第6章:少年は斯く綴れり(20)
面倒な事になった――――ミストは率直にそう感じ、心中で舌打ちした。
詰んだと思った争いに、再び火種が舞い落ちる。
それは、舌戦でも血戦でも、しばしば起こり得る事ではある。
特に珍しい出来事ではない。
が、再び燃え上がったその炎は、より高い火柱となってしまう事もまた、よくある話。
その要因を作った格好となった『御得意先』を睨みたい心境だったが、ミストはそれを自制し、脳に活力を注いだ。
(少し……落ち着くとするか)
そう考え、それを実行するのは存外難しい。
それを事もなく出来るのが、ミストの強みであり、若くして教授となった証でもある。
瞬時に冷やされたその頭は、的確に現状の整理を行っていた。
アウロスの発言は、紛れもない事実。
だが、必ずしも『正しい』訳ではない。
ミストはアウロスをスカウトする際、その元上司であるウェブスター=クラスラード教授とも会っていた。
そして、アウロスが魔術士としての資格を剥奪された事を聞いていた。
当然――――ミストは困る。
魔術士の資格なしとなれば、研究員として雇う事は出来ない。
資格のない人間を雇い、それが公になれば、その責任は大学にまで及ぶ事になる。
そうなれば、教授就任どころの話ではない。
尤も、アウロスが資格を失うまでの経緯を聞いた瞬間、その懸念は消えた。
『間口を広げ過ぎましてね。あのような、頭は回っても魔術士としての資質……魔力量の極めて少ない人間まで、職員として迎えてしまった。流石に、使えない人間を何時までも置いておく訳にはいきませんのでね』
そのウェブスターの言は、自分の出世の道具として使えない――――と言う意味である事は明白だった。
要は、適当な理由を付けての利己的な足切り。
それも、自分達が掲げた方針の一環として招き入れた、まだ芽も出ていない若手を、その将来ごと踏み躙ると言う、身勝手極まりない愚劣な行為だ。
それを聞いたミストは、心の中でほくそ笑んだ。
人として腐っている方が、踏み台としては使い易いからだ。
ミストは敢えて話を合わせ、格上の大学の助教授と懇意になりたいウェブスターを上手く誘導し、アウロスの魔術士としての資格を『どちらにでも動かせる状態』にしておく事で、話をまとめた。
その見返りとして、様々な便宜を図る必要があったのだが――――結果として、その行為は思わぬ恩恵を生む。
ウェブスターには、教会関係者の兄弟がいた。
しかも長男は、ウェンブリー教会の司祭と言う身分。
切望していた教会との繋がりが、あっさりと手に入った。
(お陰で、質の良い踏み台を幾つか手に入れられたのだから、感謝せねばな)
ふと、ドラゴンゾンビの取引相手として利用した、クラスラード兄弟の顔が浮かぶ。
元々、彼らと恒久的に手を組むつもりなど全くなかった。
泥舟とわかっていて、それに敢えて乗り込む理由は何もない。
ドラゴンゾンビという餌を使い、彼らを教会におびき寄せ、一暴れさせる――――それだけで、教会関係者の暴挙が一つ出来あがる。
後はそれを種に、教会に一つ貸しを作り、更なる高みへの足懸かりとする。
計画は拍子抜けするくらいに円滑に進んだ。
とは言え、それらは都合よく生まれた成果ではない。
ミストは大学関係者を大学内から長期間引き離す為に、ある用意をしていた。
それは――――大学閉鎖。
リジルに協力を仰ぎ、羽虫型の生物兵器を用意させ、多数の体調不良者を生み出す。
無論、生命に危険を及ぼすような、殺傷力の高いものではない。
あくまでも、一時的に大学を閉鎖させる為の一手。
斯くして、綿密に計画されたその策略は、ほぼ遂行される。
唯一の想定外の出来事は、その件には関与させていなかった筈のアウロスが、結果的に暗躍したと言う事だった。
戦争を経験した10代の研究者がいる――――元々、スカウトした動機の大半は、そんな情報を得た事にあった。
前衛術、即ち接近戦用魔術を研究するに当たり、実戦経験に富んだ研究員と言うのは、重宝すべき人材だ。
それは、知識や経験以上に、存在そのものが説得力を生むからだ。
研究スタッフに、実戦経験者がいる。
ミスト自身、元臨戦魔術士であり、その実績が周囲に与える影響を肌で感じていた。
貴重な人材と判断するには十分な材料だ。
一方、一攫千金論文に対しては、当初から眉唾だった。
予定調和とは正反対の、刺激的なアプローチには目を引かれたが、一介の研究者がそう簡単に完成させられるような研究ではないのも、また事実。
期待はあくまで期待止まりだった。
そして、結果――――アウロスは期待以上の成果を挙げた。
実戦経験者である事の証明の為に向かわせた遠征では、総大司教の感謝状と言う予想外の手土産をもたらした。
