第7章:革命児と魔術士の王(35)
悪夢のような一日が過ぎ――――翌日。
アウロスは、エルアグア教会に身を置いていた。
デウスおよびクリオネによって行われた、四方教会の品評会で唯一『有用である』と判断され、エルアグア教会に引っ張られた格好だ。
大学の研究室を経て、教会へ所属――――この経歴だけなら、ミストが目指している栄光への道を先んじて歩いているようにも見えるが、実際には脅されて無理矢理加入させられたに過ぎず、与えられるであろう仕事も容易に想像が付く。
少なくとも、出世とは程遠い、汚れ役である事に疑いの余地はない。
だが、アウロスに迷いはなかった。
教会は嫌悪の対象。
本来ならば、所属するなど以ての外だ。
だが、所属するメリットはある。
本物と偽物――――エルアグア国内に二つ放流された論文【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】の内、偽物の方を回収しやすくなった、という点だ。
一方で、本物の論文に関しては、入手が困難となった。
もし、枢機卿ロベリアとの面会の際に、ロベリアの手に論文が渡っていたのなら、そこで回収できる可能性はあったが――――世の中、そう甘くはない。
アウロスにとって、それは特に嘆くにも値しない事だ。
最良の策など、あってないようなもの。
無数に次善策を用意し、その中の一つが生きれば、それでいい。
それで次に繋がれば、少なくとも目的への道が途絶える事はない。
そうやって、紡いで紡いで――――今がある。
まずは偽の論文の回収。
アウロスの目は、既に未来へと向けられてる。
尤も――――
「……痛い」
現実には、目の前の少女、フレアの痛々しい姿に向いているのだが。
アウロスがここに所属する事になった、最大の『足枷』が、そこにはあった。
「あれだけの怪我だ。痛くて当然だろ」
「怪我はいっぱいしたけど、こんなに痛いのは初めてだ」
「千切れなかっただけ運が良かったと思っとけ」
嘆息混じりに、アウロスは心にもない事を呟く。
実際には――――デウスが手加減した為、というのは明らかだった。
つまり、手心を加えられた。
当然だ。
引き込もうとしている相手を、本気で葬る筈がない。
手を抜かれた事に対しては、特に思うところは何もないが、結果としてこの少女に深手を負わせてしまった事には、大きな悔いを抱いていた。
アウロスは、気配を察知する力に欠けている。
これは、昔から自覚していた弱点だ。
気配察知能力は、いうなればセンスが全て。
訓練や経験で補える部分は多くない。
アウロスには、そのセンスが著しく欠けている。
魔術士としての才能を示す魔力量の低さ同様、臨戦魔術士としての才能のなさ、という事になる。
あらためて、それを実感する出来事となってしまった。
「……悪かった」
ポツリとそう呟いたのは――――フレアだった。
「なんか、余計な事をした気がする」
「怪我しといて謝るな。こっちの気が滅入る」
「私を助ける為に、この教会に入ったんだって、あの冴えない子供が言ってた」
「……マルテの事か」
アウロス同様、マルテもまた、四方教会からこのエルアグア教会に身を移している。
現教皇の孫という立場だけに、利用価値は山ほどある。
見逃す筈もない。
ただ、その父親であるデウスが何処まで利用を許すのか、アウロスには皆目検討もつかない。
何より、デウスがマルテに対して、どんな感情を抱いているのか――――それすらも一切読めなかった。
読ませなかった、と取るべきか、そもそも肉親の感情すら希薄なのか。
マルテの命運は、デウスの心に懸かっているといっても良い。
アウロスは、ここにはいない隻腕の少年の未来を憂慮した。
隻腕というだけで、クリオネは彼を人間扱いすらしていなかった。
単に、反教皇派だから、教皇の孫に良い感情を抱いていない――――という範疇を超えた中傷は、ある種選民意識の賜物。
教会という空間において、多くの人間が感染している病気だ。
自分は選ばれた人間だと信じて疑わない。
だから、欠陥のある人間、或いは単なる一般市民に対して、上からものを言う。
アウロスが最も忌み嫌う、腐った体質だ。
「俺がお前を助けたんじゃない。お前が、俺を助けたんだ。勘違いするな」
そんな体質とは対極の考えを述べ、痛み以外の理由で落ち込むフレアの頭を、アウロスは軽く小突いた。
「……痛い」
「けど、もうあんな真似はするな。俺がやられそうになった時は、自分が決して傷付かないような助け方で助けてくれ。こっちの神経が保たない」
「難しい事を言うな。私はそんなに器用じゃない。守るのは苦手なんだ」
フレアの言葉は、常に実直だった。
実際、守るという行為は得意ではないのだろう。
