第6章:少年は斯く綴れり(12)
研究とは、深淵の闇の中を延々と移動するようなもの。
誰の格言でもないのだが、アウロスは自論として、そう言った認識を持ちながら、魔術の研究を行って来た。
不可視の空間を歩く上で、まず先に立つのは恐怖心。
未知のものに対し、人間は何より生命の危機に懸念を抱く。
死は、回避しなければならない。
それが、生命そのもののアイデンティティであり、生物の本質だ。
これに関しては、誰も逃れる事はできない。
ただ、その性質は、表面化させずに内側へ押し留める事ができる。
どうしても倒せない、攻略不可能の存在を目の前にした場合、人間は時にそれを『封印』する事で、目の前の危機を先へと追いやった。
例えば、治療が出来ない不治の病であっても、可能な限り病魔の進行を遅らせると言う方法を用い、代替的な解決法とした。
同じように、見えないもの――――すなわち不確定の物に対し、それを恐怖の対象と認識しつつも、それを無視する事は出来る。
アウロスは、まさにそうやって生きて来た。
暗闇は、敵ではない。
暗闇は、悪ではない。
暗闇は、死ではない。
そう思えば、例え視界の利かない中でも、全力で走る事が出来る。
そうやって、手探りで進んでいる他の研究者達を追い抜いて来た。
大切な物を幾度となく置き去りにして。
だから、アウロスにとって、闇は味方。
それは今尚、変わらない。
深夜――――他の二人がそれぞれ外見通りの寝相を披露する中、アウロスは窓際で一人、夜空を見ていた。
闇に近いその視界は、自己の感情を少し誇張と言えるくらいに投影している。
流石は味方――――そう思うのも無理はない程に。
点在する光は、希望ではなく隙間。
それを埋めた所で、待っているのは何も見えない、聞こえない世界。
実は、既に終末を迎えた瓦礫の山だったと言う事も、十分にあり得る状況だ。
アウロスは、自身の願望を定格化していた。
それは、何度も口にしている通り『偉大な魔術士アウロス=エルガーデンの名前を残す事』に他ならない。
それが、初めての友達であり、初めての対等たる他人に対して、自分が唯一してあげられる事だと信じているからだ。
そして同時に、それが自身の願望である事も自覚している。
人の為に何かをしてあげられる自分で在りたい。
名前を残すと言う行為によって、自分に名前がない事に対する劣等感を、擬似的であれ削減したい。
そんな自己満足も多分に含んでいる。
それが悪い事だとは思わないまでも、どこか純粋でない行為に対するわだかまりはあった。
純粋な思いは、それ故に脆い。
しかし、誰もが憧れ、共感し、力を貸そうとする。
人は一人だが、例え指先でも繋がる事が出来る。
それを拒否して生きて来た人間が、果たして事を成し遂げられるのか――――そんな不安は常にあった。
それを打ち消す為に、自分の出来る限りの事をして来た。
信じられないなら、信じなければ良い。
繋がりがないのなら、そのメリットを有効利用すれば良い。
それが、アウロスのこれまでの道のりを支える意思の杖だった。
アウロスは、人を信用出来ない。
生誕の瞬間から見放され、教育も生活も、全てが他者の欲を満たす為の計算された思考の中で宛がわれて来た。
褒美や罰に関してもそうだ。
与えられるもの全てが闇ならば、染まるのは必然だった。
その中で、少年は二つの光を得た。
光は、闇の裏返し。
相反するもの。
だが、敵ではない。
光が闇をかき消すのではなく、闇の中に光が浮かぶだけの事。
だから、道標として心に在り続ける一つの光は勿論、もう一つ――――眼前にある光もまた、アウロスにとっては敵にはなり得ない。
誰もがそう思うように、輝かしく、美しく、温かいもの。
余りに淡く、時に見え辛い事もあるが、かけがえのない存在。
自覚なきまま七年の時を得て、ようやく見つける事の出来たその光が、今、アウロスの見上げる夜空の下にひっそりと咲いている。
「……良く夜に会うな、俺ら」
「そうね」
既に閉店している一階に降りたアウロスは、店の外で佇む半日遅れで合流した同行者――――ルインの隣に足を収めた。
特に表情を作る事なく、自然体でその様子を眺めている姿に、一縷の隙もない。
疲労感も若干、漂っている。
ルインにとって、闇は『敵の隠れ蓑』でもあるらしい。
アウロスは思わず苦笑した。
「普通に、一緒に来れば良かっただろうに」
「騒がしいのは苦手」
その答えに少し苦味を落とし、息も一つ落とす。
「はあ……」
「緊張しているの?」
特にそう言う自意識はなかったが――――言われてはじめて、アウロスはそれが的を射ている事を理解した。
「まあ、多少は」
「貴方にはそう言う神経は通っていないと思っていたけれど」
「あがり症とか、そう言うのはないんだけどな」
閑静な周りの空気が、肌に違和感なくまとわり付く。
それにすら重量を感じていた。
すなわち――――重圧。
「明後日失敗したら、かなり難しくなってくる。少なくとも、オートルーリングで『アウロス』の名前は残らない。かと言って、別の方法は正直見当すら付かない。緊張もするさ」
