第7章:革命児と魔術士の王(32)
本物と偽物に『分裂』してしまった論文。
どちらかを回収しても意味はない。
両方を回収して、初めて『アウロス=エルガーデンの発明した技術』として歴史に残す事が出来る。
仮に偽の方の論文を放置したら、先にそちらが普及してしまい、本物を後出ししても、偽論文の理論破綻を指摘したところで、どれくらい認めて貰えるかはわからない。
権力を有したミストならば、認めて貰う事は出来るだろう。
が、アウロスには――――難しい。
果たしてこの構図は、偶然なのか。
そうでないとしたら、アウロスはまたもミストの思うがまま、動かされている事になる。
「……お、お兄さん。どういう事かよくわかんないけど……四方教会、出て行くの? っていうか……デウスさん、四方教会を捨てちゃったの?」
不安いっぱいの震えた声で、マルテが問い掛ける。
そんなマルテに対し、クリオネが初めて視線を向けた。
――――凍えるほどの冷たい目を。
「其方の存在価値は既に消失しました。留める理由もない故、立ち退きなさい」
「え? な、何さ、急に……」
「黙りなさい。本来ならば、このエルアグア教会に身を置く事も許されないのですよ。『欠損』した人間が」
「……!」
マルテの目が見開かれる。
隻腕である事を揶揄された事は何度もあったが、予測できないタイミングでの指摘には流石に免疫はない。
「教皇の血筋だからと言って、思い違いをしないように。其方に人間としての正しい価値は存在しないのです。壊れた人間は人前に立つべきではない」
「こ、壊れたって……」
「おぞましい」
クリオネの目は、侮蔑どころか憎悪にすら染まっている。
そこまでの敵意を向けられた事に、マルテはショックというより驚きを覚えていた。
一方――――デウスは一言も発しない。
表情も変えない。
少し崩したまま、引き締める事もなく、見守り続けている。
その意図は、アウロスにはわからない。
意図そのものがないのかもしれない。
ただ、そんなデウスの感情など、アウロスにはどうでもいい事。
如何にして、論文を取り戻すか。
それだけが目的――――
「随分、歪んだ感性をしてるんだな」
の筈だった。
だから、アウロスも一瞬、自分の言葉に戸惑いすら覚える。
「左右対称じゃないと、生理的に受け付けない体質なのか? だとしたら、派閥の中心を担う器じゃないな。偏りあってこそだろう、急進派は」
だが、皮肉は次々と言葉として紡がれていく。
自動編綴のように。
「……下らない正義感で余計な事を口走る程度の人物、という事ですか」
「下らない正義感なら、昔牢獄の中で錆になって朽ちた」
牢獄――――その言葉に、クリオネの目が露骨に濁る。
「どうやら、俺も不適合者みたいだな。話は終わりだ。帰るぞ、マルテ」
「へ……?」
アウロスは強引にマルテの右手を掴み、部屋を出る。
「待ちなさい」
背中越しに、クリオネの針のような声。
アウロスは振り向く事なく、綴る。
これまで何度もそうしてきたように。
「おぞましき者どもは、『守護者』の名の下に……排除します」
「おいおい」
緊張感なきデウスの声が制する事なく――――廊下が突如、空気を乱す。
クリオネは右手を上げ、指輪をしている人差し指を真上に突き出していた。
「人の息子を目の前で殺す気か?」
「左右を均等にするだけの事です」
それが、アウロスの皮肉への意趣返しなのか、実は図星だったのかは定かではなかったが――――魔術は綴られる。
空中に描かれる、12のルーン。
緑魔術【風輪連舞】。
風で作られた円月輪くらいの大きさのリングが、人差し指を中心に幾つも生まれ――――順に2人めがけて回転しながら解き放たれた!