性格そのままだ――――と、アウロスは内心こっそり微笑む。
表面に出さないのは、最早仕様だ。
「でも、困った事になった」
ポツリと、上体を起こしたまま俯くフレアが呟く。
「父に迷惑が掛かる。ここは、父にとって目の敵だから、ここで私が静養している事がバレたら、父の面目丸潰れだ」
「恐らく、もうバレてるだろう。エルアグア教会の連中にとっちゃ、敵陣営を攻撃するまたとない好機だからな。今頃、お前の父親は真っ青になってるだろうよ」
「うう……」
フレアは負傷していない右腕のみを上げ、右耳のみを塞ぐ。
聞きたくないという態度らしいが、両耳が塞がれなければ意味がない。
変な娘だ――――と、アウロスは再び心の中で笑った。
「ま、なるようにしかならないさ。お前の父親だって、枢機卿なんて立場まで上りつめた人間だろ? 今回の件程度で潰されるタマじゃないだろう」
「でも、傷にはなる。それを作ったのは……私だ」
「だから、お前は俺を助けただけだって言ってるだろ。無駄な自虐は聞いてて耳障りだ」
疲労がピークに達しているという訳ではなかったが、アウロスは少し語調を強めた。
「お前、やっぱり口が悪い」
「……それほどでもない。世の中には、遥かに口の悪い奴もいる」
「そうなのか?」
「ああ。そいつに比べれば、俺はまだマシな方だ」
アウロスの本心からの言葉に、フレアは表情から陰を消す。
それで全てを納得した訳ではないにしても。
「……この腕は、治るのか?」
自身の左腕を摩りながら、フレアが呟く。
そこには、清潔かつ高価な包帯がグルグル巻かれていた。
国内でも指折りの医師がいる、というクリオネの言葉通り、止血から洗浄、更には負傷箇所の処置、縫合に到るまで、アウロスが見た事のないような手際の良さで行われ、ほぼ完璧とも言える治療が行われている。
それでも――――
「日常生活に支障が出る可能性は五分。戦闘を含め、今まで通りに動かせる可能性は、全くないらしい」
アウロスは一切隠す事なく、医師から伝え聞いた言葉をそのままフレアに告げた。
「……そうなのか」
「俺の責任だ。すまない。怨むなり、何かしら請求するなり、なんでもしてくれ」
深々と、アウロスは頭を下げた。
他人を巻き込むような闘いは、それだけで罪。
そういう闘いを強要させられた過去を持つだけに、アウロスはそう認識している。
「謝るな、バカ。それこそ無駄な自虐じゃないか」
フレアは怒った様子で、左腕に力を込める。
しかし、腕が上がる事はなく、強張った肩が微かに律動するのみ。
その様子に、アウロスは沈痛な面持ちで木製の椅子に腰を下ろした。
「……一応、お前の親に宜しく頼まれた身だからな。責任を感じるなって言う方が無理だろ。しかも、言われて間もない間に怪我させるなんて、最悪だ」
それは、アウロスなりに本心を告げた言葉。
勿論、本心以上のものでもない。
単なる、責任の所在に対する自身の見解に過ぎなかったが――――
「そういう事」
例えばそれを、第三者が聞いた場合、どう思うのか。
アウロスには、そんな想像力が著しく欠けていた。
とはいえ、仕方がない事でもある。
まず、ここは教会の一階、奥にある医療室。
人の出入りは滅多にない。
加えて、教会関係者以外が立ち入る事は、想定される筈もない。
アウロスには落ち度はなかった。
ただ――――間が悪かった。
ここまで間が悪いという事は、この先の人生でもまずないだろうと断言できてしまう程、間が悪すぎた。
「つまり……私のいない間、隠れてコソコソと他の女の親と会っていた。そう解釈してもいいという事ね。それは男として下劣かつ最低最悪クズ行為だとなんら躊躇なく断言できるけれど、仕方ないでしょうね。他に表現しようがないもの」
アウロスを無視し、次々と紡がれていく言葉の数々。
この声に、アウロスは聞き覚えがあった。
嫌という程。
このエルアグアに来てからは、想像の中で再生されるのみだったが――――
「ル……ルイン?」
珍しく焦りを声に出し、アウロスは上体だけを捻って振り向く。
その視界には、医療室の入り口で両腕を組み、黒ずくめの姿で仁王立ちする女性の姿があった。
頭には、黒の三角帽子。
その下には、大きめの瞳と、鼻筋の通った美しい顔立ち。
アウロスはその姿を見た時、『魔女』という言葉を連想した。
あれから月日が流れ――――魔女は再び姿を現わした。
「私の問いに『はい』『いいえ』だけで答えなさい。それ以外の返答は死を意味します」
当時と全く同じ言葉と共に。
「……あの」
「死を選んだという事ね」
「今のは返答じゃないだろ。そもそも、まだ問いかけてすらいない」
アウロスの、若干揺れた声に対し、ルインは何ら反応を示す事なく自分の言葉を投げかける。
