第6章:少年は斯く綴れり(15)
まだ太陽が出て3時間と経たない最中――――各分野の発表会が、全ての部屋で一斉に始まった。
大学の館内は緊張感に包まれ、会場に使用されなかった講義室や廊下では、発表を控えた研究者が本番に備え、それぞれの方法で待機している。
発声の練習に余念のない者。
暗記に時間を費やす者。
何もせずに集中力を高めている者。
知人と談笑している者。
椅子にもたれ掛かって食事しているデブ。
人生の掛かった大一番を前にして、怯む者もいれば、日常の中の一作業として淡々とこなそうとしている者もいる。
彼らは同じカテゴリーに属してはいても、必ずしも同じ研究をしている訳ではない。
寧ろ、完全に被る事は殆どない。
そんな人達を同じ場所に立たせ、その人生の意味と同義である研究過程と、その成果の全てを、一律の時間で提示させ、比較し、優劣を決める――――それが論文発表会だ。
「……」
アウロスは、様々な立場の魔術士が集う場所を離れ、かつて自分がいた研究室の扉の前にいた。
前衛術の研究としては、平々凡々と言われても仕方ないような、うだつの上がらない研究室。
ただ、そこにあるだけ。
それ以外に意味を見出す事が難しいくらいに、この中には何もなかった。
元々、使い手を選ぶ前衛術は、専門とする大学を除けば、極端な程に力を入れていない所が多い。
大手に大半の需要を握られている現状では、金にならないのだ。
活気のない研究室は必然的に淀み、腐敗した人間関係を生む。
結局――――アウロスがここで手に入れたのは、生活の大半を過ごした図書室内で得た知識と、論文の基礎を固める為に必要だった最低限の実験データ、そして――――忍耐力だった。
「大体よお。発表会なんつったって、どうせ大した奴は来ねえって。こんなヘボ大学に誰が足運ぶってのよ、なあ?」
扉越しに聞こえる雑音が、鼓膜に砂のようなものを押し付けてくる。
不快感は如実に自覚できる水準まで色を濃くしていた。
それから十秒後――――扉を開けた。
「お前……」
「教授はいるか?」
そう聞きながら、室内を見渡す。
「聞いたぜ。何でも、あの怖え顔の教授にスカウトされて、ウェンブリーに行ったんだってな」
倦怠感は悪化していた。
床には落書きされた書類や空き箱、果物の皮などと言ったゴミが撒布しており、壁には薄汚れた実験用の機材が放置された状態で立て掛けられている。
整理整頓の行き届いた机など一つもなく、中央に固められた椅子は明らかにその位置が最も馴染んでいる。
ここに、研究室としての機能はなかった。
「いないのか」
留まる理由もなくなり、扉を閉めようと腕に力を込める。
「まあ待てよ。折角来たんだから、手伝って行けよ。雑用は得意だろ?」
「俺らさ、会場設営までやらされて、その上に午後から案内係やら撤収やら任されてんだよ。人件費削減? とか、そんなんで」
雑音の源は三つあった。
何れも見覚えのある顔で、その内の一つは最後まで突っ掛かって来た男だった。
あれから二年近い月日が流れているのだが、記憶の中にある醜悪な配列に変化はない。
頭、額、眉、目、鼻、頬、唇、顎……どれを取っても、一般人と何も変わらないのに、自分が選ばれた人間だと信じて疑わない。
何もせず、他人を中傷する事だけは一丁前の存在。
それを幸福の源としている様は、まるで排泄物を餌にしている蝿のようだった。
「つのる話もあるし。ゆっくりして行けよ、な」
その中の一人が、まるで媚びるかのように、顔を綻ばせる。
自分はここにいる人材ではない、紹介しろ、連れて行け――――そんな歪んだ声が聞こえた気がして、アウロスは嘔吐感を覚えた。
「……用事がある。失礼した」
胸の辺りの筋肉に少し力を込め、扉を閉める。
離れて、そして再び訪れたその場所は、最早生理的に受け付けられなかった。
嘆息しつつ、今度はその直ぐ隣にある扉を開く。
「おおっ、君はアウロス=エルガーデンではないか!」
教授室の中には、当然ではあるが教授がいた。
ウェブスター=クラスラードと言う名前だったか、と心の中で確認しつつ、一礼する。
「どうしたのかね? 私に何か用でも?」
かつて上司は、部下の名前すら覚えていなかった。
