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ロスト=ストーリーは斯く綴れり  作者: 馬面
ウェンブリー編
11/381

第1章:大学の魔術士(10)

 朝。

「……」

 アウロスの目覚めは、爽やかとは対極にあった。

 違和感の濃い瞼に小さな不幸せを想いつつ、頭を重力に逆らわせる。

 何気にこの動作で、一日のコンディションが大体把握できたりするものなのだが、

 この日の診断は残念な事に、最悪と言う判断を下す事となった。

「アウロスくん、起きてる?」

 目覚めて十秒足らずという衝撃的なタイミングで、ドア越しに声が掛けられる。

 どうやら運も良くないらしいと嘆きながら、アウロスは欠伸をかみ殺し、ベッドを降りた。

 そして、欠伸の再発に目を細めながら扉を開き、恭しく一礼する。

「おはようございます、クレール女史」

「……そりゃ仲良くしたくないとは言ったけど、そこまで距離置く事……」

「面倒臭い女だな。死ねばいいのに」

「そこまで距離置く事ないんじゃない!?」

「ちなみに朝食は要らないからお構いなく、とピッツ嬢には伝えてくれ。洗面所は昨日確認したからわかる。あと基本的には自分で起きれるけど、もしかしたら起こしてくれと頼む事があるかもしれない。その時は宜しく」

「……」

 アウロスはクレールの目的を全て先回りして答えた。

「じゃ、そゆ事で」

 呆然と立ち竦むクレールを尻目に、アウロスルームの扉は普通の速度で閉められた。

 背後に薄汚い喧騒を感じつつ、少しずつ脳が活性化を図る。

 次第に正常な熱を帯び始めた頭の中には、今日の予定が空白混じりに映し出された。



「……講習?」

 その予定に沿って、朝一番にミストの部屋を訪ねたアウロスは、訝しげな顔でミストの言葉を反復した。

「そう。これから3日間、一日1時間ほど魔術の基礎講習を受けて貰う」

「どう言う事です」

「目的は2つ」

 非難じみたアウロスの視線に向けて、ミストの細い指が2本立てられる。

「1つは、この大学の常識と君の常識との照合。もう1つは、周囲への配慮」

「……成程」

 アウロスは具体的な説明を待つまでもなく納得し、表情をノーマルに戻した。

 大学を卒業し研究員になったアウロスにとって、魔術の基礎講習など今更受けても得る物はない。

 知識や学力を測る物差しにもならないだろう。

 しかし、魔術の基礎講習は必ずしも魔術の基礎を教えるだけのものではない。

 その教え方、或いは講習中に交す会話から、その学院の特色が見えてくる。

 その色は学院によって、地域によって、そして文化圏によってそれぞれ異なり、その誤差が

 時として大きな問題になる事もある。

 その調整を行う場として、講習という短期間で多くの情報を体感できる機会は、非常に都合がいい。

 更に――――

「そういや、そんな設定でしたね」

 現在のアウロスは、お情け職員と言う情けない立場を演じなければならない。

 それは、情けなければ情けないほど、周りへの認識を強くさせる。

 大学の研究員が基礎講習を受けさせられる――――それはまさに情けないの一言に尽きる、という訳だ。

「講師は別の学科の方にお願いしてある。身内だけで済ませると余り意味がないし、色々煩いからな。時間はその人物の都合に合わせた。今から3分後だ」

「唐突にも程があると思うんですけど」

「問題ない。特に必要な物もないしな。場所は一階の第四講義室だ。では宜しく」

 言い終わる前から何かの書類に目を通し始めるミストに呆れつつ、アウロスは回れ右をした。

「それと。講習が終わったらまたここに来てくれたまえ。紹介しなきゃならない者がいる」

「了解しました」

 背中でそう答え、迅速に移動する。

 第四講義室は一階の東棟中央付近にあり、その入り口に立つと、講師の情熱的な声と無機質な声が左右から聞こえて来た。

 隣接する第二・第六講義室は講義中のようだ。

(色んな講師がいるって事だな。さて、ここはどうなんだか……)

 多少の好奇心に身を委ねつつ、扉をノックして返答を待つ。

「はい、どうぞ」

 清楚な感じの声が招き入れてくれた。

 その声から姿形を想像し、中に入る。

 大講義室の半分以下の面積のその部屋は陽の光が余り入っておらず、魔術士の棲家としてはかなり『ぽい』雰囲気が滲み出ていた。

 黒板はかなり使い込まれていて、所々が傷んでおり、椅子も床も壁も同じように歴史を築いている。

 ただ、長机と教卓はそれなりに綺麗だった。

(ん……?)

