第8章:失われし物語(1)
水没都市『エルアグア』には、二つの大きな役割がある。
一つは観光地。
魔術国家デ・ラ・ペーニャは魔術士の総本山であり、世界中に教会を構える最大宗教『アランテス教』の発祥の地なので、観光に比重を置く必要はないのだが、それでもある程度の名所や観光地は経済の基盤を支えるためには必要。
各地にある教会も名所としては十分に機能しているが、エルアグアはそれ以上に世界各国から多くの人を呼び込む『特殊な景観』の都市として、重責を担っている。
しかし、国策の一環とさえ言えるこの姿すら、実は表面上に過ぎない。
エルアグアには、もう一つ――――いや、ある意味唯一とも言える、大きな役割が存在する。
その象徴とも言える存在が、多くの椅子を並べたままのエルアグア教会司祭室に漂っていた。
「――――」
声とは呼べない音。
しかしそれは確かに人の声だった。
何故なら、声として認知できる人間がちゃんといるからだ。
「ありがたいお言葉を頂戴致しました」
クリオネ=ミラー。
ゲオルギウス=ミラー。
目の前にある、床と密着し横たわる『水槽』に向け、二人は頭を深々と垂れる。
一方、その背後にいる男――――デウス=レオンレイは腕組みをしたまま水槽を睨むように眺め続けていた。
「首座大司教様は、この度の皇位継承争いの経過に大変満足しているとのことです。引き続き、現状の方向性で進む事を許可して頂きました」
「……間違えるなよ。王位継承、だ」
クリオネの言葉に、デウスは重く低い言葉で反論する。
「そうでしたね。我々は教皇を目指している訳ではない。新たな王……このデ・ラ・ペーニャの歴史を塗り替える為に、動いているのでした。訂正に感謝を」
「……」
返ってきたクリオネの不敵な笑みに、デウスは小さく頭を振る。
デウスにとって、クリオネは好みのタイプではない。
女性としても――――人間としても。
「さて。現状を整理しましょう。我々は今、デウス様を我が国の王とすべく二つの勢力と事を構えています。いずれも皇位継承争いの相手。ここでは皇位という言葉を使わせて頂きます。両名とも、教皇の地位が目的ですので」
「ああ。わかってる」
早く先に進め、と言わんばかりに、デウスは苛立たしげに答えた。
「まず一つめの勢力が現教皇ゼロス=ホーリーの右腕として長らく枢機卿を務めてきた、ロベリア=カーディナリスの一群。穏健派という位置づけで間違いないですね?」
「間違いありません」
それまで沈黙を守っていたゲオルギウスが、姉の言葉を肯定する。
アランテス教会は世襲制ではない。
その為、教皇の跡を継ぐ後継者としては、教皇の血縁者ではなく教会の権力者が優先的に名を連ねている。
幹部位階2位、教皇の最高顧問である枢機卿は、その筆頭と言える立場だ。
事実、歴史上で枢機卿が次期教皇となったケースはままある。
ただし、必ずしも教皇の意志を継いだ者ばかりではない。
革新派とも言われる、反教皇派として枢機卿が改革に乗り出したことも多々ある。
しかし今回は違う。
反教皇派と呼ばれる勢力が、2つ存在する。
「そしてもう一つ、二つめの勢力が……第二聖地ウェンブリーの首座大司教ルンストロム=ハリステウス。近年、めざましい実績をあげて急激に力を付けた人物ですね」
「あのガーナッツ戦争のあと、ミルナ=シュバインタイガーを総大司教に据えて、まんまとウェンブリーの事実上トップに立った、やり手の老人か」
呆れ気味に呟くデウスに、クリオネが薄く笑う。
「そうです。相当な敏腕ぶりを発揮していますね。そういう意味では、草の根活動に明け暮れている時代遅れのロベリア枢機卿よりも厄介です」
「あのオッサン、自ら動いて魔術士殺しを撲滅しようとしてるからな……ま、そういうアピールの仕方も年寄り受けって意味では有効だ。バカには出来ん」
「同感ですね。事実、教皇を選出するのは年寄りが大半を占める各聖地の大司教以上の面々。彼らに訴えるという意味では、正攻法とさえ言えます。ですが……やはり、古臭いと言わざるを得ないでしょう」
クリオネは口元を抑え、笑みが濃くなった顔を隠す。
自身でも自覚はしていた。
その歪んだ笑みは、余り美しくはないと。
「最早、内政さえ完璧ならば揺るぎないという時代は終焉を迎えました。先のガーナッツ戦争で、我がデ・ラ・ペーニャが各国へ向け晒した醜態はちょっとやそっとの事では到底拭いきれないもの。諸外国へ向け、魔術国家の真髄を見せつけなければなりません」
「これが……その真髄とやらか?」
ようやく、デウスの顔に普段浮かべている笑みがもどる。
そして指さしたその先には――――水槽があった。
液体で満たされたその水槽は、特別な物ではあるものの、特別の域は出ていない。
つまり、教会で使用されている極めて高価な水槽という意味では特別だが、それ以上のものではないという事だ。
クリオネが言った『魔術国家の真髄』とは程遠い。
