プロローグ
2020/03/20 追加
魔術大学には、一日中朝がある。
多少語弊があるものの、その認識で間違いない。
大学は生徒の教育と各分野の研究を同じ施設内で行っているが、後者における一日のスケジュールは、各研究室の頂点たる教授によって決まる。
特にそういう規則がある訳ではないが、自然とそうなってしまう。
教授の方針や理念、思いつきによって研究員達のやるべき事が決まるからだ。
そのため、研究室にいつ人が集まり、いつ解散するかは教授次第。
朝に弱い教授の研究室は自然と夜型になるし、健康志向であれば早朝からの出勤が必須となるだろう。
「君は朝が苦手か?」
「いえ、特には」
本来はどちらかと言えば前者に属しているその助教授――――ミスト=シュロスベルにそう問われ、少年のあどけなさを殆ど残していない17歳の研究員は即座に否定した。
「人間の閃きや発想力が時間帯で左右される事はないと私は考える。だが朝が早い研究室の方が年寄りに受けが良くてな。皆には毎日早朝から集まって貰っている」
「異論はありませんよ。夜の飲み会を軸に一日の日程を組み立てる教授より、よっぽど建設的でしょう」
「そのような教授が存在するのか? 少なくともこの大学には心当たりがないな」
「古巣の話です」
「ヴィオロー魔術大学か……それなりに名の通った大学なのだがな」
そう呟きつつも、決して他の大学の悪口は言わない。
それが如何に無意味な行為か、ミスト助教授は知っていた。
「私が教授になった折には、一度挨拶に行かなければならない大学だ。出来ればそれまでに改善しておいて欲しいところだな」
「前々から思っていたんですが」
研究員は上司に対し、全く物怖じする事なく問いかける。
長い時間をかけて作り上げた関係性ではない。
初めて相対した日から、二人の間に流れる空気は一切変わっていないのだから。
「教授と助教授ってどう違うんですか? うちの研究室には貴方より上はいない訳だし、実質教授と同じように感じるんですけど」
給料が違うなどの待遇の話は敢えてしない。
何故なら、ミスト助教授が教授になろうとしている理由がそれではないと、研究員は知っているから。
これもまた、初めて会った時からだ。
「助教も教授も専門分野の研究と教育を行う点は同じだ。しかし大学運営に関わる点が大きく違う」
そして当時から、ミスト助教授は今を見ていない。
遥か先、斜め上を見据えている。
「助教は外部から人材をスカウトする程度の事しか出来ないが、教授になれば相応の権限が与えられる。当然、責任も重くなる」
「発言力も、ですか」
「無論そうだ。何より、介護に時間を割かずに済むのが大きい。教授会は少々平均年齢が高くてね」
年齢不相応に厳つい顔のミスト助教授は、顔では笑わない。
だが声では時折笑う。
それが冗談の意図だと知るのには、少し時間がかかった。
「失礼します」
鋭く尖った、そして研ぎ澄まされた女声。
朝に聞くと目が冴えるようなその声が、助教授室の扉を開く音とほぼ同時に聞こえてきた。
「……」
先にミスト助教授と対峙していた研究員には一瞥もくれず、その隣に立つ。
鳥の囀りも一睨みで止む、それでいて見る者を全て惹き付ける、美しく淀んだ瞳。
その手には、普段被っている三角帽子を抱えている。
「おはようルイン。珍しいな、君が朝一でここに来るのは」
「研究室の鍵が閉めたままに」
「ああ、そう言えば開けていなかったな。魔術士の悲しい性と言うべきか、つい鍵の存在を忘れてしまう」
ミスト助教授は真顔のままでそう告げ、引き出しの中に仕舞ってあった鍵を摘み、ルインという名の女性ではなく眼前の研究員に差し出した。
「アウロス、これは君に預ける。今日の仕事が終わったら、この部屋に戻しに来なさい」
「了解しました」
つまり、最後まで残っておけという命令。
従わない理由もなく、アウロスと呼ばれた少年は鍵を受け取った。
「……」
そんな二人のやり取りを、ルインは何も言わずにじっと眺めている――――事もなく、既に助教授室を後にしていた。
「他の研究員とは仲良くやれているか?」
「あの態度で一目瞭然だと思いますけど」