 その教卓に陣取る眼鏡の女性――――講師と思しき人物に、アウロスは見覚えがあった。

「セーラ=フォルンティ講師……でしたか」

「ええ。ミスト助教授から聞いていると思うけど、私が短期基礎講習の講師を勤めさせて頂きます。宜しくね」

 後衛術科のエースが直々に――――という話は聞いていなかったが、アウロスはそれを口には出さず会釈した。

「それじゃ、早速始めましょう。まずは――――」

 せっかちな性格なのか、時間的な余裕がないのか、挨拶もそこそこに講習が開始される。

 内容は本当に基礎的なもので、魔力の説明から始まり、アカデミーで習うレベルの話が延々と垂れ流された。

 アウロスにとっては釈迦に説法も甚だしく、時間帯も相まって睡魔が営業スマイルで近寄って来た。

「――――……もしかして退屈?」

「勉強は得意じゃないので」

 アウロスは研究員にあるまじき暴言を吐いた。

「……そう。それじゃ質疑応答に形式を変えましょう。私がする質問に答えられる範囲で答えて」

 やる気がないコネ職員――――大学の講師という地位にいる人間なら、普通はすぐに見捨てるだろう。

 しかし、セーラ講師は彼女に利があるとは思えないこの講習を参加型に変え、積極的な継続を試みた。

 人に物を教える際に重要なのは、相手を見下さない姿勢と粘り強く向き合う覚悟。

 その両方をセーラ講師は持っている。

「さすがエース」

「何?」

「いえ。質問をどうぞ」

 アウロスの催促に女講師は一瞬困惑を浮かべたが、講師の顔は揺るがない。

「それじゃ……基本的な事だけど、魔力について知っている事を述べてみて」

「……魔力とは、人間の体内に流れる潜在的エネルギーの一種で、人体及び特殊な物質の内部に潜在している。それを魔石によって集注する事で魔術の編綴を可能となる。魔力には様々な性質があり、それによる固有差、個人差が存在する。魔力の粒子は常に自転し、モーメントを発生させている。尚、魔力は身体から離れると自転しなくなり、モーメントは自然消滅する。その自転の向きはランダムに時計回り、反時計回りと異なっている。魔力は光と同じく粒子性を持っていて、その粒子は常に自転し、モーメントを発生させている」

 アウロスは淡々とマニュアル通りの説明を口にした。

 それに対し、セーラ講師は特に不満を抱くでもなく、寧ろ軽く感心するような顔を見せた。

「よろしい。次は魔術について」

 これは、質問内容と言うより答え方で人間性を探ろうとしている――――アウロスはそう判断した。

 が、特に反論も変化もなくやはり淡々と答える。

「魔術とは、魔力を属性の付加する物理的エネルギーに変換させる為の術。この技術を魔術士養成所で学び、卒業した者を一般的に魔術士と呼ぶ。魔術は主に、一定量の魔力を魔石に集注する【インプット】、魔石に集注された魔力をどのような術に変換するか決定する【ルーリング】、魔術を体外へ放出する【アウトプット】の三つの工程からなっている。尚、インプットは魔石の魔力を引き付ける力【誘力】を利用し、その誘力で体内から魔力を必要分取り出す事によって行われる。ルーリングとは魔術の種類、規模、形状、硬度、密度、範囲、速度、その他の効果を特別の言語――――つまりルーンで指定する事で、その方法は、魔具の中の魔石によって集注した魔力をセパレート繊維によって分離させて上澄光を発生させ、その光で空中や地面にルーンを書いて術構成を指示する、というものである。ルーリングによって魔石内の魔力粒子は自転の方向を変え、この自転で生まれるモーメントによって属性を除いた魔術の構成が決定する。属性は自転の方向に関係なく独立しており、魔具や補助アイテムによって付加される。この場合、それに対応するルーンの配置が必要となる。アウトプットによって体外へ放出された魔力は自転を止め、一定時間を過ぎるとモーメントの消失によって魔術も消える」

