第5章:乖離(30)
グレスは立つ力もないのか、その大きな身体を地面に伏したまま、動かずにいる。
黒と赤の混じったローブは、風にたなびく事なく、湿ったままで身体を覆っていた。
「どうして、俺と戦うのを途中で止めた?」
アウロスのその問いに、口の端を微かに動かす。
笑顔のつもりなのか――――
「お前を倒す気など初めからないさ。手合わせしてみたかっただけだ。戦場に生きた者の性とでも……言っておこう」
「……俺には、わからない」
「わからなくて良い。お前は……お前のままで……そのままでいろ」
弱々しくなって行くその瞳を、今度はミストに向ける。
ミストは立っていた。
そして、見下ろしていた。
「……久しいな。ミスト」
「往くのか」
「ああ。もう十分だ」
それは、別れの合図。
命と言う『源』の価値観は同じでも、住む世界が変われば、交わる事はない。
その確認だった。
「お前は何時もそうだ。クソ真面目で融通が利かない。少しは周りの言う事を聞くべきだ」
「同じ事をジーンにも言われたな……はは、あいつの言葉など滅多に聞けないだけに……記憶に良く残っている」
そこまで言葉を紡いだ所で、グレスは自力で立ち上がった。
呼吸は荒れ、汗は滝のように吹き出ている。
出血し過ぎた所為で肌の色は青白く、鋼のような筋肉にはまるで力感がない。
それでも、両の足で身体を支えていた。
幽霊に重さはない。
そう言わんばかりに。
「思い残しは、ないのか」
「ない。いや……一つある。お前らには関係のない事だがな」
その言葉に、アウロスが反応を示した。
思うのは、二度目のあの訪問の際の事。
「グレス隊は、フランブルが面倒見るそうだ。多分大丈夫だろう」
「……そうか」
グレスの目が、スッと力を失う。
そして、次の瞬間――――
「ならば……」
本当にもう、思い残す事はない――――そう囁いたのは、亡霊か、それとも風の悪戯か。
それを合図に、グレスの姿がアウロスの視界から消えた。
「……暗殺者特有の移動術だ。闇の中なら連中は気配どころか姿も消せる。闇に溶けた人間が再び光に照らされる事は、ない」
誰にともなく発せられたミストの言葉をきっかけに、アウロスはやたら重いその腰を上げた。
ミストの方に顔を向けると、その目に映る自分の顔が見える。
それは自分ではないようで、少し気分が悪くなった。
「色々と聞きたい事もあるだろう。だが、俺は何も言うつもりはない。今日起きた事も、それ以前の事もな」
それを思い違いしたのか、ミストはそんな事を吐き捨てるように呟き、そのまま通常の速度の歩行でその場を去った。
或いは、それはミストが見せた初めての『大学の職員ではない』彼自身だったのかもしれない。
友人の姿に感情を揺らした痕跡は、確かに具現化していた。
「……"俺"、ですか。久し振りに聞きましたよ、彼のこの一人称」
アウロスの後ろに立っていた仮面の男が、懐かしげに呟く。
アウロスは振り向く事なく、ミストの足跡を追ったまま息を落とした。
「お前もちゃんと一人称を統一した方が良いんじゃないか、リジル」
「あ、バレてたんですか。結構色々演出仕込んだのになあ」
あっさりと暴露し、仮面を外す。
露わになったその童顔には、実際にはミスト以上の年季が篭っていると言う。
「彼とは古い知り合いなんです。グレスさんとも」
その顔には、取り立てて感情の波は見られない。
何を考えているのか――――洞察が得意なアウロスにも、全く把握する事は出来なかった。
「アウロスさん、御手伝い御苦労様でした。そちらの御希望通り取引に応じます」
「ドラゴンゾンビは何処にやったんだ?」
「消しました。もう用済みなので」
あっさりと――――余りにあっさりとそう述べる。
「生成物ですから、役割を終えれば淘汰されるのが自然の常です。彼はもう必要ありませんから」
彼。
それは大抵の場合、人を指す二人称。
リジルは生物兵器の筈のそれを、そう呼んだ。
意識的にか無意識にか、それはアウロスにはわからない。
言葉通りの感情ではないと判断する材料にはなり得るが、それ以上のものでもなかった。
「後日、契約内容についての書類を送りますので、目を通して下さい。今日は御疲れ様でした」
やや急ぎ足でそう告げ、リジルも去る。
アウロスの他に残されたのは、未だ沈痛な面持ちのままのルインのみ。
彼女にとって、この夜は余りに色々な事があり過ぎた。
それはアウロスも同じだが、決して同列では語れない。
「ルイン……大丈夫か?」
「それは私の言葉。あの元暗殺者とは親しかったのでしょう?」
ルインは気丈にそんな言葉を返す。
無論、そこに普段の不遜はない。
「もうこの世にはいない……って聞かされてたから、生きていた事に驚いただけだ。それより……」
「私は問題ない。覚悟なら、遥か昔にしていたから」
明らかに無理をしているとわかるその言葉に対し、アウロスは『そっか』とだけ呟き、再び腰を折った。
風は何時の間にか止んでいる。
憲兵や教会の連中も既にいない。