しかし、今はっきりとアウロスは名前を呼ばれた。
正確には自分の名ではない、借り物の名を。
「私用で近くに来たので御挨拶に伺いました。御元気そうで何よりです。では失礼しました」
「は? ま、待ちなさいアウロス君。お茶でも……そうだ、つい先日兄が送ってくれたガーナッツが」
その事実を『確認』し、扉を閉じる。
一通りの儀礼は終わった。
後は、待つのみ。
アウロスは、精神を折り畳むように、静かに、そして深く、内に内にと活力と集中力を閉じ込めて行く。
両の頬を張るのと同じような感覚で。
そして――――訪れる時間に、身を委ねる。
自身の論文が発表される会場、前衛術科第Ⅱ教室へと、アウロスは重くも軽くもない足取りで向かった。
発表会が執り行われている会場の教壇では、この時間の担当の発表者が、自身の研究成果について熱弁を披露している。
初々しさのあるその発表を、真剣に聞く人間は――――殆どいない。
若年者にも間口を広げている論文発表会では、非常に良く見られる光景だ。
ミストは直ぐに訪れる自分の発表に備え、最前列に座っていた。
ウォルトもその一つ後ろの席で待機している。
アウロスはそれを確認し、講義室の中央に座った。
アウロスとミスト――――同じ空間に陣取るのは、十日振りとなる。
決して久し振りと言う程の長期間ではないが、その時とは関係が全く別のものに変わっていた。
既に、二人の間に社会的な繋がりはない。
それは同時に、抑止や抑圧と言った強制力がなくなった事を意味する。
アウロスは、ミストの背中を眺めていた。
講義室に入った瞬間から、その背中には何の動きもない。
今、アウロスがこの場にいる事に気が付いている素振りすら、欠片も見せていない。
だが、アウロスがその事実に対し、単に気が付いていないと判断する事はない。
意図的な無視か、気に留める程の存在ではないと言う認識なのか――――どっちもあり得るだけに、確信は持てずにいた。
(……ん)
一瞬、ウォルトがアウロスの方に不安そうな顔を向けた。
彼にしても、この件はかなり難しい立場に立たされている。
アウロスは安心させる為の笑みを作りながら――――十日前の『あの日』の事を思い出していた。
「本日付けで、君を解雇する」
そんな、ミストの単純明快な解雇通告を聞いた瞬間、アウロスの脳内は突発的に活性化した。
ある意味、どんな戦闘時よりも鋭く研ぎ澄まされた神経で、追う。
『正しい道』を。
今、この場で必要なのは――――怒りでも、失望でも、怨み節でもない。
目的の達成できる道を、例え糸の細さでも良いから、繋ぎ止める事。
その為には、頭に血を上らせてはならない。
白くなってもいけない。
感情を切り捨て、建設的な言葉を紡がなくてはならない。
やる事はこれまでと変わらない――――そう結論付けたアウロスは、まず表情の変化を抑制する努力を始める。
筋肉の収縮を制御し、反射的に起きてしまう幾つかの現象を、強引に理性で塗り固める。
動悸を鷲掴みするのではなく、生温い水を全身に優しく流し込むようなイメージで、身体の微細な変化を抑える。
呼吸も平常通り。
後は、護らなければならないものを死守する為の言葉を発するのみ。
それは、果たして何か――――
アウロスは血の通った唇を動かし、口を開ける。
「……お世話になりました」
それが、アウロスの出した結論を凝縮した言葉だった。
ミストは動かない。
表情も変えず、口の前で組んだ両手もそのままに、アウロスの目をじっと眺めている。
観察するのではなく、ただ見ているだけ。
それは、動揺と呼んでも差し支えない状態だった。
その後、無言で一礼し、アウロスは教授室を出た。
――――アウロスに選択肢はなかった。
ミストが、このタイミングでアウロスを切る理由は一つ。
論文を自分の物にする為だ。
そして、それを敢行する為の材料が揃った事も意味する。
アウロスが、あの場で自分の名前を残すよう要求した所で、それが通る事はない。
それどころか、アウロスに協力した人間の名前が『連名』及び『参考文献の欄』から消える事になりかねない。
もし、アウロスが不満を爆発させれば、それはミストにとって格好の『免罪符』となる。