 1分30秒に渡る説明を一度も噛まず、抑揚も一切付けずに言ってのけた。

「……基本的な事とは言え、急に言われてそれだけしっかり説明できるのは大したものね。立派よ」

 これは心からの褒め言葉のようだったが、アウロスは特に何の感慨も抱かなかった。

「それじゃ、今度は魔術の基礎について――――」

 セーラ講師の質問は前置きの通り、魔術の基礎――――魔術編綴の技術に関するものだった。

 魔術は魔石と魔力さえあれば誰でも使える訳ではない。

 魔力の抽出、ルーリングの際に使用する魔力の調整、出力の制御などには極めて専門的な技術が必要とされる。

「それらは個人の感覚的な部分に依存するもので、これという決まった方法論はない。貴方はどういうイメージで行ってるの?」

「適当です」

 好奇の目に満ちたセーラ講師の問いに、アウロスは表情を変える事なく嘘を吐いた。

「……そう」

 表情こそ変化しなかったが、失望の色は僅かな間に表れていた。

 それを察したアウロスは、心中で安堵の溜息を落とす。

 取り敢えず義務は果たした格好だ。

「では、こっちからも質問して宜しいですか?」

「いいけれど……何?」

「マナー違反を承知で聞きますが、年は幾つでしょうか」

「……30、です」

 表情こそ変化しなかったが、失望の色は僅かな間に表れていた。

「実年齢より若く見えますね」

「私を煽てても講習はなくなりませんよ」

「お世辞は言いません。面倒なんで」

 これは本音だった。

「……次の質問に行きます」

 僅かな間に、色んな色が表れていた。


 ――――1時間経過。


「それじゃ後2日、頑張りましょう」

「御指導ありがとうございました……」

 微妙に疲労感を漂わせて講義室を出て行ったセーラ講師の後に続き、アウロスは言いつけ通りミストの部屋へ向かう。

「どいてどいてーっ!」

「ん?」

 大学で廊下を走る人間は少ない。

 しかしアウロスの背後から聞こえてくるのは、まるで遅刻して急いでいる子供のように慌しい足音だった。

「遅刻遅刻ー! うおーっと!」

 左に寄ったアウロスの右腕を掠めるように疾走して行ったのは、遅刻して急いでいると思しき女性だった。

 一瞬だけ見えたその顔は、大学と言う空間に似つかわしくない幼さの残る面差しで、声もそれに準じていた。

 ローブは身にまとっておらず、これまた場にそぐわない派手な色の軽装が、彼女の小さくも端正なボディラインを際立たせていた。

「うぎゃっ!?」

 その身体が何もない所でコケて弾け跳んだ。

「いつつつ……」

「大丈夫ですか?」

 さすがに無視もできず、起こしてやろうと手を伸ばす。

 が――――

「さっ、触んないで!」

 悲鳴と共にアウロスの腕を思い切り払い、自力で立ち上がると、逃げるように走り出す。

(何なんだ、一体……)

