第7章:革命児と魔術士の王(2)
「……?」
落ち葉を踏み崩す小さな音など、誰の耳にも届かないような、雑踏の中。
つい今し方すれ違った男の背中に、アウロス=エルガーデンは怪訝な顔で視線を向けた。
特に理由らしい理由はない。
長身のその後ろ姿は、特徴的ではあるものの、明瞭な動機とはなり得ない。
だが、何かしらの感性を揺り動かされた事は、紛れもない事実。
暫しその原因を脳内で探りつつ、アウロスは緩慢な動作で顔を正面に戻した。
「知り合い?」
その様子を横目で眺めていた隻腕の少年が、高い声で問う。
好奇心七割、疑念三割。
そう言う表情で。
「いや。その可能性も探ってみたけど、どうやら記憶の中にはないらしい」
頭を振るアウロスに、少年――――マルテは一定の納得と、一定の不満を含んだ返事をし、止まっていた足を再度動かし始めた。
少年の苗字を、アウロスは知らない。
紹介して貰っていないからだ。
彼は『マルテ』とだけ名乗ったし、それ以上を追求する意味もない。
それだけの事ではある。
自称『エルアグア随一の案内人』との関係性は。
「にしても……お兄さん、寒くないの? 余所の土地から来た人達はみんな、このエルアグアの寒さには耐えられないって、一言くらいは愚痴を言うもんだよ?」
「ああ、確かに寒い。やたら寒いな」
「……聞かれなかったから、言わなかっただけか」
そんなマルテの嘆息は、煙のように白く染まり、暫く宙に漂っていた。
水没都市【エルアグア】。
魔術国家【デ・ラ・ペーニャ】の第一聖地として名高い【マラカナン】の北部に位置する寒冷地だ。
それと同時に、決して人口は多くないが、首都である【ベルミーロ】と同等の知名度を誇る、国内随一の有名都市でもある。
最大の特色は、水没都市と言う冠通り、水に没した都市であると言う事。
世界でも屈指の流域面積を誇るアラバ川を配している湿地帯と言う事で、街の至る所を大きな川が通っている。
建築物と建築物の間に、さもそれが当然であるかのように、水路があるその光景は、他の都市、他の聖地にはない、一種異様な風景だ。
尤も、観光として訪れる分には、大きな見所になるその水路も、明確な目的があって移動しなければならない人間にとっては、ただの障害。
いちいち水先案内人の小舟に乗って、目と鼻の先にある対岸へ渡る度にチップを支払わなければならないと言うのは、寧ろ苦痛ですらある。
そう言った事もあって、アウロスが雇ったこの少年、マルテの役割は大きい。
単に道案内と言うだけではなく、彼が全て他の案内人に話を付けてくれる。
先払いでまとめて支払いは行っているが、手間が省けるのは確かだ。
そして今も、マルテの口添えにより、アウロスは一隻の小舟に乗り、水路を渡っていた。
「この先にあるよ。お兄さんの言ってた『密売』の会場は」
その年齢にそぐわない、何処か隠者のような、開悟した仙人にも似た語調で、隻腕の少年が告げる。
それに小さく頷き、アウロスは視線をその方向へと向けた。
透き通るような、と言う表現は、果たして相応しいのか、否か。
明瞭と模糊が同居する、揺れる水面の遥か先には、屋上に鐘楼を構えた雄大な建造物が映っていた。
世界的に見ても、希有な性質を数多く持ち合わせている、水没都市【エルアグア】。
その中の一つに挙げられるのが、その独特な建築様式だ。
元々、大陸から流れる川の水によって運ばれた土砂によって、自然に生まれた湿地帯。
決して強固な土壌とは言えず、人が住む場所としては、適切ではなかった。
にも拘らず、第一聖地マラカナンの魔術士は、ここを主要都市の一つと定めた。
その理由は、公開されていない。
そんな特殊な条件下にあって、【エルアグア】は独自の文明を築き上げて来た。