盗作騒動の件では、最も楽な方法で解決に導くばかりか、教授への決定的な一押しまでくれた。
蚊帳の外にいた筈の、教会との取引に関しても、気が付けば主役の一人として暴れていた。
そして、誰も成し得なかった『オートルーリング』の完成――――それは全て、ミストの予想を超える出来事だった。
同時に、懸念が生まれる。
境遇に恵まれずに育った人間が持つ、いざと言う時の勢いや運を自らの経験で知っているだけに、その不安は日増しに高まって行った。
どこか、過去の自分を匂わす少年の影が、現在の自分を脅かす――――その状況に不快感が強まった。
何より、それを自覚せざるを得ない自分自身が恐ろしかった。
未だ10代のアウロスが、この論文を発表すれば、彼の名は急速に力を増し、魔術士界に広がっていく事は容易に想像できる。
そうなれば、影は影でなくなる可能性もある。
それは絶対に回避しなくてはならない。
(そう。アウロス=エルガーデン……お前は絶対に遠ざけなければならない)
ミストは決して、誇りのない人間ではない。
寧ろ、それこそが彼の存在を支える礎となっている。
そんな人間が、10以上も年下の元部下に対し、恐れを抱いている事を認め、正面から向き合う――――それがどれ程の強さを要するか。
「総大司教様の言葉に従います」
ミストはその強さをもって、アウロスとの討論を続行する意思を宣言し、改めて向き合った。
そして、迅速に次の発言の準備を脳内で始める。
(奴の言葉を否定し、『アウロス=エルガーデンに魔術士の資格あり』と唱えた場合……)
アウロスは嘘を吐いた事になり、全ての発言に対する信憑性を失う。
幾ら、総大司教の後ろ盾があっても、それは覆される事はないだろう。
ミストは労せず、自己の要求を満たす事が出来る。
(逆に、奴の言葉を肯定した場合は……)
当然、これまでのアウロスの発言に力が宿る。
敵対する相手から真実の証明を受ければ、自身がどれだけ主張しても手に入らない、最大級の説得力を得られるからだ。
そうなれば、総大司教の存在によって既に『身分による発言力の差』など通用しなくなっている現状において、アウロスが一気に優勢となる。
(さて……)
ミストは瞬きの為に閉じた瞼を二秒、そのままにし――――その間に思考をまとめた。
そして。
「彼の発言は、事実です」
何の躊躇いもなく、そう告げた。
(……条件を守った、か)
かつて――――アウロスがミストからスカウトされた際に提示した、三つの条件。
『俺の研究の方針に関しては一切口を挟むな』
『あんたの所持してる情報網を使用させろ』
そして――――
『俺を魔術士にしない事』
最後のそれが守られた事に、アウロスは内心愕然とした。
流石に、表情を固定するのも苦しくなってくる。
それでもどうにか耐え、ポーカーフェイスを守り抜いた。
アウロスは、ミストがこの大学の教授――――自分の元上司であるウェブスターと結託している事を読んでいた。
それも、アウロスと契約する前の時点で、懇意になっていると言う推測を立てている。
『自分を魔術士にするな』と言う条件は、それに対するカマ掛けでもあった。
なにしろ、魔術士でない状態の人間を、そう簡単に雇おうとする筈がない。
それに、教授クラスなら、一介の研究者の処遇を制御するなど造作もない。
仮に、その制御によって既に自分が魔術士に復帰しているのなら、『魔術士にするな』と言う発言に対して、ミストが驚愕の反応を示す――――と読んでいた。
だが、結果的には表情一つ変えなかった。
そこで全てを確信する事は出来ず、この件はアウロスの中で暫く『保留』となっていた。
しかし、今ならばその意味がわかる。
少なくとも平常心ではなかった、と。
そして、先ほど訪問した際のウェブスター教授の反応が、決定打となった。
大学を去る際には覚えていなかった、『アウロス=エルガーデン』の名前を、何故今は覚えているのか。
それは、彼にとって重要な人物――――ミストとの会話の中に、その名前が出て来たからだ。
「我が【ウェンブリー魔術学院大学】に、彼が入る前の事です。この大学に所属していた彼は、魔力量の少なさを指摘され、異例と言える再検査を命じられました。その結果、彼は魔術士として認められる最低基準値の128Sを、微かに下回っている……と言う結果が出ました」
ミストの発言が続く中、アウロスはその先にある攻撃を読む。
事前に想定していれば、避けられる――――と言う訳ではない。
その点が、血戦とは異なる点だ。
それでも、ある程度の防護手段にはなる。
ただ、読みが当たるとは限らない。
