第6章:少年は斯く綴れり(22)
ミストの言葉は、単なる絶縁宣言ではなかった。
思想の違い。
見ているモノの違い。
住む場所の違い。
あらゆる、相容れない要素で研ぎ澄まされた、声と言う名の刃。
老人の顔に、無数の傷のような皺が刻まれる。
そのやり取りの一方で、アウロスは直ぐに総大司教の方へと視線を向けていた。
ミストの思考とは正反対の意図で。
「総大司教……いや、ミルナさん。一つ聞きたい事があるんですが」
ミルナの反応はない。
「グレスと言う名前の男に心当たりは?」
しかし、返事すら待たずに尋ねる。
アウロスに余裕はない。
元々ない。
常にない。
だから、それを覆い隠す為に、口調や表情には細心の注意を払って生きて来た。
それは、虚勢と言うよりは、擬態。
自分より優れた人間に擬態する事で、大きな危機を乗り越え、明らかに格上の敵と渡り合ってきた。
本来、この場はその集大成となる筈だった。
しかし、アウロスはそれを止めた。
擬態に必要な、微小な時間を惜しみ、素で問いかける。
自らの全てを、一人の恩人の為に費やしてきた少年が、旅路の果てに辿り着いたのは――――自分を支えてくれた人達の危機を防ぐ為に必死になる、ごく普通の人間だった。
「……心当たりなら、あります」
「初めて会ったのは何処で?」
ミルナは沈痛な面持ちで、答えを言い淀んでいた。
間髪入れないアウロスの迫力に気圧された訳ではない。
明らかに、別の理由がある。
しかし、アウロスにそんな心の整理を待つゆとりはなかった。
「俺は別に貴方の事を怨んではいない。それを盾にする気もない。けど、本当の事を言って欲しい」
それが理由の一つであれば――――そんな希望を込めて、懇願する。
アウロスに出来るのはここまでだ。
「……クワトロホテルで、私の護衛をしていらっしゃった時です」
「それ以前に、貴女『自身』が彼と『直接』関与した事は?」
「……」
沈黙。
それは、事実上の肯定だった。
不意に、アウロスの顔に安堵が滲む。
論文の件が解決した訳ではない。
それどころか、光明すら見えないまま話が逸れてしまっている。
紛れもなく、最悪の展開。
だが、アウロスは心の底からホッとしていた。
『彼女』が救われた事は、この上ない喜びだった。
その顔を隠しもせず、リジルの方に向ける。
「……良く、『こんな事』を知ってたな。教会の最高機密じゃないのか?」
「情報屋ですから。彼女がここに来る事は知りませんでしたけどね。それに、僕はアウロスさんの味方ですから」
事もなげに言う。
実際、『こんな事』の情報の質を考慮した場合、アウロスの支払った金額の100倍以上の市場価値は確実にある。
それを敢えて提供したと言う事実は、彼の言葉に説得力を持たせた。
「そこまで気に入られる覚えはないんだが」
「ご存知の通り、僕には様々な顔があります。意識して使い分ける事もあります。でも、貴方はいつも、どの僕に対しても同じ接し方をしてくれます。何気に嬉しいんですよ、そう言うのは」
リジルも、アウロスに負けず劣らず面倒な生き方をしている人間だった。
ある時は迫害され、ある時は重宝され、最終的にはその血の所為で棄てられる――――そんな人間にとって、如何なる時も変わる事のない不敵さで自然に在り続ける姿は、嬉しくもあり、尊くもあった。
「だから、味方なんです」
「どうだか。エグい殺気でビビらせたりした癖に」
「え?」
その反応は、リジルがこれまで見せて来た対応の中で、際だって不自然だった。
つまりは――――素。
アウロスの記憶が、思考によって急速に塗り替えられる。
そうしなければ――――そんな警鐘が図中に鳴り響く。
「最初に仮面をして俺に会ったのは何処でだ。真実を言え」
そして同時に、ある一つの可能性を見出したアウロスは、懐から小銭を取り出してリジルに投げ付けた。
情報料としては余りに少ない額だったが、そう言う問題でもない。
「あれ? さっきはあれで全部って……」
「ヘソクリは別腹だ」
「やれやれ」
最後までこの人は……と口元で呟きつつ、リジルは律儀に情報を提示する。
「ウェンブリー教会です」
「……となると、あの時の『アレ』は別人か。テュルフィングってのは個人名じゃなくて何かのコードネームか?」
「話が早いですね、いつもいつも」
先に先に行くアウロスを諌めるように、肩を竦めて掌を返す。
「テュルフィングと言うのは、バランサーのコードネームです。僕のように情報屋を兼任している人が大半ですね。情勢に疎いと意味がないんで。恐らく僕以外にも何人か、ウェンブリーにいると思います。その中の一人と会ったんですね」
アウロスの視界の外で、ミストと老人は未だに睨み合っている。
奇妙な空気が流れる会場に、倦怠感が漂い始めたその時――――
「まあ、中には魔術士の『間引き』を専門にした人間もいますけどね。そう言う人は、生物兵器の仮名同様、こう呼ばれています」
一つの気配が――――
そして殺気が――――
弾けるように発生した。
それは人の神経を針で突付くような、エグい殺気。
それに呼応するように、気配がもう一つ増える。
悠久の情報屋、ラディアンス=ルマーニュその人だった。
「何かいる! そっち!」
切り裂くようなラディの声が室内を伝う。
大きく膨れ上がった殺気が、会場全体を蹂躙する中、リジルは淡々と言葉を紡いだ。
「――――魔術士殺し、と」
「仕事だ! そこの裏切り者……いや、ここにいる全員を間引いてしまえ!」
それと同時にミハリクが吼える。
アウロスは瞬時に指輪を取り外し、携帯していたもう一つの指輪を右手の人差し指に嵌めた。
「ルイン」
そして、外した指輪を相応しい人に向け、投げ贈る。
「昔、お前を殺せって命じたのは、多分お前の母親じゃない。お前の母親を影で操っていた奴だ」
刹那の中で、アウロスはあらゆる可能性を考慮した。
そして、最も優先すべき言葉を、丁寧に綴った。
「良かったな」
言い終えると同時に振り返り、殺気の方向に向けて右手を伸ばす。
ピン、と伸ばした人差し指は、たった『一文字』を、それまでで最も早く綴った。
「……こう言う時に名前を呼べないのは、辛いのよ?」
「悪い」
自動的に綴られる文字を前に、そして謝罪の言葉を後ろに。
アウロスの元に残されたのは、後者だった。
(でも、もう暫く、この名を借りなきゃならないんだ――――)
見覚えある仮面が、信じがたい速度で視界を埋める中。
アウロスは、そんな事を考えていた。