、貴様が『枢機卿の間者』だという偽りの立場も発覚させる。
一応聞いておくが、身内はこの地にいるか?」
由緒あるアランテス教会を裏切る形となれば、身内にも被害が及びかねない。
そんなサニアの心配りに、アウロスは思わず苦笑を漏らし、首を横に振った。
「なら、問題ないと判断する。奇襲の期日、時間は決まっていない。
騒動が起こったら瞬時に自分のすべき事を成すのだな」
「俺はいつでもそうしてる」
手をヒラヒラとさせ、会話の終わりを促す。
そんなアウロスに半眼を向けたのち、サニアはフレアの右手を握り、部屋を出て行こうとした。
フレアに抵抗の意思はない。
負けたのだから当然――――フレアならそう考えると、アウロスも確信していた。
「せっかく気を使ってもらったから、俺からも一つ」
だから、フレアにではなくサニアに呼びかける。
「デウスを盲目的に信じるのはお前らの勝手だが、信じるのはあの男の野心だけにしておいた方がいい」
「……」
返事はない。
その忠告は、揺さぶりや脅迫の類ではなかったが、どう捉えるかは彼女の自由。
取り敢えず、フレアに猶予期間を与えてくれた御礼はこれで果たしたと勝手に判断し、アウロスは自分以外誰もいなくなった部屋の扉を閉めた。
「……フレアお姉さん、連れていかれちゃったの?」
翌日。
事の成り行きをアウロスから聞いたマルテは、心なしか寂しそうにしていた。
彼にとって、フレアは気軽に話せる数少ない存在。
無理もないとは思いつつ、自分の責任も少なからずある為、アウロスは珍しく――――
「すまない」
素直に頭を下げた。
「あ、いや、そんな謝られても困るんだけどさ……でも、いいの? フレアお姉さんの事、ロベリアさんに頼まれてるんでしょ?」
「あの女なら大丈夫だ」
人間的に信用しているかどうかはさておき、サニアがフレアをどうこうする動機は今のところ見当たらない。
フレアがデウスの脅威になる要素もない。
フレアを人質にするつもりなら、ここにいてもサニアが身柄を拘束していても特に大きな違いはない。
デウスが実力行使に出れば、アウロスに防ぐ手立てはないのだから。
「むしろ、ここにいるより安全だろう」
「え? それって僕は安全じゃないって事……?」
「当然。そもそも教皇の孫って時点で、お前の人生に安全って文字はない」
しれっと告げられた過酷な現実に、マルテは崩れ落ちた。
「ひっでーヤツよねえ。こんないたいけな少年に容赦のない……」
まるで入り口から入ってくるかのように、ごく当たり前に個室の窓から侵入してきたラディも首を左右に振り、呆れ顔。
「ま、連中にとって利用価値がある間は心配ない。で、ラディ。調査の結果は?」
「あいあい。ちょっと待ってて。まー、にしてもアンタっていろんな事考えるよねー。自分の論文を取りもどすためっつっても、こんな事やるかね普通」
更に呆れ気味に、ラディは手作りの資料をアウロスに手渡した。
そこに記されているのは――――
「それを読む前に、ちょっといいかねロス君。なんか……こう、私の率直な感想を言っていいかい? 今、いったい何がどーなってるのか、正直チンプンカンプンなのよね。自分でも何調べてるのかよーわかってないし。いや、ロス君が論文を取り返す為にナニカしよう、ってのはわかるんだけど、なんでその為にこんな事してんのか、とか他の連中は何を狙ってんのか、とか、そういうのがチンプンカンプンなんですわ。チンプンカンプンなんですわ」
大事なことだと思ったのか、ラディはチンプンカンプンをやたら強調してきた。
「ってな訳でズバリ聞くけど……あの手紙ってなんだったのだね?」
髭などないのに口元を擦る仕草を見せるラディ。
アウロスは――――受け取った資料を眺め続けた。
「シカトするにしても、一度くらいこっち見なさいよ! 私バカみたいじゃねーのさ! 相棒でしょー!? ちっとは説明しろってばよ!」
「……仕方ないな」
こうわめかれては集中できないので、アウロスは観念して一旦資料を机に置いた。
「あの手紙を送ったの、今このマラカナンで話題の皇位継承問題に関係ある人達ばっかだったでしょ? つーかこの教会のクリオネだっけ? あの女にも送ってたし」
「わかってるなら話は早い」
ほんの少しだけ感心しつつ、アウロスはわかりやすい答えを模索し――――
「あれは、皇位継承問題を利用して論文を取りもどす為の手紙だ」
そう告げた。