「なら良い。例え数分、数秒でも大事な機会だ。有効に使いなさい」
そこでようやく、アウロスはミスト助教授が今朝この部屋に自分を呼んだ真意を悟った。
「鍵で話を膨らませる自信はありませんけどね」
そう告げ、踵を返す。
毎日が小さな情報戦。
それもまた、アウロスの日課だ。
「……」
助教授室を出て直ぐ、扉をずっと睨んでいたルインの姿が目に入る。
向かいの壁に寄りかかって待っていたらしい。
アウロスは一瞬話題を探したが――――
「今日の予定は……黄魔術の実験だったか」
結局、鍵とは無関係の話を振る事にした。
「そうね。四つの中で一番事故率が高いと聞いているけれど」
炎モチーフの赤魔術、氷の青魔術、風の緑魔術、雷の黄魔術。
どの実験が最も事故が多い……等というデータは存在していない。
ただ、一般論としてはそれなりに普及してもいる。
「迷惑な話。ただの思いつきでそんな実験を手伝わされるなんて」
「そういうものだろ。大学の研究員は」
各研究室における研究・開発は原則的に教授の着想に委ねられる。
『こういう魔術を作りたい』『その為にはこんな実験が必要だ』『それを行うにはこのような準備をしなければならない』といった筋書きは、全て教授が作る。
研究員の仕事は基本、その手伝いとなる。
例えば、黄魔術――――雷を基調とした攻撃魔術の中に【雷鞭】という魔術がある。
雷の光を鞭のようにしなやかに操ることで、回避され難い攻撃を可能とする初級魔術だ。
一見すると難易度の高そうな魔術だが、実在する武器をモチーフとする場合、その形状や動きを魔術に組み込むのはそう難しくない。
そして同時に、初級魔術だけあって高出力でもない。
威力を弱めた雷だからこそ、鞭のような曲線を描ける。
なら、高出力でかつ曲線の軌道を描ける黄魔術を開発できれば、より強力で避け辛い魔術になる。
誰もがそう考えるだろう。
しかし実現させるのは難しく、そのような魔術は今日に至るまで開発されていない。
それでも『高出力でかつ曲線の軌道を描ける黄魔術』、すなわち【雷鞭】の進化形の魔術を開発するメリットは果たしてあるのか?
現代における魔術研究は、そこが出発点だ。
理想通りの魔術が完成すれば、どの程度の需要が見込めるのか。
どれだけの金を生み出せるのか。
教授達は、まずそこから考える。
魔術士にとって、魔術のバリエーションはそのまま攻め手の豊富さに繋がり、戦闘力に直結する。
剣や槍などの武器とは違い、魔術は個人相手に商売する訳ではないが、使用頻度の高い魔術を生み出した大学には相応の支援者が集い、寄付という名の出資をするのがこの国――――魔術国家デ・ラ・ペーニャの常識。
当然、魔術研究開発費は国家予算の項目にもあるので、使用頻度の高い新魔術の開発はそこからの支出、そして補助・支援にも大いに関係してくる。
大学の魔術士は必然的に、大学の利益を追及しなければならない。
彼等が研究するのは『金になる魔術』。
安全性や研究員の負担が優先される筈もない。
「……」
案の定、早々に話題は尽きた。
アウロス自身、決して口が上手い方ではない。
しかしそれを遥かに上回る対人関係の杜撰さが、ルインという女性の特徴の一つだ。
この大学に来て暫く経つが、アウロスが彼女とまともな会話を行った回数は、片手の指で事足りる。
同じ特別研究員という立場なのに。
それでも、他の研究員に言わせれば快挙との事。
一体これまでどういう研究室だったんだ――――そう不安を覚えずにいられないかというと、そうでもない。
研究部門に身を投じた者達は、人間関係を無視した集団行動を割と得意としているからだ。
研究室は、助教授室の目と鼻の先。
会話している間にもう到着している。
ミスト助教授の言う『大事な機会』は、とっくに過ぎ去っていた。
扉の鍵穴に鍵を入れながら、アウロスは考える。
自分がこの場所、これから入る部屋に所属している意味を。
その為に必要な事を。
「いつも、あんな無愛想な感じなのか? ミスト助教授と話す時には」
気の迷いではないと自分に言い聞かせ、ルインにそう問う。
深い理由は全くない。
ただの努力だった。