他国との交易と、自国の技術の発展を同時進行で進めた結果、そこには自由極まりない、あらゆる様式が混入した建築文化が根付いている。
加えて、水との共存と言う絶対的な主題がある事で、その文化は更に独自性を増す事となった。
この【エルアグア】は、一日中水没している訳ではない。
無論、河川や水路に関しては、常に水で浸されているが、それ以外の場所に関しては、時間帯によっては地面が露見する。
基本的に、午後から夕方の間はどの季節においても水は引いている。
現在、【エルアグア】は朝を迎えて間もない時刻。
その為、水位はそこそこ高い。
結果として、その建築様式の独自性がハッキリとわかる。
本来は、各建築物における一階部分の筈の箇所は、全て『柱』。
沢山の柱によって、更に上の階を支えている。
この都市にある建物は皆、高床式になっていると言う訳だ。
最高水位に達した際、その数多の柱は水没し、水の上に建造物が浮いているかのような、独特の光景が誕生する事になる。
そして、停留所に寄せられた小舟の上から、アウロスが見上げるその目的地――――【フォン・デルマ】と呼ばれる巨大な塔もまた、その様式に則った造りになっていた。
「入り口はこっちだよ」
停留所から階段を上って、マルテの案内に従い、アウロスはその建物を食い入るように眺めながら、『寄合』の会場へと向かう。
この【フォン・デルマ】の用途は、多様。
元々は時刻を報せる鐘を管理する為の塔であるのと同時に、この都市の象徴的な存在として造られた塔だったが、歴史の進行に伴い、更に巨大で、最先端の技術、芸術を盛り込んだ建造物が生まれた事で、当初の目的の半分は失われた。
以降は、中の広大なスペースを利用し、会議室を造ったり、展望室を設けたりして、住民も観光客も利用できる場所として、開放されている。
「一応断っておくけどさ……僕はこれ以上責任は持てないよ。あくまでも、案内までが仕事なんだから」
しかし、マルテの言葉と表情は、そんな公的な所への入場とは似つかわしくない、不安に充ち満ちていた。
つまり――――ここには、表の顔とは異なる、裏の顔がある、と言う事。
そしてその裏の部分こそが、アウロスの目的。
この【フォン・デルマ】を、そして【エルアグア】を訪れた理由でもある。
「その割に、結構な額を要求された気もするが」
「そ、それは兎も角。お兄さん、ここに一体何の用事があるの? ウェンブリーの魔術士なんでしょ?」
案内役の少年は、明らかに話題を逸らそうとしていたが、それに気付きつつ、アウロスはそれ以上の追求は控えた。
「生憎、俺の肩書きは魔術士じゃない。それだと都合が悪い人がいるからな」
「?」
「ま、それは良いとして……ここにある用件は、一つしかない」
第二聖地ウェンブリー出身の『元魔術士』アウロス=エルガーデン。
そんな肩書きを背負う十九歳の青年は、ようやく辿り着いたその入り口の周囲を固める壁に拳をコツンと合わせ、軽く押しつけた。
「流れた論文を拾う為だ」
魔術とは、古代より生まれし技術。
人間の持つ『魔力』を源泉とし、『魔具』と言う道具を用いて、『ルーン』と言う魔力を魔術に変換させる為の言語を描く事で発生させる事が出来る、確固たる論理に基づいた成果物の一種だ。
その為、発展の為に必要なのは、学問としての近代的な理論の上積み。
つまりは、研究だ。
魔術士と言うと、とかく『魔術を使用して何らかの破壊活動に興じる人』と言う印象が根強いが、実際には内向的な活動に取り組む者も多い。
一方で、魔術と言えば、他者への攻撃を目的としたものが圧倒的多数を占めていると言うのも、また事実。
その為、魔術を武器として戦う兵も多く、そう言った魔術士は『臨戦魔術士』と呼ばれている。
それに対し、魔術学を研究し、彼等が使用する魔術を開発する者は、そのまま『研究者』とされる事が多い。