「わ……っわあああああああああああっ!?」
マルテが絶叫を上げる中、幾つもの風のリングが宙を舞う。
直撃すれば、切断されるほどの唸りをあげて。
「……何故?」
だが、そのリングが奏功する前に、クリオネが呟く。
既にアウロス達の周囲には、結界が発生していた。
風のリングはその結界へ直撃するも、直ぐに霧散する。
対緑魔術の結界だった。
「硬度の高い緑魔術用結界……あれを、私の攻撃より早く綴ったというのですか?」
「だから何度も言っているだろう。あの男は2、3手先くらいは平気で読む」
「加えて……オートルーリングですか」
結界を解いたアウロスは、背中越しに聞き逃せない言葉を聞き、思わず振り向いた。
視線の先には、デウス。
当然、その口から伝えられた事は想像に難くない。
アウロスが、【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】の現時点における唯一の実践者だと。
「お前を売り込む一番の材料だったからな」
「……そこまでして、俺を引き抜いてどうする気だ」
「簡単な答えだ。お前を連れてきたのはこの俺だ。お前と俺には縁がある。縁のある人間は、引き入れておくに限るんだよ。例え、実力行使でもな」
デウスが笑う。
まるで、オモチャで遊ぶ子供のように。
まるで、綺麗な花を目にした老人のように。
「え……? ま、まさか……闘う気なの? 2対1?」
怖々とアウロスにしがみつくマルテに、デウスは視線を合わせず、右腕を前方に伸ばす。
嵌めている指輪は、四方教会在籍時とは異なる物。
明らかに、グレードが大きく向上している。
「この俺が、他人と共闘する筈がないだろう。そんな必要は今までもこれからもただの一度もない」
「……かもな」
同意せざるを得ず、アウロスもデウス一人に目を向ける。
右腕を背中に回して。
それは――――今のアウロスの戦闘スタイルだった。
その様子を一瞥した後、クリオネはデウスに向け、凛然と告げる。
「理解しているとは思いますが……明確に私達への敵意を見せた以上、排除が基本線です。情けは無用ですよ」
「黙れ小娘」
だが、その顔は直ぐに崩された。
味方の筈のデウスの威圧一つで。
「小娘……とは、どういうつもりですか? 其方が私達に付くと決まった際、教皇の息子という事は忘れろと仰ったではありませんか。それなのに、上から物を言うとは、約束が違いますよ」
「上も下もねーよ。お前の発言が『小娘』だっつってんだ。わかったらそこで黙って見てな。小娘」
「なっ……」
仲間割れとも思えるようなやり取りの中でも、デウスはアウロスから一切視線を外していない。
そして、その目だけで圧倒するほどの威圧感も。
まともにやり合えば、アウロスに勝ち目は一切ない。
或いは――――誰であれ勝ち目などないのかもしれない。
デウスの戦闘力は、魔術士としてはそれほどに突き抜けている。
「覚えているか? 俺が魔術売買の現場に乗り込んだ時の事を」
「……ああ」
「俺はあの時から、オートルーリングの使い手と闘う事を頭ん中で再現してきた。大した技術だ。臨戦魔術士の一番の問題点と、一番の理想を直結してやがる。ある意味では『魔術士殺し』の称号はその技術にこそ相応しい」
デウスの褒め言葉は、アウロスにとってある意味大きな収穫だった。
国内屈指の魔術士が、ここまで公言するという事は、オートルーリングの有効性は実証されたも当然だ。
ただし、ここでも大学時代と同じ問題が浮上する。
認めてくれる上司は、敵対する運命にある――――と。
「最後の忠告だ。俺との縁を大事にしろ」
「生憎、興味はない」
だが、今回はアウロス自ら、その運命を受け入れた。
目的の為なら、泥水だって啜る。
しかし――――啜るのは泥水までだ。
腐り切った人間の思い上がりまで啜る必要はない。
アウロスは当初、何もかも全てを目的の為に捧げる気でいた。
だが、ウェンブリー魔術研究大学で学んだ事がある。
その生き方は、結果的に目的を遠ざけると。
自らを魔術の効かない身体にした、ウェバー=クラスラードという男が。
研究だけに没頭し、人間としての尊厳と娘を失いかけた、ミルナ=シュバインタイガーという総大司教が。
明確な線引きを何処にすべきか、教えてくれた。
「……そうか」
デウスは何処か寂しそうに、そして嬉しそうに、小さく頷く。
「なら、さよならだ」
そして、俯いたその顔が――――アウロスの視界から消えた。