「しかしながら、それは所謂、誤差の範囲内。私が彼をスカウトした『後』に、それについて文書で問い合わせた所、『現在話し合いにより検討中』との回答を頂きました。これは、彼にはまだ話していない事です」
(そう来るか……)
アウロスは全身を掻き毟りたい衝動に駆られ、それを必死で抑えていた。
スカウトを行った際には知らなかった――――そんな子供騙しのような言い分も、一定の権力を添えれば、十分な盾となる。
中々に、思い通りに事が運ばない。
ミストは、アウロスが退路を断って放った攻撃すら、あっさりと防いでみせた。
「君にとっての真実が、必ずしも世界の真実とは限らない。どうかね? アウロス君」
先程以上に追い詰められた格好となり、アウロスは初めて感情の制御を怠った。
滲み出る冷や汗の感触も、瞬きの数が増えている事も、自覚できない。
背中に壁も何もない、当たり前の筈のその感覚が、まるで一歩後退したら奈落の底に落ちて行くような、そんな錯覚に囚われる。
それは、命のやり取りが当たり前の戦場であっても、殆ど陥る事のない感覚だった。
少しでも油断すれば――――ではなく、全く気を抜いていない状態でも、間断なく命を削られているような、理不尽極まりない空気に、頭が軋む。
「だが、彼には十分過ぎる程に同情の余地がある。彼は生まれながらに親がなく、幼少時代は、とある貴族から奴隷として買われたのです。その間、人体実験の被験者として、過酷な生活を強いられてきた。そんな人間が、自ら勝ち取った栄光に対して、過度な要求をする事に対し、誰が責められるでしょう」
つまり、『成り上がりが調子に乗っただけだから、多少は大目に見てやりましょう』と言う事だ。
恵まれない生い立ちの部下を思いやる器の大きな上司と、その想いを無下にし反発する無知な部下。
その構図が、ミストによって完全に確立された。
「ほう……それは興味深い話ですね」
アウロスが心中で頭を抱える中、先程の介入が上手く行かずに存在感が消えていた教会上位者が、再び声を上げる。
ミストと繋がりがある事は明白だが、アウロスにとって彼の介入は寧ろ有り難かった。
攻撃材料を提供してくれる事を期待し、言葉を待つ。
「奴隷を買う貴族と言うのは、良くある話ですが……人体実験を強いられたとなれば、話は別。そのような愚劣極まりない行為、断じて許す訳には行きませんね」
ところが、その教会上位者はアウロスではなく――――総大司教の方に視線を向けていた。
「かなり眉唾ものですが……噂に聞いた事があります。かつて領主の妻だった女性が、自ら領主となり、その権力で人体実験を行い、それによって得たデータを元に、魔術と生命体――――生物兵器との融合方法を確立させ、かのガーナッツ戦争において大きな戦果を上げた……と」
その瞬間、アウロスとミストは彼の本来の目的に気が付く。
アウロスはこの時点で、総大司教を誰が呼んだのか理解した。
「そして、その方は今、総大司教と言う地位に上り詰めた。そんな噂です」
当の総大司教は――――達観したような顔で、虚空を見つめていた。
「アウロス君だったか。君は、御隣におられる方の顔に、見覚えはないかね?」
突如首を曲げ、上位者はアウロスの方に顔を向ける。
齢60を越えるであろう老人でありながら、その顔には我欲に囚われた者特有の『人を傷付ける事に何の感慨もない笑み』がこびり付いていた。
「よおく見てくれたまえ。これはとても重要な事だ。かつて、君の人生を極限にまで踏み躙った女性の顔と、そこにおわす御方の顔……何か感じるものはないかね?」
不快――――ただそれだけが心を満たす。
しかし、この平常心を失ったままでは、老獪な魔術士の思う壺。
アウロスは、磨り減った自制心を足の指先辺りから掻き集め、心を落ち着かせた。
「さあ……奴隷時代の事は、記憶が曖昧ですから」
「そんな事はないだろう。嫌な事、嫌な相手の顔ほど良く覚えているものだ」
老人の顔が歪む。
話し方、間、表情、仕草……どれ一つ取っても、人をイラつかせる為の超一流の技術。
その意図が見えても、耐えるのが難しいくらいに。
「全くわかりません」
奥歯が軋む。
様々な葛藤が、脳と心を揺さ振る。
一瞬、アウロスはルインの方に視線を向けた。
「……」
そして、その表情を確認し、自身のすべき事を再認識した。
目的は、生き続ける事で、増えて行く。
今のアウロスには、長らく持ち続けた目的の為に、他の全てを投げ出す事は出来ない。
それを実感しつつ、奥歯を噛み続けた。
「偽証罪、と言う罪を知っているかね? 無論、ここは裁判の場ではない。しかし、いずれ判明する事実が、君の今の言葉と異なれば、私にはそれを咎めるだけの力がある。それでも、同じ答えを紡げるかね?」
アウロスは窮地の中、足掻くように好機を待つ――――