第6章:少年は斯く綴れり(7)
ルインは、自分の間断なく漏れる息が徐々に重くなっているのを実感していた。
夜の闇に溺れているかのような、余裕のまるでない表情で、ひたすらに走り回る。
彼女にとって――――かつて闇は味方だった。
自身を覆い隠すのみならず、世の中の大半を見なくて済む。
領主の娘として何不自由なく暮らし、自身の浅慮で大切な人を死なせてしまい、多数の人間の人生を狂わせた過去も、闇に溶けた心には入り込んで来ない。
心もまた感覚の一部だ。
閉ざしてしまえば、その機能を限りなく停止させる事が出来る。
とは言え、楽な生き方ではない。
同時に失うものも多いからだ。
同世代の女の子が少なからず手にする幸せは、ルインの掌には落ちて来ない。
【死神を狩る者】
フローラ=レンテリウスを殺害し、自分を見逃した暗殺者を探す過程で、何時の間にか呼ばれていた通り名。
その名が闇の社会に浸透した事で、ルインの人格は歪んで行った。
人間の性格・性質の形成は、環境に拠る所が大きい。
周りがどう認識しているか、どう接するかと言う事は、そのまま本人の内部に影響する。
【死神を狩る者】は、常に攻撃的で、殺伐としていて、人を食ったような目をしていて――――そんな周辺のイメージに合わせる様に、彼女の表層は歪なまま塗り固められて行った。
「……はっ……はっ……」
自身が世に放たれ、その能力を行使し始めた頃を思い出し、顔をしかめる。
過去と現在。
その間には、隔たりは決してない。
今もルインは【死神を狩る者】である事に変わりはないし、力が衰えている訳ではない。
が、明確に異なる部分がある。
それは――――目。
敵対する殺し屋の多くは、その目に戦慄を覚えたのかもしれない。
心を壊した人間の病んだ瞳や、狂気を宿した眼とは、明らかに異なる。
全てを閉ざした者の目は、決して暗殺者を怯えさせはしない。
寧ろ、同属嫌悪や同情を呼び起こすだろう。
ルインの目は、混濁していた。
希望と絶望のマーブル。
それが、異質なモノを見る目で殺し屋に見られる要因となった。
魔術を覚え、戦い方を覚え、仕留め方を覚え――――その工程の中で、その目は更に混沌としていった。
気を許せる者も、信頼を寄せる者もいない。
ずっと孤独。
その中で、ルインは他者の目を見る機会を失った。
他人の目は、自身を映す鏡。
それを見ないと言う事は、自分を見ないと言う事。
荒んでいく事に、抵抗はなかった。
が――――自分がどうなっているのか、どうなって行くのか、ルインはそれを心に置く事すらも放棄した。
自嘲や自傷等よりも、遥かに歪んだ生き方。
そうやって完成したのが、今のルインだった。
ただ、そんな生き方をして行く中、稀に夢を見る日があった。
決まってそれは――――過去の夢。
現実にあった事か、自身の理想や懇願が入り込んでいるのか、それはルインにもわからない。
そこは、薄暗い空間だった。
自分が住んでいる家の、自分が毎日歩いている廊下。
一人で歩くには余りに広い、空虚な空間。
その向こうに、自分以外の人間がいた。
顔は見えない。
朧げな輪郭で、落ち着きなく辺りを見渡している。
そんな『少年』に対し、ルインは語り掛ける。
自分で声を出す事は、余り多くない。
それなのに、ルインはどうしてもその少年に声を掛けたかった。
『私はここにいる』
そう、伝えたかった。
でもその思いは、いつも伝わる事はなかった。
なかったのに――――夢より先に、現実が届いた。
それは、ルインにとって僥倖と言うより、未だに信じ難い事だった。
そして、その感情をそのままに、今、夜の街を走り回っている。
まるで、自身の家の廊下を落ち着きなく歩いていた子供の頃のように。
まるで、夢の中の廊下で叫ぶように呼びかけていた時のように。
料理店の周辺、大学内部、街……ルインはウェンブリーのあらゆる場所で、ルインはひたすら、アウロスの気配を探した。
気配を完璧に制御する能力は、元々令嬢の頃から、ある程度発達していた。
原因は――――親。
厳格な父は、娘に過剰な英才教育を施した。