「そうです。現代において、使用を禁止されている邪術の一種……『融解魔術』。これこそが――――」
クリオネが、視線を壁へと向ける。
だが、クリオネの視界に広がるのは、司祭室の壁ではない。
そのはるか先に漂っている――――水没した都市。
その水全てに向けられている。
「――――このエルアグアで産み落とされた魔術こそが、魔術国家の矜持を取りもどす切り札となり得るのです。この魔術の存在を知れば、世界各国どの国も例外なく、我等に畏怖の念を抱くのですから」
「ま、否定はしねえよ。あらゆるモノを解かす魔術となれば、そりゃ誰だって怖いからな」
「貴方であってもですか? 魔術士でありながら魔術に頼る事を放棄した貴方でも」
クリオネの科白に、ゲオルギウスがピクリと身を蠢動させる。
「……さてな。厄介なモノ、とは言えるがな。少なくとも国レベルで見りゃそれが如何なる軍隊や騎士団より脅威なのは間違いねぇ。防ぎようがねぇからな」
「その割に、顔には自信の笑みが浮かんでいますよ?」
指摘された後も、デウスは愉快そうに微笑んでいた。
「ま、お喋りはここまでだ。わざわざ俺をここに呼び出したのは、現状の解説が目的じゃねぇんだろ?」
「ええ。貴方は人の話を余り真面目に聞かないので、我々の置かれた立場を理解しているか心配でしたが……問題ないようなので、本題に入ります」
そうクリオネが告げると、ゲオルギウスが振り向き、デウスと目を合わせる。
ここからの説明は自分が、という意思表示だ。
「構わねぇよ。続けな」
「では、ここからは自分が。これからの事についてお話をさせて頂きます」
巨漢のデウスと、魔術士の鑑とさえ言える細身の若者。
二人は睨み合うでもなく、ただお互いの目を探り合う。
「端的に申し上げれば、御子息であるマルテ様の処遇をここでご表明頂きたい」
「あいつは偉い身分じゃねぇ。様なんて付けなくて結構だ」
「……今はそれが論点ではありません」
ゲオルギウスは微かに歯を擦り、デウスに回答を迫る。
若い――――そう心中で囁いた後、デウスは頷いた。
「ご表明も何も、あいつは俺の息子だ。だから俺の近くに置く。それだけだ」
「とはいえ、教皇の孫に当たる人物です。利用価値があるのは間違いない。
利用しないのなら、その存在は要らぬ火種になりかねない」
「……使わないなら消せ、ってか?」
デウスの直接的な言葉――――そしてそれ以上の鋭く研ぎ澄まされた目つきに、ゲオルギウスは一歩も引かず答えを待つ。
口笛を吹きたい心境を抑え、デウスは口の端を釣り上げるのみに留めた。
「俺が王になったら、あいつには贅沢をさせる。それ以上の事は何もねぇ」
「親心……それだけなのですね?」
冷たく響くクリオネの声に、デウスは軽快に二度ほど首肯した。
「俺がお前等とつるむ条件に、あいつの事は含まれていただろうが。
俺に一任する。それ以外に何か書いてた記憶はないな。ん? 違うか?」
「いえ。ただ、やはりナイーブな問題ですから、ハッキリさせておきたかったのです。貴方がどういうつもりでいるのか。運命共同体となった以上、契約を乗り越えた絆が必要ではありませんか?」
「絆……ね」
デウスは笑う。
嘲笑と呼べる範囲で。
「滑稽ですか? この私が絆などと口走るのは」
「いや、逆だな。少しだけあんたを好きになれそうだ」
「それはどうも」
これまでの嫌悪感を隠しもしないデウス。
それを軽くいなすクリオネ。
百戦錬磨の睨み合いは暫し続き――――
「……一つだけ、教えてやる。あいつを手元に置くのは、親心じゃねぇ」
「違うのですか?」
「俺は王になる。その為には、あいつが必要なんだよ。これ以上聞くのはマナー違反だ」
好意の証を見せたデウスに、クリオネは満足げに頷いた。
「わかりました。では、マルテ様に関しては引き続き、貴方にお任せします」
「おう。話が終わったんならもどるぜ」
部屋から出ようとするデウスに、クリオネは魔術を放つ。
殺傷力はない、ただの光。
待つようにという合図のようなものだ。
「……なんだ?」
「あと一つ。あの少年についても聞いておきたいのですよ」
「ああ、アウロスか」
直ぐにピンときたデウスは、これまでとは違う種類の笑みを浮かべる。
実に楽しそうに。
「見込みがあるのはわかりました。彼もまた、貴方が王になる為に必要な人材なのですか?」
「そうだ。俺が王になる為には、どうしても欠かせない。だからテストさせてまで引っ張った」
「後学の為に聞かせて欲しいですね。あの少年の何処に、その理由があるのか」
「話す必要はねぇが、一つだけ教えてやろう」
背を向けていたデウスは、クリオネ、そしてゲオルギウスに向け再度振り向く。
絶対的な自信に満ち溢れた表情で。
「あのガキが抱えているモノはな、テメェらが思ってる以上に重いんだよ」
司教室に設置された水槽内の液体が、ほんの僅かに揺れる。
そこにあるのは――――大罪か、或いは救済か。
魔術国家デ・ラ・ペーニャに火が灯る。
無限の可能性を秘めた、色のない火が――――