第8章:失われし物語(9)
生まれ落ちた瞬間を覚えている人間など、この世にはいない。
では、一体どのあたりの記憶であれば、覚えているのか。
当然ながら個人差のあるその疑問に対する明確な解答はないが、鮮烈な印象に残った事が記憶に残りやすいという確かな事実から、それを幼少期に起こり得る環境で育った人間の方が、追憶の海をより深く潜れる事は間違いない。
フレアには、幼少期――――5歳までの記憶が一切なかった。
それは健忘ではなく、単に印象的な出来事がない為に薄れていき、やがて消失してしまっただけの事だ。
特に楽しい事もなければ、辛い事もない。
それは実は平凡とは程遠い幼少期と言える。
子供の頃は誰もが、普通の事にもキラキラした輝きを見出せるものだ。
フレアには、そんな経験が一度もなかった。
経験しないように育てられた。
反復。
適度な運動、適度な負荷、適度な消耗、適度な食事、適度な休息、適度な睡眠。
毎日が同じ事の繰り返し。
毎日が焼き回し。
訓練というのは、そういうものだ――――フレアの父はそんな主張をやはり毎日のように繰り返していた。
時間は進む。
しかし進んでいる実感はまるでない。
肉体の成長、技術の進歩。
それだけが、フレアに時の変化を感じさせる――――そんな幼少期だった。
何故自分がそんな訓練を受けているのかを考える事すらなかった。
どうして言葉を話すのか、呼吸をするのかを考えないのと同じで、フレアにとって訓練とは無意識の中で行われる生きる為の一部だった。
しかし、そんな環状の日々にも、いずれ終わりは来る。
唐突に訪れた朝に、フレアは当然戸惑った。
そこにはいる筈の両親も、ある筈の天井も、訓練の際に着る服も履く靴も、何もなかったのだから。
自分が売られたと気づくのに、フレアはその朝から更に18つもの朝を必要とした。
人身売買。
その多くは、自分の性欲を満たす為か、臓器摘出を含む人体実験か、強制労働の為とされている――――が、フレアの場合はそのどれとも違っていた。
フレアが新たに生活する事となった場所は、戦争時において敵の首領格を仕留める人材を育てる養成所。
彼女が受けていた訓練は、暗殺者の中でも特に特殊な部類に入る『枢軸殺し』を育てる為のものだった。
その中にあって、フレアは必ずしも優れた才能を有してはいなかった。
それでも彼女には役割が与えられる。
ガーナッツ戦争において、デ・ラ・ペーニャの枢軸となる存在を暗殺するという役割が。
フレアに標的としてあてがわれたのは。
枢機卿、ロベリア=カーディナリスだった――――
「……くっ」
空気を切り裂く音が違う。
大地を蹴る際の感覚が違う。
片腕が使えないだけでここまで変わってしまうのか――――フレアの頭の中は、違和感の起こす負の作用によって集中力を完全に欠いていた。
「ほう。まだ戦闘意欲は十分か」
遥か後方へと飛び退くフレアの姿に、サニアは歓びの感情を禁じ得ず、追撃の手を緩めた。
それは情けではなく、彼女の悪い癖。
だが、直す気も全くない癖だった。
「貴様とは一度相見えている。その際に戦力の大半……とは言わぬが、半分以上は把握している筈だ。お互いにな」
魔術士を相手に距離をとるのは、通常明らかな愚行。
それでもフレアが後ろへ飛んだのは、遠距離攻撃の専門家を相手にしても尚、自分に利があると踏んだからに他ならない。
【火界呪】による呼吸困難からの回復と、自身の違和感の払拭。
その為にはどうしても時間が必要だ。
だが前者はまだしも、後者を払拭するきっかけがまるで掴めない。
フレアは焦燥の中で――――思考とは別に身体が勝手に動いている自分を認識していなかった。
「む」
その動きに眉を動かし、遺憾の意を示すのは――――サニア。
フレアは、サニアを無視するかのように視線を逸らし、その視点をトリスティへと向けた。
この場における敵の中心人物。