そんな中、記憶だけが静かに揺れていた。
「あいつを怨んでるか?」
ポツリと、アウロスが零す。
言葉は地面に落ちたが、その中身は宙を舞い、ルインに届いた。
「あの男は、フローラを殺し、私を殺さなかった。それが怨めしくないなんて事、ある筈がない」
「……だよな」
「でも、もう過去の事だから」
本心か、そうでないか――――それは本人にしかわからない。
しかし、ルインのその答えに、アウロスは心から安堵した。
そして、その感情の発生に驚愕しつつも、それが自然なのだと自覚した。
「そっか。じゃ、今日は解散。お疲れ」
「怪我はしていないの?」
「大丈夫」
実は、以前負傷した右肩がやたら痛む。
しかしそれを言ったところで、余計な心配と自責の念を生むだけでしかない。
我慢する事が最善と判断し、さっさとこの場を離れる事にした。
「……」
しかしルインは、そんなアウロスのやせ我慢に気付いているのかいないのか、アウロスの右側に並んで、同じ速度で歩き出した。
「……私に、これ以上生きる意味があるのかしらね」
そして、虚空を見つめながら、ルインがボソッと呟く。
その声は、明らかに震えていた。
「大切な人を巻き込み、死なせて……母親に心底殺したいと思われるような、そんな人間に……生き続ける価値はあるの?」
「ある」
アウロスは即答した。
ルインは一瞬肩をピクリと動かし、アウロスの方に顔を向ける。
その表情は戸惑いや逡巡、あらゆる葛藤が現れていた。
「どうして?」
「あるからある。だからある」
「そんな返答、貴方らしくない」
ルインの尤もな指摘に、アウロスは思わず苦笑した。
求められている答えは、何となくわかっている。
「俺もお前も、誰だって、生まれた事に意味はないし、生き続ける事にも意味はない。死もな。全部ただの結果だ」
夜風が色なき歪を撫でる。
揺れる世界は、どこかで小さく傾いている。
「でも、それらは全部、別の誰かにとてつもない意味をもたらす事がある。お前が生き続ける事に、誰かが救われているかもしれない」
頬を掻きつつ、小さな息を漏らす。
傾いたままの視線を空へ向けて。
「ちなみに、言い換えると『人は一人じゃない』となる」
「途端に陳腐ね」
苦いままの笑みは、珈琲の味に少し似ている。
そこに求めるのは、潤沢と鎮静。
アウロスの顔が、静かに表情を消した。
「俺は、あいつを……グレスを気に入っていた」
それは、僅か一週間程度の付き合いで生まれた、確かな絆。
アウロス=エルガーデンには必要のない、人と人との形なき繋がり。
「出来れば生き続けて欲しかった。でも、それが叶ったからと言って、必ずしも団円って訳じゃない。それが残念で仕方ない。アウロスじゃなく、俺自身がそう思う」
それは生きる事を美しく彩るが、寂寞感や焦燥感、嫉妬心や猜疑心と言った負の感情も呼び込む。
「けど、それは暫くは置いておかないといけない」
普通の人生なら、それもひっくるめて生きがいと言える。
だが、今のアウロスは、どうしても避けなければならなかった。
弱い存在の彼に、これ以上弱みを生む事は許されない。
「アウロス=エルガーデンの名前を残す為に?」
「ああ。その為には、優先すべき事項以外、全てを放棄したり保留したりしなけりゃならない。利用の出来ない脆弱性を取り除かない事には、辿り着けないから」
研究も終盤に差し掛かった今、周りにいる人間はそれを決して見逃したりはしない。
割り切るしかないのだ。
「最近はそれが割と辛い。でも、もう少しだ」
アウロスはふっと息を吐き、ルインに顔を向けた。
闇の中でも彼女の美しい相貌は目に痛い。
これから言う事を躊躇したくなる程に。
「まあ、取り敢えず、だけど」
それでも、アウロスは決断していたその言葉を綴った。
自分の声で。
そして、自分の心で。
「もう少し、頑張ってみないか? その……一緒に」
かつて、友から受けたものと同じ内容の、宝物を。
「……」
ルインは俯き、暫く沈黙した。
アウロスは、ただ待ち続ける。
本来ならば切り捨てるべき感情と共に。
「私は……」
果たして、どれ程の間そうしていたのか。
双方ともわからない空白を経て――――
ルインの口が開く。
「私は、何を頑張れば良いの?」
「差し当っては、今日の器物破損の隠蔽工作なんかを」
「そんな事を、私が?」
ルインが静かに破顔する。
柔らかく、温和な笑み。
魔女と呼ばれた彼女の姿は、もう何処にもなかった。
「わかった」
シンプルな答えの後、ルインは一足先にその場を離れた。
一人残ったアウロスは、少し火照った顔で、闇に溶けたグレスの残像を追う。
約束は果たされなかった。
グレス=ロイドはそこにはいなかった。
それは本人の言葉であって、他の誰も覆す事は出来ない。
寂しい現実だった。
彼の人生と交わる事は、もうない。
会う事も、言葉を交わす事もない。
それでも――――最後にその亡霊と対峙し、話をした事には大きな意味があった。
「じゃあな、グレス」
今度こそは、別れの言葉が言えるのだから。