第5章:乖離(31)
混乱が渦巻いた【ウェンブリー魔術学院大学】の閉鎖騒動は、それがさも当然であるかのように、円滑な収束を見る事となった。
体調不良を訴えていた多数の生徒も、全員無事回復。
『検査の結果、特に問題なし』と言う調査員のアナウンスに伴い、当初の予定より遥かに早く、大学閉鎖は解除と言う運びとなった。
当然、その迅速な処置と決定に不安や懸念を抱く者は多かったが――――それを表立って公言するメリットが学生や研究生にある筈もなく。
結局、この騒動はごく一部の人間だけがその真相を知るに留まった。
その中で、ミスト研究室もまた、徐々に日常を取り戻して行く。
ミストはそれまでのハイペースな公務から解放され、助教授時代と然程変わらない日程の中で仕事をこなしていた。
レヴィは既に完成させた論文を積極的に発表し回り、確実に地位を確立させて行く。
クレールは以前と変わらず、ひたむきに自身の研究に邁進していた。
そして、アウロスはと言うと――――
「……んー」
料理店【ボン・キュ・ボン】の客席に座り、書類片手に唸っていた。
「それが例の契約書?」
朝食のサラダを頬張りながら、ラディがにじり寄って来る。
アウロスが適当に頷くと、書類の中の一枚を勝手に手に取り、その中身に目を通し始めた。
「ほうほう、こりゃ随分とシンプルな契約書ね。請求項目も少ないし」
仕事柄、様々な種類の契約書を読破して来た経験を持つラディは、フォークを口に咥えたまま尤もらしく呟く。
「何か怪しくない? 大丈夫なの?」
「さあな。そもそも、俺は基本的に人を信用しないし」
「……それって私の所為、だったり?」
「そのずっと前からだ」
アウロスは温和に笑い掛けながら、極めて自然な動作でサラダの中のハムを掴んで口に入れた。
「あああーっ!? このグレムリンサラダ最大の目玉、グレムリンハムを躊躇なくそんな!?」
クレールが担当するサラダと言う品目に関しては、三分の一の洗礼がない。
抵抗なく味わうだけ味わい、胃に流し込む。
「ちきしょーっ、人の負い目を利用しやがって……もう絶対弱みは見せないと心に誓いまくってやる」
「おはよ。朝から賑やかね」
キリキリ歯軋りをしながら眉間に皺を寄せるラディとは対照的に、寝不足気味な顔で目の周りを擦りながら、クレールが水を持って来た。
「聞いてよクレよん! こいつ、こいつ……」
「クレよんって……さすがにそれは返事したくないんだけど」
「そんなのいいから肉! 肉ちょーだい肉! んでこいつにツケといて!」
「アウロスくん。あの薬なんだけど……」
朝一で肉を要求する女を無視し、クレールはアウロスへと顔を向ける。
「調査して貰った結果、毒素は入ってなかったみたい。今日からお姉ちゃんに飲ませてみるね」
「ああ。もしダメだったら、期待させて悪かったって言う」
「言うだけ……?」
ラディの白い目が【ボン・キュ・ボン】の穏やかな空気を切り裂くが、特に殺傷能力は生じなかった。
と言うか、ごく自然に、連鎖的に無視されていた。
「あはは。良いよそんなの。唯でさえお世話になってるんだし」
「御互い様だろ」
アウロスは肩を竦め、コップの水を一気飲みする。
懸念がない訳ではない。
まして、リジルの事を完全に信じるなど、もっての外。
ただ、この料理店に居候する事になってからずっと、アウロスはこの姉妹の憂いを見てきた。
リスクはあっても、解決の糸口になるのであれば、受け入れる――――そう言う覚悟は持っている。
それならば、自分もそのリスクを責任と言う形で背負い、手を貸すべきと言う判断の元、リジルから受け取った薬を試して貰う事になった。
吉と出るか、凶と出るか――――底冷えのしそうな内心が水の冷たさを凌駕する中、店の入り口に人影が現れる。
「あ、すいませんがまだ……」
「いや、良いんだ。あいつは」
まだ開店前である事を告げようとするクレールを、アウロスが制する。
視界に入るのは、ここにかつて一度だけ来店した事のある男。
先日の戦闘でもそれなりに活躍を見せた、ラインハルトその人だった。
