第7章:革命児と魔術士の王(6)
その日――――【エルアグア】の空からは、小さい粒の粉雪が止めどなく落ち、水に浸された地面に溶け込んでいた。
寒冷地で、実際にかなり寒い気候にありながら、水は凍る事なく【エルアグア】を幻想的な光景に誘っている。
そんな景色の一部となったアウロスは、息を吐く度に煙るような口元を手で拭い、視線を下ろした。
「で……最初に世話になるのが、アンタって事か」
「どうやらそのようだ。一週間、宜しく頼む」
隠れ家である墓地から、再び【エルアグア】の市街地に足を運んだアウロスは、デクステラと共に、とある酒場を訪れていた。
尚、足には何も履いていない。
市街地は比較的標高の低い位置にある為、午前中から正午にかけての時間帯は、路地が水に浸された状態となっている。
現在は、丁度真っ昼間。
その為、靴を履く意味がない。
一方、この酒場を始め、各建築物は水位が最大となる地点より高い所に一階を設けており、それを柱で支えている為、店の中にまで水が侵入する事はない。
また、各施設、入り口には足を拭く為の布、なめし革製の簡易的な履き物が用意されている。
水と寄り添い、水と共に生きている事が良くわかる日常の風景に、アウロスは暫し感心を覚えていた。
――――人間、生きようと思えば、どんな場所でも生きていける。
ここは、そんな主張を自然にしている都市だった。
「それで、酒場まで来て何をするんだ?」
「簡潔に述べれば、布教活動だ。だが、アランテス教のそれとは大きく異なる。
教会であって教会ではないからな。四方教会は」
「……その辺のくだりを、もう少し説明して貰えると助かるんだが」
足を拭き終えたアウロスのその言葉に対し、デクステラは奥のテーブルに視線を向け、親指で『ついて来い』と言う身振りを見せた。
食事をしながら説明する、と言う事らしい。
アウロスは、アルコール臭の強いその空間に顔をしかめつつも、デクステラの背中に続いた。
四方教会。
北の大地【エルアグア】を本拠地としたその組織は、デクステラの言葉通り、教会であって、教会ではない。
では何故、教会と名付けたのか。
それは凄まじく単純な理由。
教会と名付けなければ、民衆が納得しないからだ。
既に魔術都市として完全に確立されたこの【デ・ラ・ペーニャ】において、教会と言う存在は、民衆の日常にまで浸透している。
それを引き剥がしては、民意は得られない。
逆に言えば、それ以外には特に意味はなく、教会としての機能を果たす必要性は何処にもない。
寧ろ、教会の体制を根底から覆すからこそ、取って代わる意味がある。
そう言う意味では、四方教会とは教会そのものに対するアンチテーゼとして誕生した組織と言える。
そこで問題となって来るのが、方法論だ。
保身と怠慢、惰性と傲慢に満ちたアランテス教会を打倒し、魔術士の権威回復、そして健全な未来の構築を行う為に組織を立ち上げたとしても、その組織が実際に一国家の中枢と入れ替わる為には、どうすれば良いのか。
それは、アウロスにとっても興味深い事だった。
「現在行っている活動は、主に『布教』と『主張』だ。まずは、四方教会と言う組織そのものを一般人に知って貰わなければ、何も始まらない。現体制がどれだけ問題を抱えているか、そして自分達ならば、それを如何にして解決できるか、と言う事を知って貰う。いわば土台作りだな。その一環として、世直しも行っている」
「意外と、標準的な方法なんだな」
その酒場で最も安い品目の『茹でパスタ』に塩を振りかけながら、アウロスは肩を竦めた。
「肩透かしに思うのも無理はない。お師の破天荒な思想とは余り相容れない方法だからな」
「って事は、他の誰かの提案か?」
「いや。自分達の行動は全て、お師の案によるものだ。無論、意見は言うが」
つまり――――
この慎重とも言える行動は全て、デウス指導の元に行われている、と言う事になる。