「ええ。愛想を振りまいて媚びへつらってあの男の社会的欲求と承認欲求を刺激しようとしたところで、無意味極まりないもの」
「……」
結果、まるで咎められた心持ちになってしまった。
尤も――――
「……そんな小細工が通用するほど楽な相手でもないし」
収穫がなかった訳ではないが。
とはいえ、ルインのその補足は雑談の範疇を出るものではなく、彼女の何かを探るには遠過ぎた。
「おはようございます!」
鍵を回し研究室の扉を開けようとしたその時、廊下の方から明るい声が響きわたる。
それぞれ違う足音が三つ。
意図しないタイミングで、長を除くミスト研究室の面々が一堂に会した。
「確か今日って黄魔術の実験よね。憂鬱……顔、火傷したらどうしよう」
「クレールさんは接客業もやってますからね。怪我には人一倍気を遣わないと」
「そうなのよ。リジル、危ない実験は全部代わってくれる?」
「それは嫌ですねー! 絶対に嫌です!」
最も幼い容姿のリジルがニコニコ笑顔で断言するのをクレールは苦笑混じりに眺め、先に歩を進め扉の前の二人に合流し――――
「朝から大変ね」
そう呟きつつアウロスの肩に軽く触れ、一足先に室内へ入って行く。
『――――貴方とは仲良くしたくないの』
一瞬、前に彼女から言われた言葉を思い出し、アウロスは思わず眉をひそめた。
「おい」
研究室に向けていた目が、その短く神経質な声によって強制的に引き戻される。
声の印象同様、朝からピリピリした男の顔。
自然と溜息が漏れそうになる。
「何故貴様が研究室の鍵を持っている? それはこの部屋の主たるミスト助教授、若しくは年長者で講師たる僕が持つべき物だ」
「……普通にそのミスト助教授から預かったんだが」
「朝から下らない冗談を……研究室の鍵を預けるとは即ち、その部屋の管理を任せるという信頼の証。あの聡明なミスト助教授が僕以外にそれを任せる筈がない」
「相変わらず自分の理想を押しつけるのがお好きなようで」
「十分な客観性に基づく正論を言ったまでだ」
「そうか。ならこの鍵はレヴィ先生が持つべきだな」
とんだ言いがかりだが、アウロスは反論する事もなく、レヴィと呼んだ男へ向けて鍵を放り投げた。
一瞬苛立ちを顔に出しつつも、レヴィは飛んできた鍵を片手でなんなく受け取る。
そして若干口元を緩めた。
「ただしそれを受け取った以上、研究室の管理責任者はお前だ。もし今日一日の間に室内で何かが起こったら、全てお前の責任になる。万が一施錠を忘れて、その事実を他の研究室に知られようものなら、あの研究室の安全管理はどうなっているんだと笑い物になるな。当然ミスト助教授の顔に泥を塗る事になるけど、良いのか?」
「随分と幼稚な脅しだな。この僕がそんな下らない失態を犯す筈がないだろう」
「今日の実験は黄魔術だったな。確か一番事故率が高いんだったか」
そこまで言って、アウロスはレヴィに向けていた視線をルインに移した。
表情に変化はなく、感情に何の動きも見られない。
「ええ。そうよ」
そんな様子のまま、しれっと援護射撃を行った。
「それがどうし……待て。まさかとは思うが貴様! いや貴様等! 事故に見せかけて僕に魔術を直撃させるつもりじゃないだろうな! 答えろ!」
レヴィが怒りを覚える頃には、既に二人は室内へ入っていた。
慌てて後を追うその背中を心底楽しそうに眺め、リジルもそれに続く。
そして、静かに扉は閉じられた。
「理想の押しつけ……か。どの口が言ってるんだって話だな」
――――しっかりとした舗装のない、石を埋め込んだだけの道を踏みしめ、少年は柄にもなく感慨に耽っていた。
思い出すのは大抵、とりとめのない記憶ばかり。
なのに不思議と心が揺れる。
ミスト研究室での生活は決して順風満帆ではなかったが、彼にとって確かに青春の一遍だった。
そして何より、とても大切なものを得た。
自分の人生には縁のない、どれだけ渇望しようと得られないものだと諦めていたものを。
だから後悔はない。
これから進む道の先が墓場だとしても、安寧とは程遠い苦難の日々だとしても、納得出来る。
少年は過去を覗いていた。
相対的な未来へ進む為に。
その名を歴史に刻む為に。
今はもう失われた、懐かしくも忙しなき日常の物語を――――