 何かに挑むように階段を駆け上がって行った異端の者に困惑を覚えつつ、ゆっくりとした足取りで目的地へ到達。

「失礼します」

 扉をノックして入ると、そこには部屋の主であるミスト以外にもう1人いた。

「ぜーっ……ぜーっ……」

 酷く息を切らしていた。

「講習はどうだった?」

「軽く探りを入れられましたけど、概ね平和でした」

 アウロスはミストにそう答えつつ、明らかに酸素欠乏症の女を半眼で眺めていた。

「彼女は魔術士としても講師としても人間としても優秀だが、今一つ押しが弱いからな」

「それが後衛術科のエースで、同時に30と言う年齢にも拘らず講師の地位に甘んじている理由ですかね」

「30歳で講師なら十分出世コース圏内だよ」

 軽く自慢が入った。

「ま、そのお陰で君は楽できた訳だ。もし講師役が後衛術科の老人達だったら、今頃心労で倒れている所だろう」

「倒れている人ならそこに一人いますけど……」

 派手な色の服を着た女は接客用の長椅子の上でダウンしていた。

「ああ、紹介が遅れたな。まあ予定時刻にも遅れて来たから構わんだろう。彼女がお前の望んでいた人物だ」

「望んで……?」

 アウロスは困惑した。

 自分の望みと、眼前で半死人のように横たわっている女性との間に、接点が見出せない。

 いや――――実際には既に頭の左側で確信の信号を点滅させているのだが、それを認めたくないと言うのが実情だった。

「さ、君。自己紹介を」

「はーい……ふぅ」

 ようやく息を整えた半死人は、後ろで結えた髪を気にしつつ立ち上がり、アウロスに一礼する。

「初めまして。私、ラディアンス=ルマーニュって言いまーす。十年来の親友みたく気軽にラディって呼んでね。と言っても私を軽い女だと思ったら大間違い。もしそんな淫猥で不潔な期待に下半身を焦がしてるのならお引取りプリーズ。私は常に高潔。そして高尚。気高い精神の上に健康的でコケティッシュな色気も携えた美の女神のような存在だから。遠くて手が出せないならせめてお姿だけでも的な、そんな感じだから。絶妙で微妙なこのニュアンスをわかってくれる? ま、わかってくれなくてもいいけどね。私は常に孤高であるべきだし。なんかそんな感じの事を親に言われたし。あれ、親にだったっけ? ま、いいか。とにかくお願いしまーす」

