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短編集・散文集

作者: Berthe

 箸先にはさんだ麺を口元へ、跳ねないようそっと気をつけつつ結んだ唇はおのずとひらいて、そのままするするおもむろに引き入れた途端、つゆが滴って、口の端からあごへすうっと糸をひく。(あや)()はすぐと箸を置いておしぼりを手にあごをぬぐうと、静止したまま次を啜る勇気もない。

 ご飯を食べるときにおかずの油が唇を越して口周りへついたり、いつか指先がぬらりとしているのが嫌さにそれと気づくや否やつと席を立ち、綺麗にして胸をすっと静めてから再び立ち戻るのが綾香のいつもの癖で、また普段はそれほど意識されない事ではあるものの、今おしぼりで丁寧にぬぐってみて、俄に物足りなく思うと、すぐにでもお手洗いに立って念入りに清潔にしたくてたまらない。

 先達て付き合っていた人との外食の際にはきっとおしぼりで我慢していたし、家でふたり差し向かいにくつろぎながら膳を共にする時にも別段気になった思い出もないのに、別れてからこっち、ひとりで食べる機会がいやでも増えるにつれてこれまで意識の隅にあって知らずにいたものが今になって変に気に障るのかもしれない。と、もっともらしい理由をつけようとしたそばからすぐに思い出すのは、この頃は食べる時ばかりでなく、料理をする最中にも油が手先へ跳ねるのがどうにも耐えられないという事で、これは友達にも訊ねたことはないし皆はどうかわからないけれども包丁で材料を切り終えたり、炒め物や焼き物が出来上がった段階でまとめて洗えばいいものを、綾香は材料を切っている最中にちょっとぬめっとしたり、炒めているときに指に生暖かい熱や湯気が伝うのがふっと気に障っただけで、もうたまらなくなり蛇口をひねって手を差し出す。そうやって都度都度洗っていたら時節柄、肌が荒れだすのは当然で、乾燥しきってそこからひびが入り擦り剝けているところもぽつぽつあるし、しかもそれは左手の中指から小指に集中しているのだけれど、でもこれは、ただ時季が時季なだけで、洗わずにはいられない事とは話はまた別かもしれない。

 そう答えをつけてしまうと急に肌がスープの油にやられている気がして、指先をすり合わせてみれば案に相違しない。ひょっとしてどんぶりの表面に油が浸っているのか。疑うと、もうそれに触れたくない。目の前を湯気がふわふわ立ち昇り、眺めていると、先刻は口元に気持ちを集中して忘れていた、顔を襲う生暖かさを思い出して、なおさら箸を取る気が起こらない。けれど、お腹が鳴ったのとご飯をつくるのが面倒なのをちゃっかり言い訳にして早めの夕飯に、ひさびさに訪れた近所の拉麺屋ですするラーメンが普段滅多に食べないだけ、殊更に美味しいことも知らないわけじゃなく、それにもうさっきのひと口でやられている。

 食べよう。綾香は気を起こして、もう何も考えないよう、ひたすら味だけに集中しながら箸を取って麺をすすり、スープに口をつけ、それでもときおり水を飲みおしぼりに頼りつつゆっくり完食すると、ゆれる暖簾をくぐって店主の声を背に店をでるや否やすぐさま口をゆすごうがため木枯らしがくるくる落葉を煽る夕暮れの並木道をせかせか歩み、マンションの一番目のドアを抜けてオートロックの暗証番号を指先に押そうとした刹那、ぴんと気がついて指をこすり合わせ、脂身のない油分のひいたさらさらな皮膚をハンドタオルにぬぐった。

読んでいただきありがとうございました。

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