ここ二日間でアウロスが抱いていた印象とは、少々傾向が異なるものだった。
「今にわかると思うが、お師の思想は浅くはない。豪快にして繊細。巧妙にして勇猛。
そうでなければ、この国の頂点に立とうと言う人物として、相応しくはない」
デクステラの言からは、デウスに対する絶対的な信頼が滲み出ていた。
革命が起こる絶対条件は、圧倒的に優れた人間と、その人間に対する数多の『犠牲』。
それは信仰心でも、友情でも、或いは愛情でも、何でも良い。
命すら投げ出す覚悟の集大成こそが、何時だって現状を打破してきた。
ならば、デウスはそれを最低限、満たしている事になる。
「少し見えて来たな。アンタ等の組織が」
「今は君の組織でもある。さて、そろそろ始めるとしようか」
食事を終えて一息ついた所で、デクステラはゆっくり立ち上がった。
赤みがかった前髪が隠しているが、眉毛が極端に薄い為、その目つきの悪さも手伝って、かなりの強面。
身体付きもかなりガッチリしており、一見すると魔術士とは認識し難い。
そんなデクステラが、この酒場で何をするのか――――
アウロスはその席上で、好奇心と共に、その瞬間を持った。
昼間と言う事で、食事も出しているこの酒場には、数多くの市民が足を運んでいる。
デクステラは、その酒場の一角にある余興用のステージに立ち、
そんな多人数の視線を一身に受けていた。
この状況で『世直し』はあり得ない。
当然、布教活動と言う事になる。
ならば当然、今から始まるのは説法と言う事になるが――――
「さあーみなさん! 寄ってらっしゃい、見てらっしゃーい! 今から四方教会が一人、焔のデクステラが今日も元気いっぱい大事な事を優しく楽しくお話しまーす!」
実際に始まったのは、さながら道化の余興そのものだった。
外見通りの渋い声を、極限まで甲高くして、顔面には満面の笑みを浮かべている。
狂気が、そこにはあった。
「……あれは一体、何なんだ?」
「何だにーちゃん、知らねーのかい? この酒場の名物【余興説法】さ。ここにいる連中の半分以上が、あの人の説法目的で通ってんだぜ。なんつーか、間の取り方が絶妙なんだよ。ありゃ相当なやり手だ」
すっかり聴衆と化した客の一人から、そんな補足説明が飛び込んで来る。
だが、アウロスの耳にはそれも余り入って来なかった。
実際、説法の中身としては、かなり高度な内容になってはいる。
現体制の独裁的な構造を批判し、権力を分散させる事で、それぞれがそれぞれを監視、牽制すると言う、新しい形の教会を目指すと言う話を、とても面白おかしく語っていた。
ただ、終始戯けた口調と語調、更にはわかりやすくする為に一般の役場に例えて話を進めている為、全くと言って良いほど威厳がない。
30分に亘る熱弁が終わったその時、酒場は歓声と指笛、そして拍手に包まれていたが、アウロスは一人、頭を抱えていた。
観衆に笑顔で応え、デクステラが戻ってくる。
「明日から君にも、これをやって貰おうと思っている」
着席するなり、声も顔も元に戻っていた。
「やれるか。何であんな説法なんだ」
「普通にしていても、民衆は耳を傾けはしない。だが奇を衒うだけで、それは一変する。ただそれだけだ。案ずるな。慣れればどうと言う事はない」
「断固お断りだ」
「……むう」
結局、アウロスはそれからの一週間、デクステラの演芸を眺めているだけに終始した。
「にゃはははは! そりゃ最初はビックリするよね。あの顔で、あんな説法されちゃ」
四方教会の一員となり、十日目の朝。
新たな専属先となったトリスティに連れられ、【エルアグア】の中心地水路を小舟で亘るアウロスは、疲労困憊の顔で後頭部を掻き毟った。
「オレっちも最初にアレ見た時には、正直引きまくったなー。でもアレも一応、理に適ってんだってさ。ああ言う強面のヤツが砕けた事すっと、スゲー良いヤツに見えるんだと」
「言いたい事はわかるが、理性がどうしても受け付けない」
「あ、なんか気が合いそ。上手くやっていけそーじゃん、オレっち達」