「……これだけ喋って、有益な情報が名前しかないってのも凄いな」

 アウロスは取り敢えず差し出された手を握る。

 その手は汗でヌルヌルだったが、一向に気にしていない様子でヘラヘラ笑っているラディアンス――――通称ラディを見て、

 近年にない程の深い深い溜息を落とした。

「一応補足すると、彼女は情報屋だ。君の出した条件の一つ、情報網の件を満たしてくれるだろう」

「……だろう?」

「生憎と私は彼女と面識がない。私の知っている情報屋の推薦でね」

「私のおししょー様なのですよ」

 誇らしげにラディが胸を張る。

 中々のサイズだが、今のアウロスにはそんな事はどうだって良い。

「俺の希望とは、かなりかけ離れている気がするんですが」

「制限付き、と言う条件下ではあながちそうでもない。何しろ彼女は大手諜報ギルド【ウエスト】の一員だ」

「……マジで?」

 諜報ギルドとは盗賊ギルドの改名後の名称で、主に情報に関する管理を行うギルドだ。

【ウエスト】はその中でも世界的に有名な諜報ギルドで、情報の提供や流通だけでなく操作や制御まで行っている。

 扱う情報の種類や量も生半可な数ではない。

「あー疑ってる! この私を疑うとゆーの? 上等だこのヤロウ、表に出ろ!」

 そんな所に属するエリートとも言うべき情報屋は、何故かケンカを売って来た。

「時間にルーズで体力がなく、中身のスカスカな会話ばかりを好む短気な情報屋って、最悪なんですけど」

「気にするな。【ウエスト】の情報収集力は君も多少は知っているだろう。あそこに無能な情報屋はいない。人格はともかくな」

 本当に表に出て行ったラディを無視して不満を口にしたアウロスだったが、ミストはのらりくらりとかわして微笑を浮かべるのみ。

 小さなストレスが埃のように舞って、アウロスの身体に付着した。

「何で来ないのよー!」

 扉越しに非難が飛ぶ。非常に迷惑な行為だ。

「素材は悪くない筈だ。どう使いこなすかはお前次第――――上手く行く事を願っているよ」

「面倒を押し付けられた実感しかないんですが……ま、いいです。譲歩しますよ」

 上司の有り難いお言葉を胸に、アウロスは部屋を出る。

「ヘイ、こっちこっち」

 廊下で待っている筈のラディは出入り口の正面にはおらず、ミスト部屋の隣にある階段の傍で手招きしていた。

「何なんだ一体」

「やー、実は私、あの人苦手なの。機を見て離脱しようと思ってたのよ。何とか自然に出られたから善かった善かった」

 その発言でようやくアウロスはラディの意図を理解できたが、後半の件は賛同はしかねた。

「初対面だろ? 何故苦手なんだ」

「顔が怖い」

 その発言はアウロスの全面的な賛同を得た。

「さて、それじゃ早速お仕事の話をしましょ。個人契約って話だから」

「個人?」

 情報屋は特定の店を構ず、ギルドや派遣会社といった専門の組織と契約を交わして、情報を必要とする顧客を斡旋して貰ったり、

 特定の顧客と個人契約を交わし、専属の情報屋として雇って貰い、顧客のニーズに応えたり、という形態を取る。

 ラディアンス=ルマーニュは諜報ギルド【ウエスト】の一員なので、前者に相当する――――にも拘らず、

 個人契約という言葉が出て来た事に、アウロスは怪訝な顔を隠せない。

「大きな声じゃ言えないけど、私ってまだぺーぺーなの。ギルドの斡旋待ってても割のイイ仕事貰えなくて燻ってた所におししょー様から美味しい紹介があって……」

「かぶり付いたって訳か。でもいいのか? ギルドを介さず契約を取っても」

「バレたらビークーよ。だから黙っててね。チクったらシメる」

 ビークーとはクビの事を指すらしい。何故そんな言い方なのかアウロスにはわかりかねたが、状況は把握できた。

「益のない告げ口なんて無駄な事はしない。ただ、一つ聞いて欲しい事がある」

「何? 何でも言ってみー。この若くして社会の波に乗りに乗ってるラディアンス=ルマーニュ16歳に掛かればどんな問題もイチコロよん」

「誰か腕のいい情報屋を紹介してくれ」

「ちょっ! そりゃないんじゃないの!?」

「できれば寡黙で迅速な仕事人タイプの人材がいい。性別や年齢は問わない」 

 アウロスはラディの非難を無視し、具体的な条件の提示を始めた。

「チェ、チェンジって事? 私を? 頭脳明晰容姿端麗、近い未来リキュールが似合う貴婦人になるこの私を?」

「そうだ。そうだ。無能辟易幼児顔面、近い未来奇襲被害に合い犬死に、の間違いだろ」

「いちいち一文ごとに答えなくても結構よ! ってか後半酷過ぎない!?」

 憤りを一通り発散させ、ガックリと項垂れる。再び顔を上げたラディは、愁傷な面持ちで哀訴を試みて来た。

「ねえ、私じゃダメなの? そりゃ新米だから、猜疑の目で見られるのは仕方ないけど……」

「新米なのは俺も同じだ。仕事さえしっかりしてくれれば問題はない」

 なら何で、というラディの非難めいた叫びが音になる前に、アウロスは手で制する。

「だが、お前さんが情報を漏洩しないという保証はない。ギルドを介さないのなら、な」

「……それって、私がスパイって事?」

「お前さんのおししょー様とやらが絡んでる可能性もある」

 アウロスの不敵な疑惑にラディの反応は――――意外な事に笑顔だった。

「随分疑り深いのねー。大学の研究員って皆こうなの?」

「それは知らない。ただ、俺はあらゆる可能性を考慮したいだけだ。俺とお前さんの間に信頼関係がない以上、何の疑いも持たないのは無理な話だ。悪いな、こういう性格なんだよ」

「ふーん。意外としっかりしてるのね」

「……そういう感想を持たれる方がよっぽど意外だ」

 アウロスの言葉に、ラディは少女のような顔でニーッと笑う。しかし次の瞬間、今度は小悪魔的な笑顔になった。

 感情表現はかなり豊かだ。

「それじゃ、一つ質問するね。アンタにとって信頼って何?」

「利害関係」

 即答だった。

「つまり、私とアンタの利害が一致すればいいって事? 例えば、私が情報漏洩すると私自身にも大損害が降りかかるとか」

「そういう事だ。信頼をより深めるのに必要なのは愛情や絆、或いは時間の積み重ねだろう。だが一定の信頼を恒久的に保たせるのに必要なのは、ロジックしかない」

 その言葉は鉄のように重く、そして冷たい。だがラディは半眼でサラッと受け止めた。

「なーんか寂しい考え方だよね、それ」

「どうだろうな。ま、そんな訳でお前さんとは組めない。他を当たれ」

「おいおい、何もそんなに結論を急がなくてもいいでしょ?」

「時間は有限だからな。お前さんがギルドの派遣員として来たんなら、問題もなかったんだが」

 ギルドに属する人間は、その殆どがギルドに支配されている。

 もし不実を働けばギルドから容赦ない制裁を受けるし、仕事相手とトラブルを起こした場合はギルドに保護される。

 そう言うシステムこそ、信頼のロジックと言える。

「ん〜……なら、こうしましょ」

 その代替手段と言わんばかりに、ラディは懐に忍ばせていた掌大の薄い小箱を取り出し、アウロスに手渡した。

 中身を確認すると、敷き詰められた綿の上に一枚の高級羊皮紙があるのみ。

 しかしそれは、彼女の全てと言っても過言ではない代物だった。

「私のライセンス。つまり【ウエスト】に所属してる証。これをアンタに預けます」

「……は?」

 余りに突飛的な提案に、アウロスの思考が停止する。

 そう言う時の顔は決まって間の抜けた表情になるのだが、この場合もそれに該当した。

「そのライセンスがなくても身分を証明する物……例えばこのリングを見せればギルドの情報網は使えるんだけど、それがないと年に一度あるライセンス更新ができないの。そうすると、その時点で私はギルドをビークー」