研究者は、大学や研究室で魔術の研究、開発を行う。
魔術大学と呼ばれる施設は、【デ・ラ・ペーニャ】の各地に点在しており、多くの研究者がそこで様々なアプローチを試している。
その研究における基礎的な考察や実験データ等、あらゆる過程と成果を示した物が、『論文』だ。
魔術論文は各大学で毎年大量に生み出され、そして各地域における発表会で公のものとなり、その魔術の実用化が検討される。
実用化とは、すなわち『商品化』だ。
魔術は、誰も彼もが自由に使って良い技術ではない。
その技術を総括するアランテス教会、或いはその教会が加盟している『魔術士協会』の許可を得た者だけが使用できる。
つまり、新たな魔術を開発し、実用可能と判断された場合、その魔術の利用権は、教会や魔術士協会が買い取る形となる、と言う訳だ。
また、研究、開発されるのは新しい魔術だけではない。
既存の魔術をより活かす為のシステム、より効率の良い効果を発揮できる魔具など、論文の種類には枚挙に暇がない。
そして、そう言った論文を実用化させる為には、『システムを道具化する』、『魔具を生産する』事の出来る技術者、更には販売業者が必要となる。
当然、そこには然るべき流通も生まれる。
そうやって、魔術の研究と開発による成果物と言うのは、魔術国家【デ・ラ・ペーニャ】を支えている。
だが――――何事においても、健全性の裏には非健全性が存在する。
つまりは、闇社会。
魔術と言う技術においても、それは例外ではない。
大学や研究室で健全に作られる魔術もあれば、そうでない魔術もある。
同様に、健全に作られた論文が、何らかの理由によって、正規の手順を踏む事なく、闇社会で取引される事もある。
この【フォン・デルマ】の裏の顔とは――――そう言った魔術密売が行われる場所だ。
「お兄さん、研究者だったんだ。ローブ着てないから、てっきり……ま、でも確かにそう言う雰囲気あるよ、なんとなく」
「どんな所が?」
「変に回りくどい言い方するトコ」
少々痛点を打ったその言葉を、アウロスは瞼の周囲の筋肉で振り払った。
「でも、研究者がこんな物騒なトコロに一人で来るなんて……護衛とか雇わなくて大丈夫? 僕の知り合いに、腕の良い傭兵を知ってる人がいるけど、もし良ければ紹介……」
「必要ない」
最小言語で切り捨てられたマルテは、思わず言葉と同時に生唾も飲み込んだ。
だが、めげずに語りを続ける。
「身の安全が第一だと思うけどな。ま、そうそう危ない事なんて起こるモンじゃないけどね。あ、この階段を一つ上って、左側の一番奥にある部屋が、お目当ての場所ね。勿論、普通に入る事は出来ないよ。見張りの人がいるから」
「……別料金、って事か」
嘆息しつつ、アウロスは革袋から3枚の銅貨を取り出した。
「これだけ?」
「生憎、そんなにゆとりがある訳じゃない。職場を失ってる身なんだよ」
「それは……ご愁傷様」
こんな場所へ訪れる人間に、まともな経歴がある筈もない――――銅貨を受け取るマルテの顔には、そんな先入観がありありと浮かんでいた。
だが、目的の部屋の前に着く頃には、そんな表情もすっかり消え失せ、案内人特有の愛想の良い笑みへと移行していた。
「お一人様、ご案内ね」
そして、見張りの男に銅貨を一枚、親指で弾いて渡す。
それが合図、と言う事らしい。
「さ、中へどうぞ。僕は外で待ってるから」
ヒラヒラと手を振るマルテを尻目に、アウロスは『闇市場』の会場に足を踏み入れた。
そこはまるで――――論文の墓場。
そんな言葉が脳裏を過ぎる程、無造作に積まれた論文で溢れかえっていた。
広さは、街で屈指の規模を誇る酒場ほど。
そこに5つの長机が置かれており、その机に論文の束がずらっと並んでいる。
詰めかけている人数は、20人程。
