第6章:少年は斯く綴れり(21)
前衛術科第Ⅱ教室の雰囲気は、依然として混沌としたまま、ある種の拮抗状態を保っていた。
二つの大きな台風が、それぞれに風向きを頻繁に変えながらも、呑み込まれる事なく勢力を維持しているような、奇妙な状態だ。
「妙な方向に話がズレてしまいましたね」
それを眺めるリジルの目に、僅かながら輝きが戻る。
好奇心が別の方向に働いたのもそうだが、状況の変化をどうにか利用しようと策を練っているアウロスの姿に、何となく感動のようなものを覚えたからだった。
「ケッ、いい気味だ。非道な事すりゃ、思いも寄らねえ所でしっぺ返し喰らうのが、世の常ってモンよ」
その横で、ラインハルトが『総大司教憎し』のコメントを残す。
二人が並ぶと自らの小柄さが一層目立つので、何気にリジルは嫌がっていた。
「確かに、得てしてそう言うものかもしれません。ですが、これが本当に『思いも寄らない所』かどうかは怪しいですよ」
「あん? 思い通りの所ってこたーねーだろ?」
「では、何故彼女はここに来たんでしょうか」
先程のやり取りで、リジルも既に、誰が総大司教を呼んだかは察していた。
だが、総大司教がそれに応じる必要はない。
彼女には、それを断る事の出来るだけの権限がある。
つまり、それが出来ない理由があるか、自分の意思かの二択と言う事になる。
「現在、彼女の立場はかなり危うい所にあります。女性の総大司教を快く思っていない勢力と、その席を虎視眈々と狙う勢力、そして……彼女の過去を種に、脅している勢力」
リジルの視線の先に、ミハリク司教の醜悪な顔が見える。それに気が付いたラインハルトは、珍しく小声でリジルに問い掛けた。
「あいつもその一味ってか?」
「そうかもしれませんし、違うかもしれません。まあ、彼女の場合は、狙われる事自体が役目とも言えますけど……」
その言葉を言い終えたと同時に――――リジルは目を見開いた。
「……ルインさん?」
その要因となった女性が、一歩、二歩と前に出て行く。
その足取りは決して強くはなく、指先に至っては明らかに震えていた。
【死神を狩る者】として恐れられた彼女の姿はもう、何処にもない。
「…………何故」
そこにいるのは――――
「何故黙っているの!?」
自分を初めて純粋な目で見、どうしようもなく口の悪い自分と対等に話をし、躊躇なく命を預け、そして護ってくれた男性の危機と、それを前に何もせずにいる女性に対し――――
「貴女の事でしょう!? 何故貴女の所為で嫌な思いをしている人間を黙って見ているの!? 貴女が話さなくて、誰が話すのよ!」
特別な感情を抑えられなかった、一人のか細い女性だった。
「……ったく」
思わず顔に手を当て、アウロスは呻く。
事前の『動くな』と言う約束は、果たされず。
これで最悪、ルインを巻き込む事にもなりかねない状況になった。
しかし、そうなれば尚更、ここで終わる訳には行かない。
アウロスは沈黙のまま、総大司教の反応を待った。
「……そうね。貴女の言う通り」
達観した表情はそのままに、視線もルインには向かないまま、その言葉はポツリと呟かれる。
そして、その一秒後――――総大司教ミルナ=シュバインタイガーの顔から、皺が半分以上消えた。
「この方は『被害者』です。これ以上の質問は控えて頂けますでしょうか?」
向けられる視線の先には、自身より身分が下の男。にも拘らず、その両者の目に、正しい高低差は存在しない。
「ほう。では総大司教自ら真実をお話になると?」
「はい」
凛とした佇まいで、返事。
追い詰めた筈の相手が見せた決然たるその顔に、ミハリクは――――笑みを消し、眉をひそめた。
聴衆の目が一斉に、ミルナへと注がれる。
「私は昔、研究者として人の道を踏み外しました」
その最初の一声に、場の空気が凍り付く。
総大司教の発言としてはあり得ないその言動に、事情を知る数人を除く全員が、顔を驚愕に染めた。
「その頃の私は、悪魔にでも魅入られていたかのように、一つの欲望に対し忠実で、それ以外の事には全く無関心でした。しかし、その欲望が満たされる事はなく……その代わり、私には総大司教と言う重責が待っていました」
「自ら望んだのでしょう? でなければ到底、用意される地位ではない」
「そうですね」
自嘲の笑みと共に、静かに頷く。
そこに、総大司教と言う地位に似つかわしい気勢は、まるでない。
「私は自らの意思で総大司教になり、今に至ります。その通りです」
「貴女は噂通り、過去に人体実験を行った……そうですね?」
「……はい」
「わかりました」
大層満足気に何度も頷き、ミハリクは息を大きく吸い込む。
そして、この瞬間が自らの人生の最高潮だと言わんばかりに、恍惚の表情で口を開いた。
「皆さん。これは教会、いや魔術士界全体を揺るがしかねない、大きな事態と言わざるを得ません。どうか他言無用を貫いて頂きたい」
無論、それは本心ではない。
彼の狙いは最早、会場にいる全員が理解していた。
しかし、それを咎める者はいない。
具体的な内容にこそ触れなかったが、総大司教自らが『過去に人の道を踏み外した』と発言している事で、誰一人補佐する事すら出来ない。
その中にあって。
「……」
ルインだけは、母親の醜態とも言えるその姿を――――別の見方で眺めていた。
「さて、それでは……」
「お待ち下さい」
