第7章:革命児と魔術士の王(31)
一部破損したランタンの光が支配する首座大司教の部屋に、静寂が生まれる。
アウロスは静かに、そして周囲の警戒を怠らずに返事を待った。
だが――――
「首座大司教様はもう、ここにはおられません」
期待した声はなく、代わりに訪れたのは、何の前触れもない女声。
警戒をしていたにも拘わらず、アウロスは気配に気付けなかった。
それでも、狼狽は心の奥に沈め、顔を入り口へと向ける。
そこには、驚きの表情で及び腰になっているマルテと――――見るからに派手で重厚な、紫を基調としたローブに身を包む女性。
一目で権力者である事を理解できる、或いは理解させる服装だった。
「……幽霊、って訳じゃなさそうだが」
余りに人の気配を感じさせない、その揺れ動く人影に、アウロスは誰何に等しい言葉を投げかける。
返事は――――
「クリオネ=ミラー。首座大司教様の世話係を仰せつかった神官」
アウロスの意図を完璧に汲んだ上で、敢えてそれに応えるものだった。
ただし、それはクリオネ本人の声ではない。
まして、先程まで不意に発生していた無機質な声でもない。
アウロスにとって、そしてマルテにとっても聞き覚えのある声だった。
「中々の美人だろ? この年でエルアグアの中枢を担う、立派な勝ち組だ」
「……デウス……さん?」
マルテが右腕を落ち着きなく動かしながら、ポツリと父の名を呼ぶ。
その自覚は全くなく。
「……」
デウスの視線は、マルテには向けられていない。
クリオネの背後から、アウロス1人を射抜いている。
「どういう事か、説明して貰えると助かるんだが」
一方、アウロスは誰を見るでもなく、暗闇でもないボンヤリとした空間に視線を溶かし込んでいた。
「お前なら、ここに俺がいる時点で、状況の8割は飲み込めた筈だがな」
「残りの2割を知りたいって言ってる」
「……だ、そうだ」
デウスに丸投げされたクリオネは、頭上に乗せた装飾豊かな帽子を僅かに傾け、アウロスへ鋭い視線を向けた。
その目付きだけで、只者ではない事がわかる。
権力や地位とは根本的に異なる、人間としての力が宿っていた。
「一言で言えば、其方らは試されたのです」
「……最悪の答えだな」
大きく嘆息し、アウロスは不快感を示す。
試す。
つまり――――この潜入劇は全て、仕組まれたものという事になる。
とはいえ、それは例えば『四方教会の戦力を底上げする為に、マルテが誘拐されたという事にして、どのように取り返すかをチェックしていた』というような平和的結末とは明らかに程遠い。
何しろここは、四方教会にとって憎むべき敵、アランテス教会の支部。
試験の舞台には不相応だ。
ならば、この潜入劇にはどんな意味があったのか。
「ま、まさか……デウスさん、アランテス教会とグルだったの……?」
意外にも、マルテはその正しい答えを導き出した。
他に選択肢もないが。
何より、目の前にデウスと首座大司教の世話係が並んでいる時点で、誰でもわかる事。
このエルアグア教会と繋がっているデウスが主導となって、ここへ四方教会の面々を誘い込んだとしか考えられない。
問題は、何を『試す』のか。
それも一つしかない。
デウスは既に、四方教会の全てを知り尽くしているのだから。
残るは――――クリオネ。
彼女の目に留まる人物がいるかどうか。
それが、この潜入劇の目的という事になる。
そして同時に、クリオネに値踏みさせるという事は――――
「初めから、四方教会は解体するつもりだったのか」
アウロスは出来るだけ感情を込めずに聞く。
だが、応えるべきデウスは、口を開かない。
しかし答えは明白。
四方教会の品評会である事は、疑いようもなかった。
「合格者は、其方一人のようです。まさか、首座大司教様のお声を初めから正確に認識できる人物がいようとは」
「……」
一瞬、アウロスの顔の筋肉がピクッと動く。
クリオネの言葉は、意味不明だった。
だが、推測は出来る。
あの無機質な、正体不明の『声』が関与している、という事は。
ここで安易に疑問を投げかければ、合格は取り消されるかもしれない。
問題は、この『合格』が、アウロスにとってメリットとなるのか、意味のないものなのか。
少なくとも現時点でアウロスにはわからない。
そもそも――――事態の8割どころか、5割も把握していない。
過大評価もいいところだった。
ただ、評価が高いか低いかなど、アウロスにとってはどうでもいい事。
大事なのは、これらの材料を、メリットへと持って行く事だ。
現時点において、アウロスが理解している事項は、『デウスと、アランテス教会の首座大司教の派閥とが、裏で繋がっていた』事と、『この侵入劇はデウス主導の品評会だった』という事。
そして、自分がその品定めにおいて、高い点数を獲得した事。
更に、その要因が誤解によるもの、という事だけだ。
この中で、今後論文の在処を知る上でメリットとなりそうなのは――――品評会に合格したという事実。
