4.複雑な家庭
「……ん?」
それは、ある日の昼過ぎのことだった。
『魔法入門』を読み終えてから数週間。僕は目が覚めて以来、起きている時間のほとんどを本を読んで過ごしていた。その日も部屋のベットの上でエリナが持って来てくれた本を読みふけっていた。既に三冊目に入っていた僕は、ちょうど休憩にしようかと本を置いたところだった。
飲み物でも飲もうか、と考えてエリナを呼ぼうとしたとき、それは聞こえてきた。
「――奥様!それはあまりにも酷すぎます!」
「黙りなさいエリナ。たかだか使用人風情がわたくしに意見しようなどと、身分を弁えなさい」
エリナが誰かと言い争っているような声。普段は温和で優しいエリナの怒りに満ちた声に、僕は思わず声が聞こえてきた窓の方に近寄った。
外を見ると、屋敷の玄関の辺りにエリナが立っているのが見えた。彼女の前に立っている相手にも見覚えがある。
「あれは…リーン=デイブレイク子爵夫人」
そう。遠目だがあの髪色と立ち姿は、間違いなく今世での俺の母リーン=デイブレイク子爵夫人だ。無駄に豪奢なドレスを身に纏い、悪趣味なごてごてした馬車に乗り込もうとしている。よく見ればあちこちに宝飾品を身に付けているのが分かった。
「奥様!」
「ですから、考え直す気などないと言っているでしょう。まったく、下賤な平民の使用人はこれだからいやだわ。本来あなたなんて、わたくしと言葉を交わすことすら許されないというのに」
差別発言とともに苛立たしげにエリナを見たリーン=デイブレイク子爵夫人は、投げ捨てるように何かの入った袋をエリナに投げつけた。
「とにかく、これはもう決まったことよ。あの妾の子は近い将来この屋敷から出てデルカンデラに行かせなさい。あっちでの生活はそのお金があればどうとでもなるでしょう。小さな屋敷を用意しておいてあげたからそこは使わせてあげるわ。感謝なさい?」
「しかし奥様!カナタ様はまだ病み上がりです。そのうえまだ幼く体力も消耗しております。どうか今しばらく…」
「うるさいわね。あんな下賤の子、これまで面倒を見てやっただけでも感謝なさいな。あっちではせいぜい、わたくしたちに迷惑をかけないようにおとなしくさせておきなさい。まあもっとも、あんな惰弱な子などすぐに死んでしまうかもしれないわね?」
「奥様!」
「お黙りなさい。ああ、それと。あなたも今後このお屋敷には必要ないわ。わたくしの住む屋敷に平民の使用人なんて居ては気分が悪くなってしまうもの。あの子と一緒にデルカンデラにでも行きなさいな」
そう言い残し、リーン=デイブレイク子爵夫人は馬車に乗り込んで去っていった。あとに残されたエリナは、その場に泣き崩れてしまった。
「はぁ…。なるほどね」
さっきの二人の会話。それから察するに、妾の子というのは僕のことだろう。つまり僕は、グラン=デイブレイク子爵とリーン=デイブレイク子爵夫人の間に生まれた子供ではないということだ。どうりで似てないと思ったよ。リーン=デイブレイク子爵夫人の言葉から推測するに、本当の母親は平民だったのかもしれない。そして、僕が目障りな彼女は僕をこの屋敷から追い出した。本当のお母さんには会ったことはないし、もしかしたら僕を生むと同時に亡くなってしまったのかもしれない。
デルカンデラはたしか、地図で見た覚えがある。ここから王都方面に馬車で二日ほどの距離にある田舎町だ。王都方面とは言っても周りは森と山に囲まれ、主な街道からも外れている。典型的な軟禁だね。いや、飼い殺しかな?
とりあえず。
「エリナ」
「カナタ様...」
僕が声をかけると、エリナは驚いて勢いよく振り返った。涙に濡れたその目には驚きの色がありありと浮かんでいる。「どうしてここに?」って顔だ。
「僕だって、部屋からここまで歩けないほど脆弱じゃないんだよ?」
とか言いつつ、実はちょっと疲れたのは秘密だ。やっぱりもう少し体を鍛えないとね。と言っても、まだ4歳だから仕方ない部分もあるけど。前世ではそこそこ体は鍛えていたんだけど、この世界だとやっぱり剣とか振った方がいいのかな?
「今のお話、聞かれていたのですか?」
「まあね。あんなに大きな声で話してたから、部屋にいても聞こえたよ」
「それは...」
顔を伏せてしまうエリナ。
「申し訳ございません。私の力不足のせいで...」
「そんなことないよ。僕こそごめんね。僕を庇ったせいでエリナまで一緒に追い出されることになっちゃった」
「そんなことはっ!...私が、不甲斐ないばかりに」
そう言って、泣きながら僕を抱きしめてくれる。
本当に優しい人だ。出会ってからまだ一か月くらいの付き合いだけどよく分かる。僕なんかについてきても、いい事なんてないだろうに。それでも心の底から、僕を気遣ってくれている。
「私は、今は亡きあなた様のお母上と約束したのです。あなた様を守っていく、と。その約束も守れず…」
「エリナは、僕の本当のお母さまと友達だったの?」
「はい。カナタ様のお母さま――レナ様は私の恩人であり、かけがえのない友人でした」
「そっか」
エリナのその愛情は、母から子へのものとなんら遜色ない。僕にとっては、エリナからのこの愛があれば十分だ。逆に、エリナを泣かせるようなデイブレイク子爵家はあまり好きになれない。だから。
「泣き止んでくれないかな、エリナ。これから忙しくなっちゃうからね。とりあえず、お茶をいれてくれると嬉しいな」
「カナタ様…」
「荷物もまとめて、準備しないと。デルカンデラは遠いけど、きっと楽しいよ」
「…はい」
僕は、エリナが愛してくれているカナタであって、そうではない。僕は純粋には、この世界の人間じゃないのだから。でも、いやだからこそ。僕がこれからはエリナを守ってあげたい。
この世界で。
その日の夜は、エリナにリナという僕の本当のお母さんの話をしてもらった。お母さんが平民の出でグラン=デイブレイク子爵に見初められたこと。けれど体が弱く、僕を産むとすぐに死んでしまったこと。美しい人で、それゆえにリーン=デイブレイク子爵夫人から嫌われていたこと。そしてエリナがお母さんの幼馴染みで親友であり、家を追い出されたところをお母さんの傍付きとして拾ってもらったこと。
「エリナは、カナタ様のお傍で今後ずっとお仕えします」
「ありがとう、エリナ」
涙ながらにそう言ってくれたエリナに、僕は笑顔で応えた。
それから数週間後。僕の5歳の誕生日の日に、僕たちは、デイブレイク本邸を離れデルカンデラに向かうことになった。