「よう、朝から仕事たあ熱心だな……あれ、そこの嬢ちゃんどうした? 何か亡霊の顔で拗ねてるぞ」
「良いの……私、いない事にされるの慣れてるの……ううっ」
暫く放置されっぱなしだった奇跡の情報屋が、伝う涙を布で拭く。
「ああ、それわかるわ。俺も最近、影が薄いと実感する瞬間が結構……」
「うるさいな朝からグチグチ。と言うか、何でお前まだこの辺りにいるんだ? 脱走兵の癖して」
「下手に動くより、よっぽど安全だからな。トアターナ周辺では未だに御尋ね者って話だ」
総大司教暗殺未遂と言う罪状は、決して軽視されるものではない。
そんな罪を犯しながら平然と生き延びている眼前の男を、アウロスは契約書を仕舞いながら、呆れ半分感心半分の心持ちで眺める。
少し前に本気で戦闘を繰り広げた相手。
割と痛い思いもした。
いまだに瞼の傷は少し疼く事がある。
だが、不思議と怒りは全く湧いてこなかった。
「ところでお前、リジルとはどう言う関係なんだ? 脱走を手伝うって事は、それなりに何かあるって事だよな」
契約に際し、少しでも有益な情報を得ようと言う意図で尋ねる。
余り期待はせずに。
「まあ仕事で何度か顔は合わせてたけど……ってかさ、まず俺の素性を聞けよ。名前と魔崩剣の使い手って以外は大して知らないだろ?」
「いや、別に良い。それより」
「いやいやいや、聞いとけって。絶対驚くからよ。総大司教を狙う暗殺者、魔崩剣を操る一流剣士って所までは知ってるだろうけど、実はまだ隠された……」
「アウロスくん、そろそろ時間」
クレールの言葉に、アウロスはゆっくりと席を立つ。
「もうそんな時間か。じゃ、キビキビ出勤しよう」
総合的な判断の元、ラインハルトの要求を無視し、仕事場へ向かった。
取り残された二人の視線が重なる。
「おお……仲間」
「いやっ! 一緒にしないで! 私はあそこまで惨めじゃないもの! 自分で自分の正体言おうとして、しかもスルーされるなんて、人類最低基準法に抵触してるもの!」
「ンだよその聞いた事もねー法律はよ! チクショウがーっ!」
同類に見放されたラインハルトを嘲笑うように、小鳥がけたたましく囀る。
風のない空には、この日も分厚い雲が広がっていた。
「……成程。らしいと言えば、らしいやり方だ」
余白の多い契約書を眺めつつ、ミストが呟く。
すっかり馴染んだ教授室の机の前で、アウロスは腕を背中の下で組みながら、その声を聞いていた。
「初めから強い縛りをせずに、徐々に有利な条件を引き出して行く。見通しが不明瞭な場合に有効な手法だ」
「そんな事、可能なんですか?」
「こんな紙切れであっても、署名と捺印があれば、それはどんな金属よりも固くなるし、どんな権力者よりも強くなる。でなければ社会は回らんからな。だが、記されていない事に関しては、当人同士の交渉次第でどうとでも追加出来る。内容を覆さなければ」
契約内容を翻す事は出来なくとも、肉付けを行う事は可能だ。
その為には、初めの契約は出来るだけ単純で言及を少なくした方が、何かと都合が良い。
ミストはそう言う意図があると判断したようだ。
「とは言え、奴以上に生物兵器の流通に融通が利く者もおるまい。成立させておいた方が良いだろう」
「昔からの知り合いだったんですね」
アウロスの何気ない(ようで実はそうでもない)一言に、ミストの顔が珍しいくらい険しくなる。
ミストにとって、この件は鬼門のようだ。
「……何も言うつもりはないと言った筈だがな」
「失礼しました」
そんな空気を察し、真剣な面持ちで謝罪の言葉を口にする。
ミストの表情は変化こそしなかったが、空気は徐々に戻って行った。
「では、細部の確認を行う」
契約書の内容を逐一確認し、解釈を統一させる。
面倒臭い作業だが、これを怠る人間は間違いなく何処かで足を取られてしまう。
高い場所に昇る人間ほど、その足元を確認する為の時間を惜しまない。
そう言うものだ。
「さて……残るは、最大の難関についてだが」
「生物兵器の使用に対する苦情の対策、ですか」