誰もがミハリクの脚本通りに動いていた中、高音の男声が講義室内に響く。
「僭越ながら、総大司教様の御言葉に少々補足させて頂きたく存じます」
恭しく一礼してそう進言したのは――――リジルだった。
「何だ貴様は。既に総大司教様直々に、自らの過ちが語られたのだ。何を補足する必要があるというのだ?」
「アウロスさん」
リジルはミハリクの言葉を丸ごと無視し、アウロスの方をじっと見続ける。
その意図を察したアウロスは、衣嚢の中に忍ばせている皮製の財布を取り出し、それごと投げて寄越した。
「持ち合わせはそれだけしかない」
「結構ですよ。ありがとうございます」
中身の確認もせずにそう告げ、懐に仕舞う。
「初めからこんな風に条件を提示すれば良かったですね」
「お前の用意した椅子だと、ここ程は周りを見渡せなかっただろ?」
当然ながら、それは位置だけの意味ではなかった。
「成程。参りました」
「おい! 何をペチャクチャ……」
「お待たせしました。では、一つ重要な事実について述べさせて頂きます」
リジルは教会屈指の実績を誇る老人を前に、何ら恐縮する事なく早口で捲くし立て、情報屋の仕事に邁進した。
「彼女は、総大司教であって、総大司教ではありません」
そんな、謎かけのような言葉が空気を揺らした刹那――――
「!」
アウロスとミストが、同時に目を見開く。
彼らを除く聴衆及び役員は、皆その言葉の意味を理解出来ず、呆然と視線を泳がせていた。
ミハリクもまた、その一人。
呆れた様子で嘲笑を浮かべる。
「はあ? 何を言い出すかと思えば……」
「貴方のその反応は正しい。普通はそうでしょう」
リジルは、ミハリクの発言を制し、同情にも近い顔を作る。
そして、この場における二人の主役を交互に見やり、呆れるように嘆息した。
「でも……世の中、妙に『察しの良い』人っているんです。実際、これだけで伝わるんですから。嫌な人達ですよ」
様々な肩書きを持つジョーカーの手によって、賽は投げられた。
「さて、どうします?」
その目は、誰に祝福を与えるのか――――
(驚いた……いや。必然だな)
幾ら貴族とは言え。
幾ら自意識過剰な人種とは言え。
そう簡単に、女性を自分達の地位に招き入れる程、他の総大司教達は寛容ではない。
『総大司教であって、総大司教ではない』
このリジルの発言には、ミストの持つ基本認識を肯定する成分が含まれていた。
それが真実ならば、ある意味『死神を狩る者の親が、死神に取り憑かれている』と言っても過言ではない。
(皮肉ではあるが、同時に救いでもある、か)
ミストの中で既に、その解釈は確信を得ていた。
次に行う事は、自らの身の振り方についての再考。
(となると、連中がここで総大司教……いや、彼女を糾弾した所で無意味。それどころか、素晴らしく精巧な疑似餌に釣られて、吊るし上げられるのは目に見えている)
構図は極めて単純だった。
『彼ら』にとって、総大司教と言う地位にいる人間は、その傘に入っている者を除けば、基本的には邪魔な障害でしかない。
何事にも派閥はあるが、教会はその最たる例。
よって、自身の上司以外の権力者は排除の対象だ。
つまり、現在の構図は、かつてミスト自身が教授の地位を得る為に行って来た事と、そのまま重ねる事が出来る。
しかし――――教会は大学ほど甘くはない。
(距離を置く必要がある……な)
ミストの決断は早かった。
何が自分の目標にとって最適か――――それを見極める能力こそが、彼の凄まじいまでの矜持を満たす唯一の手段であった。
迷いなどある筈もない。
「どうやら貴様も、その子供とグルのようだが……ミスト教授の発表を邪魔し、場を混乱させるのが目的である事は明白。自ら退場する意思がないのなら、この私が捕らえてやろう」
そんなミストの思考など知る由もなく、未だに自らの脚本を有効だと信じて疑わないミハリクは、アウロスの魔術で動けなくなった一人の部下を放置し、残りの一人に目配せをする。
老人にとって、武力行使は好みの手法らしい。
だが――――
「お待ち下さい」
それをミストが諌める。
ミハリクの顔は、自然と緩んだ。
無論、そこに敵意など微塵も感じてはいない。
まるで恋人に良い所を見せたい若者のような、年齢に似つかわしくない不細工な顔だった。
「ミスト教授、ここは私に任せられよ。何、こう見えてもまだまだ若い者に遅れを取りはせん」
「いえ。貴方にお任せする謂れはございません」
しかし、聞こえて来たのは、明らかな拒絶。
老人の顔色が如実に変わる。
この手のタイプは、一度気に入った人間が自分から離れると、執拗なまでに追い詰めるのだろう――――そんな事を考えながら、ミストは言葉を待った。
「……どう言うつもりだ、若造」
案の定、鬼の形相と化したミハリクに届くのは、冷ややかな視線。
状況は、明らかに一変していた。
「このような状況になる事を、私は知りませんでした。それは、神のみぞ知る事であって、私のような若輩者には啓示の一つも聞こえて来なかったからです」
陳腐な憤怒に対し、敢えて言葉を包み込んで返す。
状況を把握しきれない、と言うより追いかけきれない聴衆は、完全に置いて行かれていた。
「神の御意思に従わない背徳者に、未来などないぞ?」
「一つ知恵を授けましょう、御老人」
ミストは、不敵に微笑む。
青魔術よりも凍てつくような気を纏って。
「神にも序列があるのです」