それをフレアは感じ取り、そして倒すべく――――駆け出す。
枢軸殺し――――敵の中心を砕く、その性質通りに。
「愚かな……我に背を向けるというのか」
サニアは知らない。
フレアの行動が、彼女自身の意識下にすらない、本能とさえ分離した強靱な土台に支えられている反射の一種である事に。
だからサニアは、自分から目を逸らし駆け出したフレアの意図を『戦略的撤退』と『一か八かの賭け』のどちらかと解釈した。
前者ならば、先程の戦闘意欲はフェイクで、ここから離脱する為に駆け出したという解釈。
後者ならば、自分が囮となってかき回し、アウロス達を逃がす、もしくはアウロスの支援を待つ――――という解釈。
この状況でトリスティを中心人物だと悟り、その一点に狙いを絞るという行動に出ている事は読めなかった。
結果、サニアは微かな迷いの後、後者の解釈を支持した。
フレアの突然の奇行に近い行動は、かき回す為の行動。
実際、その行動はある程度の有効性が認められる。
サニアとの1対1を放棄し、1対3を進んで作るのは、自ら圧倒的不利の状況を生み出しているとも言える――――が、実は魔術士が3人で1人の身体能力の高い敵を相手にするというのは、厄介だったりもする。
位置取りが難しいからだ。
もし、他の仲間と標的とを結ぶ線の延長線上に立ってしまうと、自分が放った魔術が味方に直撃する可能性があるし、逆に自分が食らう可能性もある。
迂闊に魔術を使えない。
何より、全員の意識が1人の標的――――フレアに向けば、アウロスへの警戒が薄れてしまう。
だからこそ、サニアはフレアの行動をそう読んだ。
有利性が認められるから。
だが――――フレアはそこまで考えてはいない。
一直線にトリスティへと向かって走る。
「……何?」
それが、却ってサニアを迷わせた。
自分の判断は誤りなのでは、と。
フレアはそんなサニアの迷いの隙をつき、更に加速する。
標的となったトリスティは――――動かない。
動じる事なく、自分へ向かってくるフレアに目線だけを向けた。
そこには、フレアの知る愛嬌の満ちたトリスティの顔はなかった。
まるでゴミでも見るかのように冷めた目。
覇気どころか、緊張感すらない顔。
そんな顔のまま――――トリスティは編綴を行った。
ルーリングの速度は並よりは上だが、それでもフレアの突進に対しては間に合わない。
魔術が完成する前に、フレアの接近を許す。
そんなタイミングの中――――フレアはトリスティに届く前に跳んだ。
「……!」
ほぼ同時に、フレアのいた場所を雷の閃光が通過する。
ティアの黄魔術。
フレアはそれを感じていた。
頭で考えて避けたわけではない。
危機に対し、身体が反応していた。
左腕の動かない違和感が支配する現状では、集中力はないに等しい。
それなのに、身体はどんどん自分勝手に動いている。
フレアはそんな自分の状況を、不気味に感じ始めていた。
自分が自分ではないような、そんな感覚が芽生えていた。
自分が信じていた闘い方を、根本から崩されるような感覚。
他ならぬ自分が、それを植え付けようとしている事。
宙を舞うフレアの身体は、そのままトリスティの傍まで迫っていた。
トリスティのルーリングは終わっていない。
フレアは袖の内側に仕込んでいる小型円月輪を取り出す。
携帯している円月輪は一つではない。
投擲という使い方もあるのだから当然だ。
その円月輪の中央部の穴に人差し指を通し、回転させ――――トリスティ目掛けて腕ごと振り下ろす!
投擲ではなく、接近して薙ぐという攻撃を選んだのは、回避されないようにする為。
フレアは確信した。
トリスティは回避体勢にない。
直撃する。
敵の中心を無力化させる事が出来る。
自分はまだ闘える。
左手が動かなくても。
けれど、この闘い方は、果たして――――
そんな思考が、次の瞬間。
完全に止まった。