再三に渡り、何人もの人間から指摘された問題。
アウロスも、それが最後の難関だと位置付け、常に思考を練っていた。
そして――――
「市場に流通させる以上、無視する事は許されない。大学のイメージを悪化させるからな。当然、考えはあるんだろう?」
「はい」
一つの結論を出していた。
「聞こうか」
ミストの顔に、普段常備している『遊び』が混じる。
基本的に好奇心の強い生物とされる人間の中でも、研究者と言う連中はその強さが際立っている。
そんな暴力にも似た期待と関心に対し、アウロスの回答は――――
「名前を変えます」
「……名前、だと?」
余りにも子供じみたものだった。
「生物兵器、そして【ノクトーン】と言う名称を、それぞれ別の名称に変え、別物として世に出します。それで大丈夫な筈です」
そんなアウロスの意見に対し、ミストの表情は殆ど変化を見せなかった。
その顔から心情は読めないが、少なくとも期待外れと言った空気はない。
アウロスはそれを確認しつつ、続けた。
「生物兵器も、【ノクトーン】も、特許が申請されている訳ではないみたいです。だから、名前を変える事には問題はないでしょう」
「だが、社会通念と言うものがある。後者はともかく、生物兵器に関しては難しいだろう? 魔術士側は納得させる事が出来るかもしれんが、【トゥールト族】が黙っている訳がない」
自分達の技術を無断で金儲けに利用された挙句、呼称まで変えられたとなれば、下手をすれば紛争の火種になりかねない。
ミストの指摘は当然のものだ。
「そうですか?」
「……」
だが、アウロスはミストが『本心から』そう思っているとは欠片も思っていない。
それを踏まえた上で、敢えて補足を行う。
その作業は彼らの関係上、必要なものだ。
「彼らは生物兵器を神格化している傾向があります。それにすがっている。にも拘らず、その生物兵器の中身はと言うと、一向に進歩を見せていない。昔作られたものが未だに価値を持ち、解毒剤等も、製作者以外は持ち合わせていない」
保守的でありながら、進化が滞っている。
それが何を意味するかと言うと――――
「抽象的象徴……すなわち偶像崇拝、か。宗教と同等の状態と言う事だな?」
「そうです。最早、生物兵器を使って魔術士を殲滅しようと言う【トゥールト族】は殆どいない筈です。ここ数年、内乱もなく平和なのは、そう言う背景があるからでしょう」
それでも尚、彼らが生物兵器にすがるのは、それが魔術士への憎悪のシンボルだからだ。
しかしそれは、技術への執着とは繋がらない。
「ならば、別物として流用される事に対しては、然程抵抗はない……そう言いたいのか?」
アウロスは小さく頷き、敢えて視線を目に固定させていた。
眼前にある全てを見透かしている――――そう錯覚しそうな程に深いミストの眼球が、ゆっくりと瞼に覆われる。
「……別個の宗教間において、その信仰する神の外見、性質が重複すると言うケースはある。多神教であれば尚更な。その場合、呼び名が違うと言う理由だけで、それぞれの神の差別化を図っているケースは多い。信仰が過ぎる余り、視野が極端に狭まり、本質を忘れている」
再び瞼が開かれる。
何かが変わった訳ではなかったが、ミストの吐き出す雰囲気は微かに重くなっていた。
「彼らがそうだと言いたいのか?」
「そう言う人も少なくない、と言う事です」
提示者にそんな気はなくとも、解釈一つで人権問題にも発展しかねない、綱渡りの理論。
それを正道に仕立てるのは、発信する者の名前と政治力。
ミストの口元が釣り上がった。
「……良いだろう。名称はお前が適当に決めろ」
「はい」
一つ壁を越えたアウロスは、内心で安堵の溜息を漏らしつつ、サラッと頷いた。
「これで、ついに完成か」
「まだ物が届かない事には何とも」
「そこまで慎重になる必要はないだろう。かつてどのような魔術士でも到達出来なかった場所に辿り着いた気分はどうだ?」
ミストの問いに、アウロスはその顔をじっと見つめ――――そして断言した。
「まだまだです」
それは、まごう事なき本音だった。