 ラディは左手の中指に嵌めた、金・銀・赤・黒の四色で彩られたカラフルなリングを見せながら、話を続ける。

「更新日は半年後。もし、その時までに私が不審な動きをしていると判断したなら、棄てるなり燃やすなりしてくれて結構。でも契約更新する気があるなら、その日だけ返してくれればいい。これでどう?」

 ラディの表情は変わらない。

 重い内容とは裏腹の、まるで夕食を食べながら交わす雑談のようなリラックスした声のトーンに、アウロスは不信感を隠せなかった。

「逆に不信感が増した。何故そこまでこの契約に拘る?」

 それを自覚し、敢えてそのまま口に出す。

 するとラディは若干間を空け、俯くように視線を落とした。

「……ま、私にとってこのチャンスは待ちに待ったものだからねー。おししょー様も今はセミリタイヤ状態だから、多分もう紹介してくんないだろうしー……」

 ややトーンダウンしたラディをじっと眺めつつ、アウロスは無言で熟考を始めた。

 ラディの出した条件を鵜呑みにするならば、情報漏洩のリスクはギルドを介しての契約と同等の大きさになる。

 しかし、自分から言い出した条件が自分にとってマイナスである筈はない。

 どこかに抜け道は存在する。

 極端に述べるならば、再発行できるのかもしれないし、そもそもライセンス自体偽物なのかもしれない。

 尤も、そんなすぐにバレる嘘を吐くような人間が情報屋になれる筈もないが。

(大学の人間と繋がりを持ちたいとでも言えば一応筋は通った筈なのに、具体的な理由を言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか……)

 暫時の逡巡。

 情報網の確保は雇用条件として挙げているので、ここで断っても別の人間を招く事は可能だろう。

 しかし余り多くを期待できない事は薄々感じていた。

 それならば、大手諜報ギルドに属する人間と言う、一研究員には中々宛がわれない人材を手放すのは――――

(惜しい、か)

 決断は下った。

「条件を2つ出す。両方クリアできるなら、お前さんと契約させて貰う」

「な、何? もしや俺の女になれ的な要求? 契約してやるから、あーんな事やこーんな事をそーんな場所でグリグリのウリウリのコレもんで、とか……うわっ、エロっ! この男エっロっっっ!」

「1つは情報料について」

「無視ですか。辛辣ですね……で、何? 格安にしろって事?」

「いや。個人契約だから、払うのは契約料・基本給与・個別の情報料って所だろうが、その全部の明細書を作る事」

 通常はギルドがやる事だが、個人契約となるとその辺はあやふやになる事が多い。

 しかし明文して残しておかないと、後々面倒になるケースが多い。

「それくらいなら全然。ってゆーかそんなのでいいの?」

「もう一つある。こっちが本命だ」

 アウロスは意識して声を沈めた。

「俺と契約している間、俺以外の顧客を作らない事。つまり専属契約だ」

「え……」

 その条件に、ラディは奇妙なポーズで驚きを表現した。

「それって、それって……プロポーズ? ダメっ。そんな会ってすぐの人になんて決められないっ。騙されて剥ぎ取られて逃げられるに決まってるんだからっ」

「人の言葉を勝手に求婚に摩り替えるどころか結婚詐欺師に仕立てるとは……いい度胸だ」

 アウロスの右手人差し指が怪しく光る。

「じょ、冗談よ。専属? そりゃモっチロン。自慢じゃないけど掛け持ちできるほど仕事に恵まれてないし」

「なら決まりだ。契約成立」

「ああっ!」

 成立した瞬間、ラディは奇声を発してヨヨヨと泣き崩れた。

「これで決して人には言えない一日一食の極貧生活から抜け出せる! やだ私ったら、嬉しいのに涙が止まらない。今までクソ生意気でエラソーなイッコ上にしか見えなかったアンタがキラキラ輝いて見えるの。これってもしかして恋とかそんな感じの何か?」

「……一つ条件追加。契約は一分単位で更新できるシステムにしよう。59、60。よしお前クビ」

「えええっ!?」

 こうしてアウロスは、蜘蛛の網のように粘っこそうな情報網を得てしまった。


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