「身体中全ての毛穴を燃やし尽くされ呼吸不全の末に目を剥いて絶命するか。身体全ての関節に永久に融ける事のない氷塊をぶらさげ壊死する自分の四肢を眺めながら生き続けるか」
「……」
「好きな方を選びなさい」
それは――――久々に聞く呪詛だった。
唱えられた大禍は、何処かルーンにも似た響きで、まるで宙に浮かんでいるかのような、ある意味生き生きと、ある意味腐敗した存在感で、アウロスの鼓膜まで届く。
久々に感じる、圧倒的な重圧。
アウロスは思わず一歩後退した。
「いいえ、だ」
だが、過去に数度似たような問答を繰り返している経験もあり、冷静に回避を試みる。
どっちもお断りという意思表示。
とはいえ――――火に油を注ぐ事になるだけ、という懸念もあった。
「身の程知らずね」
案の定、という言葉がアウロスの頭の中でヒラヒラ泳ぐ。
「ま、いいでしょう。制裁を受ける気がないのであれば、これ以上問答を続ける理由もありません」
他人行儀な物言いで、ルインはサッと踵を返す。
「おい。何だよその一方的な態度は」
慌てて肩を掴もうと身を乗り出すが――――アウロスはそれ以上動けず、まるで金縛りにでもあったかのように、全身の筋肉を硬直させた。
殺気。
気配を察知するのが苦手なアウロスでも、容易に感じ取れるほどの。
「その唇の傷痕」
「……あ?」
突然指摘された古傷に、アウロスは反射的に手を寄せる。
既に瘡蓋もなく、僅かに赤みを残しているだけの、小さな痕跡。
「おそろいなのね。場所まで」
それが――――フレアの唇にも付いている事を、ルインは見逃さなかった。
アウロスは背筋が凍るような思いで、絶句しながらその背中を見送る。
全身から吹き出てくる冷や汗を感じながら。
それは、戦場ですら味わった事のない、初めての経験。
これまでとは質の違う恐怖だった。
「……離婚よ」
去り際、最後の呪詛が一番重く。
「な……」
暫く呆けていたアウロスが、我に返ったように身を震わせ、その後直ぐに追いかけようとするが――――
「あら、ここにいたのね。随分探したのよ」
「あー! にーちゃんだ! うわーい!」
入れ替わりで入って来た、上品極まりない嫗と、元気いっぱいの少年に阻まれてしまい、立ち竦む。
総大司教ミルナ=シュバインタイガーと、その息子オルナ。
身分を考慮から外しても、無碍に出来る人物ではない。
「……どうしてここに?」
「ええ。御存知かわからないけど、教会は今ちょっとバタバタしてるの。その関係で、このエルアグア教会を使って六聖地首脳会議が行われるのよ。普段は、首都のベルミーロで行われるのだけど、ちょっと事情があって。折角だから、この子とルインも連れてきたんだけれど、そうしたら貴方がこの教会に配属されたって言うじゃない? 驚いて探してたのよ」
まるで何処にでもいる熟女のような仕草と表情で、ミルナは笑いかけてくる。
それは彼女の持つ魅力ではあるが、今のアウロスには褒め称える余裕すらない。
「ねーにーちゃんにーちゃん。追いかけっこして遊ぼーぜ! オルナなー、足早くなったんだぞー!」
「いや、それは後で……」
「こら、オルナ。アウロスさんはお忙しいのよ。何でも、このエルアグア教会期待の星なのだそうね。私も一押しって言っておくから、頑張って。貴方が教会に入るなんて驚いたけれど、貴方ならどの道を生きても成功すると思うの。私、応援してるから。さ、オルナ。行きましょう」
「えーっ! 遊びたいー!」
気を使っているのか、矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、ミルナはオルナの頭を撫でるように押して退室を促す。
そして、自身も背を向け――――
「ところで、さっき出ていったみたいだけれど、ルインとはちゃんとお話できたかしら? あの子、貴方がここにいるって聞いて、それはもう嬉しそうに探し回っていたものだから」
「ま……まあ」
「もし、何か問題が生じたのなら、私に相談してね。こう見えても、人間の酸いも甘いも噛み分けているつもりだから、多少拗れた問題くらいはどうにか出来るつもりよ。と言っても、男女の関係より拗れた話はないかもしれませんね。フフ……」
上品な、そして意味深すぎる笑い声と共に、ミルナはゆっくりと部屋を出て行く。
そんな総大司教を追い抜いて、ルインを探す事など、出来る筈もなく――――
「……」
アウロスは顔を若干引きつらせ、立ち尽くしていた。
「おい」
その背中を、フレアのぶっきらぼうな声が小突く。
「お前、結婚してたのか」
「……してない」
そう答えるのが精一杯だった。
――――斯くして。
アウロス=エルガーデンは、独身の身空で離婚を宣告される事となった。