その中で、ローブを着ている人間はごく少数だ。
普段、魔術士の中では浮いていたアウロスだが、この場においては寧ろ良く馴染んでいた。
「……」
その所為か、アウロスが入室しても、誰一人目もくれない。
各々、論文探しに必死になっている。
裏に流れた論文を見繕う者の目的は――――主に三つ。
一つは、正規の方法で入手できない、『闇市ならではの内容の論文』を見つける為。
主に禁忌指定されている魔術の論文だ。
一つは、掘り出し物の論文を見つける為。
そして、もう一つは――――自分の意に沿わない形で裏へと流れた論文を、自分の手元に取り戻す為。
アウロスの目的は、まさにそれだった。
【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】
それが、アウロスが手掛けた論文のタイトル。
ルーリングと言うのは、ルーンを描く作業の事だ。
それを高速化、それも自動的に、瞬時に行う事が出来るようになる技術が、この論文の中には詰め込まれている。
実用化されれば、魔術の利便性が圧倒的に向上する、夢のようなシステム。
同時に、多くの研究者が幾度となく挑み、そして散った、別の意味でも夢のシステムでもある。
それ故に、長らくこの論文は『一攫千金論文』と呼ばれた。
当たれば大きい、だが事実上不可能な無理難題に挑む、バカ者の研究。
そう言う揶揄を込めた言葉だ。
しかし、アウロスは幾多もの困難の後、それを実用化できる水準まで持ってきた。
そんな論文が、この【エルアグア】へと流れ着いた事を知って、早半年。
ようやく、ここまで辿り着いた。
尤も、確実にここにあると言う保証は、何処にもないが。
「……はぁ」
なんとなく漂う疲労感を息にして落とし、アウロスは改めて机に目を落とした。
それぞれの端には、『攻撃系魔術1』、『攻撃系魔術2』、『攻撃系魔術3』、『制約系・解約系魔術』、『その他』と言った記述を記した札が置かれている。
乱雑に置かれているものの、一応分類はしているらしい。
アウロスはその中の『その他』の机に移動し、最寄りの論文を手に取った。
そのタイトルは【緑魔術の普遍使用による空中浮遊理論】。
緑魔術とは、風を生み出す魔術全般を指す。
アウロスの苦手とする分野だ。
その緑魔術を使って、空を飛ぶと言う内容だった。
現時点において、空中遊泳が可能な魔術と言うものは存在していない。
当然、瞬間移動や時間移動、或いは人の心を読んだり、何もない所から金銀財宝を生み出すような術も、現存してはいない。
だからこそ、そのような『夢』に挑戦する研究者は後を絶たないが、まともな市場では相手にもされず、こう言った所へと流れ着くケースが多い。
実際、アウロスの目から見ても、その論文は欠陥だらけで、価値のないものだった。
そして、自分の論文も、これと同一視されているのかと思い、嘆く。
一応は論文発表会で大々的に発表され、既に『夢物語』の域は脱している論文ではあるのだが。
「さて……どうしたものか」
手にしていた論文を元の位置に戻し、暫し思案する。
『その他』の机にある論文の数は、3つの机に並んでいる攻撃魔術系と比較すると、少ない。
しかし、あくまでも比較論の話であり、明らかに数万枚はある紙の束がズラッと何十組も並んでいるこの光景を『少ない』と見なす程、アウロスは速読の技術には長けていなかった。
紙自体が貴重な物である事を忘れてしまうくらい、一種異様な景色。
だが、それより遥かに切実な問題が、ここにはある。
この中から、僅か百枚程度の自分の論文を見つけると言う作業は、想像するだけで目を回す事請け合いの難題だ。
「……手伝って貰うか」
路銀の残りを検討した結果、アウロスは外で待つマルテに声を掛け、二人体勢での探索を行う事にした。