そこに何かしらの恩恵があるかもしれない。
なら、取るべき行動、すべき発言は――――
「運がよかっただけで、合格と言われてもな」
過大評価を保持する為の内容に集約される。
アウロスは『運』という言葉を武器として使った。
謙遜と曖昧の両方を兼ね備えている、ある種反則とも言える言葉。
どんな裏があっても、曖昧さが柔軟に対応してくれる上、謙遜が含まれている為、嫌な印象も与えない。
これも、一種の舌戦だった。
「運も実力の内、という愚か者の言葉に耳を貸す理由はありませんが、自身の力を過信せず、正確に把握する点は評価に値します」
「……」
アウロスの意図は、ほぼ完璧に反映された。
尤も、それがメリットに化けるかどうかはわからないが。
「どうだ? 俺の言った通りだろう。この男は『先を読める』。それは優秀な魔術士以前に、優秀な人材として必要不可欠だと思うがな。タダでさえ、今は魔術士の質が問われる御時世だ。参謀にでも出来そうな人材をみすみす手放す必要はない」
「当初の予定では、他の人物の名が挙がっていましたが」
「より良い人材を選ぶのが、王たる者の勤めだ」
王――――デウスは確かにそう言った。
つまり、目的は一切ブレていない。
ならば、デウスがアランテス教会の一派閥と組む理由は、かなり整理されてくる。
教皇と王は決して相容れない。
にも拘わらず、王になるというデウスと組んでいるという事は――――
「反教皇派……か。派閥が二つとも限らないが」
アウロスの言葉に、クリオネの目の色が変わる。
明らかに、それまでとは表情も違っていた。
「だから言っただろう。その男は二手三手先は軽く読める」
「……少々、驚きました」
クリオネはそれでも落ち着いた様子で、アウロスへ一歩、二歩と近付いていった。
「え、えっと……」
置いてきぼりになっているマルテが入り口の前で狼狽する中、クリオネの顔は、初めて笑みを作った。
妖艶に。
「アウロス=エルガーデン。其方に説明する価値を認めます」
「どうも」
アウロスは、賭けに勝った。
尤も、本当の意味での賭けはここからだ。
例え勝っても報われない事が多いというこの世界を、アウロスはよく知っている。
嫌という程に。
「其方の指摘通り、私達は現教皇と仇なす派閥。急進派と呼ばれる事が多いようですが」
「何処にでもいるな、そういう派閥は」
「必要だからです。水は美しく、清らかであるべきなのに、そこに在り続ければ確実に澱み、濁ってしまう。流れを作らなければ、清らかなままではいられないのです」
説法じみた言葉に、アウロスはかつてミストが行っていた講義を思い出した。
偉いという事は、啓蒙に長けている事――――という訳でもないのだろうが、少なくとも偉ぶる上では意味がある。
自己証明を声高に叫ぶ事は、ある一面では確かに必要。
事実、アウロスもまた、その為に生きているようなものだ。
「先の戦争における屈辱的な敗戦の後も、現教皇とその一派は何もしようとしない。何一つ変えようとしませんでした。それは、沈み行く船で祈りを捧げて身動き一つしないのと同じ事です。死に行く自分を誰かに救って欲しいなど、奢りも甚だしい」
「……ま、そう単純な事でもねーけどな」
茶々を入れるデウスを、クリオネはキッと睨む。
教皇の息子に対する態度ではない。
ただ、反教皇勢力と繋がっているという事は、デウスに『教皇の息子』をひけらかすという意思が皆無である事は明らか。
寧ろ、教皇を倒すと明言しているのだから、そこには必然性すらあった。
「で、教会を改革する為に、そこの教皇の倅を王様にして、教皇制度を消滅させる……か」
「抜本的な改革は、制度そのものを根絶する事から始まるのです」
アランテス教会に身を置きながら、その頂点を否定する。
それは、自己同一性の揺らぎ、或いは崩壊と言ってもいい。
昔の概念ならば。
現代においては、必ずしもそうではない。
組織というものは、一枚岩ではない方が活性化するという例も多く、今やそれが定説化している。
必要悪とは性質が違うが、毒を含む方が良いという考えだ。
だからこそ、反教皇勢力という、本来ならば存在を許されないような勢力が一定以上の力を有している。
「アウロス=エルガーデン。其方を誇り高き革命の一部となる事を、このクリオネ=ミラーが許可します」
そしてアウロスは、その毒となる事を許された。
試験に合格した事によって。
その試験の意味がなんだったのか、まるでわからないまま。
アウロスは瞼を落とし、思案に耽る。
この教会に偽論文があるのなら、クリオネらの派閥に入る事には大きな意味がある。
ただ――――本物の方の論文の回収は難しくなる。
枢機卿ロベリアと、クリオネら反教皇勢力は対立しているのだから。
当然、フレアとも敵同士になる。
そうなれば、奪うくらいしか方法はなくなってしまうだろう。
「……」
アウロスの思慮はより深く沈んでいった。