一人の特別研究員の首を切る事は簡単だが、それには相応の理由もいる。
不満の爆発は、その理由自体になる事はないが、理由の説得力にはなり得る。
『やはり、図星だったのか』
例え、どんな解雇理由が用意されていたとしても、周囲からはそう取られてしまうだろう。
そして、そうなってしまうと、ミストの排除はより徹底的となる。
連名者すら、切りかねない。
それを防ぐには、沈黙するしかなかった。
つまり――――アウロスは、自身の研究の協力者に飛び火しない道を選んだ、と言う事だ。
だが、それは『目的への道』――――すなわち『アウロス=エルガーデンの名を残す』
と言う目的への道から逸れた事を意味する訳ではない。
かなり細く、険しくなってしまったが、両方に通じる道を選んでいた。
その道を選ぶ為に、必要な条件も満たした。
それは――――ミストに感情を読ませない事。
底を見せない事。
不敵に思わせる事。
それにより、ミストのアウロスに対する関心は残った。
まだ何かある――――そう思わせる事こそが重要だった。
(挑発、若しくは自信……と受け取ってくれたのなら、助かるんだけどな)
沈黙のミストに、アウロスはそんな希望的観測を抱いていた。
重要なのは、ミストが自分を脅威であると認識してくれる事。
何処かで徹底的に潰さなくてはならない、と言う危機感を抱いてくれる事。
その思いが――――アウロスを、戦いの場に運んでくれる。
アウロスは、リジルに嘘を吐いてはいなかった。
席は、ミストが用意してくれる――――そう読んでいた。
「では、質問がありましたら、挙手をお願いします」
ミストの前の発表者が研究の披露を終え、司会役の人間が質問を促す。
こう言った場では、儀礼的に誰かが最低一つは質問を投げ掛けるもの。
仮に、その研究が場にいる全員にとって関心の範疇ではなかったとしても、誰かが気を利かせて挙手し、ありきたりな質問をする。
アウロスはその作法が嫌いだった。
「では、一つ」
質問を受け付けてから五秒程の空白の後、後ろの方に座っていた魔術士が手を上げた。
「専門ではないので、基本的な質問になりますが……」
発表者の顔は、緊張感に包まれながらも、何処か寂しげだった。
救済処置とも言えるこの温情を『礼儀』と言うのであれば、礼儀とはつまり、人の心を無視してまで体裁を整える行為に他ならない。
そしてそれは、それを平気で行う人間にも同じ事が言える。
「ありがとうございました」
一定の答えが出た所で、質問者は強引に話を切った。
もう良いだろう、とっとと失せろ――――
そんなメッセージを込めて。
「では、五分後に次の発表に移らせて頂きます」
資料の配布や、観覧する人間の出入りの為に、発表の前には五分間の余白が与えられている。
その間、ミストは一度として後ろを見なかった。
ここまで来れば、それが過剰な意識の元に行われている『無視』と言うのがわかる。
アウロスは、自分の席が用意されている事を確信した。
「それでは……」
いよいよ、ミストの発表が始まる。
この発表会の目玉の一つとして、当初から大きな注目を集めていた『主役』とも言える論文を聞こうとする魔術士は多く、既に講義室の椅子は八割方埋まっていた。
中には、明らかに学会や教会の権力者と思しき、
豪華なローブに身を包んだ年配者も見受けられる。
かなり珍しい現象だった。
彼らは決して、論文の内容だけに惹き付けられた人達ではない。
それだけの知名度が、今のミストにはある――――そう言う意味がある。
そんな中――――
「……え?」
後ろの方で、誰かが間の抜けた疑問符を落とした。
そして、それと同時に、会場を極めて異質な空気が伝う。
それを背中に感じ、アウロスは扉の前に視線を送った。
そこには、一人の女性が立っている。
決して若くはないが、上品な顔立ちは崩れていない。
何より、身にまとう雰囲気が、通常の中年女性とは全く異なっている。
だが、誰もがその雰囲気に対して驚いている訳ではない。
アウロスもまた、驚きを隠せずにいた。
「そ……総大司教……様?」
誰もが予想だにしない観客の来賓に、司会の男が思わず口にした通り――――その女性は紛れもなく、総大司教ミルナ=シュバインタイガーその人だった。