それは父親の意思と言うよりは、富裕層特有の慣例と言った方が正解だったのかもしれない。
ただ、それは巨大な免罪符となり、父親をより深く、深く沈めて行く。
少しずつ、その目は鋭くなっていった。
もっと。
もっと。
もっと――――自分の好みへ染め上げる。
教育はいつしか、そんな欲求へと摩り替わっていた。
が、その父も早々に亡くなる。
それでも尚、研究の虫だった母親は娘に関心を見せなかった。
『消えてしまいたい』
『気付いて欲しい』
相反するその二つの願望が、今のルインの原点だった。
その能力は、【死神を狩る者】と呼ばれた彼女の生命を支える原動力に他ならない。
気配を操る専門家たる暗殺者に後れを取らない為には、必須の能力だった。
そして、その必要を失った今――――彼女は未だにその能力を使っている。
息を整え、目に見えぬものを探る。
通常の気配は殺気とは違い、個人差が少ない。
それは、他人に説明する事が極めて困難な程の微小な差で、何十人、何百人といる中から特定の一人を見つけ出す事は、いかな彼女でも不可能だった。
だが、ルインは止めない。
止めないだけの理由はあったし、寧ろ止める理由が全くなかった。
彼女は今、その為に生きているのだから。
「……」
辛うじて我慢していたものが込み上げて来たかのように、ポツリ、ポツリと雨音が聞こえて来る。
ルインは人通りの消えた公道で、俯きながら佇んでいた。
今日が駄目なら明日。
明日が駄目なら明後日。
研究者ならば、停滞や後退は日常茶飯事。
でも、谷底に突き落とされれば無傷では済まされないし、そこから這い上がる為の足場がなければ、上がってくる事は出来ない。
明日がやって来ない。
昇らない日はなくとも、見えなければ同じ事だ。
絶望――――少し前にそれを味わったルインは、今のアウロスの想いを汲まずにはいられなかった。
人は絶望すると、何をどうして良いかわからなくなる。
動かなくなった想いが、思考が、アイデンティティそのものがゲシュタルト崩壊を起こし、その意味を認識出来なくなってしまう。
それが今、アウロスに起こっていた場合、彼がどんな行動に出るか――――ルインには予想が出来ない。
そんな思いが、ルインの焦燥感を生んでいた。
午前1時――――アウロスは、いない。
ルインの捜索は5時間にも及んだ。
既に人の往来はなく、気配を見つけるには容易な時間。
しかし、アウロスを感じ取る事は出来なかった。
諦めると言う選択肢はない。
今日が駄目なら、と言う前向きな思考もない。
ひたすらに、捜す。
それは、焦燥と言うより、恐怖に近い行動理念。
事実、ルインは怖かった。
『また』少年を見失う事が、何よりも恐ろしかった。
これまで、恐怖を感じた経験は、決して少なくない。
幼少期、父親の狂気にも似た教育に感じた畏怖。
母親の無関心に抱いていた鈍痛。
その母の犠牲になった一人の少年を――――自分と同世代の少年を見殺しにした後悔。
自身の命を脅かす、暗殺者の圧力。
息も出来ない豪雨。
運命の理不尽さ。
世界の果て。
その全てを越える恐怖が、今のルインにはある。
成長し、肉体的には細身でも、精神的に強靭になった、あの日の少年。
彼が再び、自分の前から姿を消す事が――――
「ルイン?」
「!」
自分の名前が呼ばれた瞬間、それがどこからの声であるか、そして誰の声かは容易に判断出来る。
しかし、ルインの身体は動かなかった。
「ったく、こんな時間まで……女が出歩く時間じゃないだろ」
「……」
声も出ない。
何より、ここまで接近していたにも拘らず、その気配を察知出来かった事が、ルインの動揺を顕著に示していた。
「でもま……その、何と言うか……」
一方、背後から聞こえる声の主もまた、どこか安定しない。
ただ、そんな事を指摘する余裕は、まるでなく。
「えっと、心配かけたと言うか……うわっ!?」
ルインは振り向くと同時に、目の前の男の胸倉を掴み――――
「この……っ」
力任せに引き寄せ――――
「……バカ……」
その胸元を頭で小突いた。