気さくに笑うトリスティの顔は、邪気のない子供のように見え、アウロスは思わず疑念を覚えた。
「ところで、トリスティだっけ。アンタは何歳?」
「え? 13だけど、何?」
「……いや、何でもない」
小さく息を吐き、周囲を眺める。
アウロスがこの【エルアグア】に来て、既に一ヶ月が経過していた。
あの【フォン・デルマ】に足を運ぶ三週間ほど前、初めてこの都市に足を踏み入れた時の衝撃は、今も記憶の中に鮮烈に残っている。
水没都市。
そんな場所が本当にあるのか、と思わず絶句した程だ。
だが、その風景ですら、一月経てば慣れもする。
大学でも、そうだった。
どんなに邪険にされても、馬鹿にされようとも、人間は順応する生き物だと言う事をアウロスは学んでいた。
だから、いずれはあの説法を自分も平気でやれる――――かと言うと、それとこれとは全く別の話ではあるが。
「ま、デクスっちは真面目ちゃんだもんねー。あれもフザけてんのかって思ったら『お師に言われた事を忠実に再現しているだけだ』って、真顔で言うんだもん。デウス師匠もからかい半分だってのにさー」
「お前もデウスの弟子なのか」
「や、コレただの愛称。あの人、様付けられるのとか、首領とか呼ばれるの苦手らしいんだよ。そんで」
盗賊団の長を例に挙げられてもピンと来なかったが、アウロスは特にそれを指摘する事なく、小舟の上で寒さに震えていた。
これに関しては、一ヶ月経っても慣れそうにない。
「で、ここでは何をやらされるんだ。俺は」
「使い走り」
「……あ?」
想像もしない言葉に、アウロスは思わず顔をしかめる。
「オレっちの今の仕事さー、お使いなんだよね。この【エルアグア】の色んな書物を買い漁って、それを師匠に渡す。そんだけ」
紛う事なく、使い走りの仕事そのものだった。
「つっても、めぼしい本屋はもう渡り歩いたから、今は民家が中心かな。ごめんくださーい、本譲ってちょーだい! って感じで」
「……目的は?」
「師匠曰く、『知的な印象を付けたい』だって。だから、古書とか論文とか、そう言う学のありそうな本限定なんだって。ホラ、そう言うの集めてる組織って、なんか裏で理知的なコトしてそうじゃん?」
「してそうじゃない。そうか……それで、あの闇市の会場に来たのか、アイツ」
デウスと初の対面を果たした場所を思い出し、アウロスは一人納得した。
「ああ言うちょっとアブない場所は、オレっちじゃなくて師匠が行くんだよね。まだまだオレっちも半人前ってコト……」
その刹那、トリスティの顔に影が差した。
「いーんだ、いーんだ。オレっちなんて、ちょっとマセただけの使えないガキだもんね。信用されなくても仕方ないんだ。どーせオレっちより、デクスっちとかサニアっちとかのが大事にされてんだ」
それに伴い、急にイジけ出した。
だが、アウロスは特に慰める事なく、寧ろ堂々と無視して周囲の景色を眺めていた。
「……にーちゃん、ケッコー薄情だね」
「感情移入する程、親しい訳でもないだろ。それより、俺は何冊その古書とやらを集めれば良いんだ?」
「別に制限はないよ。日が沈むまで、テキトーに巡ってよ。今から行く地域は全然手付けてないからさ。って言うか、後回しにしてたんだよね」
そうこう言っている間に、小舟は停留所の傍まで辿り着いていた。
舟から上がり、階段を上ると、そこは明らかに『治安に重大な欠陥を抱えた』場所。
既に、ナイフ片手に舌なめずりする通行人がいたりする。
「……後回しにする訳だ」
「じゃ、宜しく。オレっちは別のトコロ回るんで」
「おい」
アウロスがジト目を向ける頃には、既にトリスティは小舟へ戻っていた。
年齢を考慮してもかなり細い体格だが、その分すばしっこい。
身のこなしと言い、性格と言い、一筋縄ではいきそうにない少年だった。
「ま……良いけどな」
それから一週間、アウロスは盗賊団や追いはぎや通り魔の巣くうその教区で、古書採集に励んだ。