それは、皮肉や軽口、或いは妥協と言った要素のない、アウロスが滅多に他人は見せない『弱音』だった。
光を前に、人は無防備になる。
アウロスもまた、そのままに。
「何故、そこまで名前を残す事に拘るの?」
それに対し、ルインは落ち着いた様子で淡々と問う。
「貴方がアウロスと言う人にそこまで拘るのは、私にも理解は出来る。でも、やり方は他にもあると言っていたのは貴方自身じゃない」
「……」
沈黙の中に答えはない。
アウロス自身、思考を咀嚼している最中だった。
「今回の発表会は、ミストの教授就任後初の研究発表と言う事もあって、魔術士業界ではかなりの注目を集めている。それを嗅ぎ取った一部の人間も含めて、結構な面々が揃う事になるでしょう」
「だな」
「そんな場所で、万が一失態を演じようものなら、貴方は魔術士としてだけではなく、一般人としてこの国で生きる事すら困難になる」
ルインの示唆した危機感は、アウロスも持っている。
論文発表会と言う敷居の高い場で粗相をしでかそうものなら、魔術学会のみならず、魔術国家全体から追放される可能性もない訳ではない。
リスクと言う点では、この上なく高いだろう。
「初志貫徹に拘っているの? それならば……」
「そう言う訳じゃない」
アウロスは考えた結果、結局一番伝わり易い方法を選んだ。
要は――――本音を話すと言う事だ。
「俺には名前がない。自分を表現する呼称がない。名前は唯の記号じゃなくて、その人間の存在を肯定する、唯一つの証だ」
「証……」
「俺にはそれがないから、自分自身がいないんじゃないか、誰にも見えていないんじゃないか、って錯覚に陥る事が良くある。アウロス=エルガーデンと言う人間が確かにこの世にいて、偉大な魔術士になる事を夢見ていた……って言うその証を、名前を残す事で世界に刻み付ければ……もしかしたら、そんな錯覚を消す事が出来るんじゃないか、と思って」
人に何かをしてやれる自分。
名前を残す事の出来た自分。
それを望むのは――――
「結局、ただの自己満足だな」
対象者は既にこの世にはいない。
本人の口から感想が聞かれる日は来ない。
自分だけ満足して、それで終わる――――例えどのような結末であっても、それが絶対的な規定路線として組み込まれている。
アウロスが合理性、利己主義に拘った最大の理由は、その結末に押し潰されない為だった。
そう言うものだと、言い聞かせる為だった。
「喜ぶんじゃないの?」
しかし――――ルインの一言で、それは移ろう。
「私は、そう思うけれど」
「……」
不意に、風が吹いた。
それはとても柔らかく、まるで全身を包み込んでくれるような、そんな風だった。
アウロスは、心からそれを歓迎した。
「ありがとう。そう思ってくれるお前が、俺の傍に居てくれて良かった」
余す事なくその感情を伝える。
ルインは、突然持ちきれない程の荷物を手渡されたような慌て方で、そっぽを向いた。
「早くアウロスと言う名前を返還出来るよう頑張りなさい。貴方自身の名前を、私が呼べるように」
「……呼びたいのか?」
「呼ばれたいでしょう?」
沈黙――――それは、誰にでも平等な時間の流れで言えば、かなりの間続いた。
だが、アウロスの中を流れる時間は、然程消耗していなかった。
果たして、どちらが先に返答をするか。
ある種の我慢比べ。
この世で最も心地良い我慢比べだ。
「……呼ばれたいんでしょう? どうなの?」
根負けしたルインが、顔を少し寄せて詰め寄る。
アウロスは流石に焦りを覚え、困り顔でたじろいだ。
珍しい事だった。
「まあ……呼ばれ方にもよるよな」
適当に濁すアウロスに対し、ルインは上目遣いで睨み付ける。
「どう呼ばれたいの?」
「そこ、追求するか? 俺の意図とか心情わかってて」
「良いから、とっとと言いなさいよ。どう言う呼ばれ方がお好みなの? やっぱり詰るように呼び捨てで呼ばれたいの?」
ルインの瞬きが徐々に多くなる。
アウロスはその意味を知らなかったが、他人を追い詰める時の癖だろうと推測するのは決して難しくは無かった。
「……そう言う趣味は一切ないんだが」
「そうなの? だって……ま、良いけど。で、私の第一希望、じゃなかった第一予想を覆した意外な回答とは一体、何?」
「凄く嫌な本音を聞いた気がしたけど……それ、答えなきゃいけない事か?」
「当然。今後に関わってくる重大事項なんだから、正直に」
それがどう言う意味なのかは余りわからなかったものの、アウロスは思案を固め、それを本当に口にするかどうか苦悩し――――俯いた。
そして。
「……………………あ、愛称で」
聞こえないであろう、極小さな声で呟く。
「へえ。そういう願望があったのね」
「き、聞こえたのか……どう言う耳してんだ」
「成程、愛称ね。愛称……どんなのをつけてやろうかしら。フフ……」
久々に見せる魔女の貌に、アウロスは顔を引きつらせ、後悔の念を咀嚼する。
いつの間にか、重圧は何処かへ消えていた。