8.5.輝きの欠片
他者サイドです。
それが私のもとに届いたのは、これから秋にさしかかろうという時期のことだった。
その日の私は、王都に購入した屋敷の自室でゆっくりと紅茶を飲んでいた。南方産の茶葉を使った1人だけのこのティータイムは、私の数少ないプライベートな時間と言っていい。側近の者達はまずこの時間を邪魔することはなかった。
しかし、その日は違った。
「お楽しみのところ失礼致します」
コンコン、というノックの音に続いて聞きなれた執事の声が聞こえてきた。かなり長い付き合いになるグラーフだ。私の側近の中でも最上位に近い立場と言っても過言ではない。
「...いいわ、入りなさい」
そんな彼は当然、私がこの時間を邪魔されることを酷く嫌っていることを知っている。にも関わらずこうして声をかけてきたということは、それだけ火急の用件なのだろう。
思わず眉をひそめてしまいながらも、私は彼の入室を許可する。
「はい、失礼致します」
そう言って入ってきたのは予想通りグラーフだった。もう白髪の混じり始めた好々爺じみた老人。しかしそんな見慣れた彼の後ろには、1人の見知らぬ中年の男が付き添っていた。
「お楽しみのところ、まことに申し訳ございません」
「頭を上げなさい。いいわ。それだけ重要な用件なのでしょう?あなたがくだらないことで私のティータイムを邪魔するはずがないもの」
「ありがとうございます。まさしく、直ちにお伝えするべき事案であると私が判断致しました」
「それで、その男は?ここに居るということは察するにその事案に関係があるのかしら?」
跪き、頭を下げるグラーフと男に問いかける。するとグラーフは顔を上げるなり、1冊の本を差し出してきた。
「これは?」
「はい。ここに居るヘルマーが東方より仕入れてきました品にございます。この者は例の情報収集のために各地に放ちました者達の1人でして」
つまり、目の前の男――ヘルマーはグラーフの部下の1人ということだ。頭を下げたままのヘルマーを一瞥しながら、私はグラーフが差し出してきた本を手に取る。
「これが、私に伝えるべき重要な事案なのかしら?」
「はい」
見た目は少し安っぽい丁壮の本だ。外側こそ丈夫な革で作られているものの、中の紙は貴族が使う白紙と違い黄色っぽい安物。表紙に飾り気もなく、変な模様が書かれているだけでタイトルも書かれていない。
「…なんの本なのかしら?……!?」
呟きながら何気なく本を開く。そしてそこに書かれた文字を見た瞬間、私は目を疑った。
『魔法入門魔導書』
『魔導書』。それは今はもう作ることができないとされる伝説の書物だ。かつて神魔戦争期以前に作られたものが国に秘蔵されているが、その価値は1冊で金貨百万枚を超える。古い遺跡からごく稀に発掘されることもあるが、それらもどれも金貨五十万枚は下らない。
まさに、国宝と言っても過言ではない。それが魔導書というものだ。
「...これは、本当に魔導書なのかしら?」
「はい。その本の名前はヘルマーが付けたものですが、開いた瞬間に魔力が感じられます。まず間違いなく、これは魔導書と呼ばれるものでございましょう」
グラーフに言われてよく見てみると、確かに少ないながらも魔力が感じられる。つまりこれは間違いなく、新たに発見された魔導書であるということ。
確かにこれは一大事ね。
「これに込められた魔法は何か分かる?それから使用方法も」
「はい、分かります。どちらも製作者から直接伺っております」
「そう。なら……はい?」
思いがけず間の抜けた声が漏れてしまった。今、グラーフはなんと言ったの?
「…グラーフ、今なんと言ったのかしら?」
「製作者から直接使い方を伺っている、と申しました」
「それは、つまりどういうことか分かっているの?」
「はい。私も最初に聞いたときは耳を疑いました。しかし報告を聞く限りほぼ間違いなく事実かと。この魔導書は間違いなく今生きている人間の手で作られたものです」
それを聞いた瞬間、私は手にしていた魔導書を机の上に取り落としてしまった。ありえない。だって魔導書は…。
「魔導書は、今はもう製法が失われたはずよ。先代の王宮筆頭魔導士〈賢者〉でさえ作り出すことは出来なかった!」
「しかし間違いなく、この魔導書はここに存在します。そして同じものがあと9冊、ここに」
グラーフがヘルマーに目配せすると、ヘルマーが腰の袋から同じ本を9冊取り出した。それらも手に取ってみるが、間違いなく魔力を持っている。
「…なんてこと…」
「はい、由々しき事態です。ほぼ間違いなく、魔導書を自由に作ることが出来る人物が存在している。この10冊を売るだけでも、この国の経済を傾けるに足る金銭を十二分に集めることが出来ます」
グラーフの言葉に頷く。これはかなり危険なことだ。その人物が敵に回れば、実質的に相手に大量という言葉では到底足りない資金を与えることになる。金は一種の究極の力だ。兵にも食料にもなるし土地だって買える。あらゆることをするうえで必要なもの。
「そして、さらに驚くべきことがございます」
「…まだ、何かあるのかしら?」
「はい。この魔導書の用途でございます」
グラーフはそう言うと、おもむろに魔導書を一冊手に取る。そしてパラパラとページをめくり、最後のページを開いて見せてくる。
そこには見たことのない精緻な術式が美しく描かれている。
「これは?」
「はい。この術式は〈魔力覚醒〉なる魔法の術式だそうです」
「〈魔力覚醒〉?」
聞いたことのない魔法ね。
「どのような魔法なのかしら?」
「文字通りの意味でございます。術者の魔力を強制的に『覚醒させる』魔法。それがこの〈魔力覚醒〉です」
魔力の覚醒。…その言葉で薄々分かってしまったけれど、一応確認しておく。そんな、まさか…
「つまり、どういうことかしら?」
「はい。魔法を使うためにはまず、魔力を感じることが必要不可欠です。これが出来なければどんなに魔力を持っていても魔法を使えません」
「そうね」
私も覚えがある。魔法を習い始めて最初にやらされたことだ。地道に瞑想を繰り返して、出来るようになるまで半年近くかかった記憶がある。もっともこれは私が特別時間がかかったわけではなくて、他の子も似たり寄ったりだった。それどころか、いくらやっても出来ずに魔法を諦めた子が大半だったと記憶している。
「この〈魔力覚醒〉の魔法は、その魔力を感じるということを強制的に魔力を活性化させることで行わせる魔法です。原理は分かりませんが、少しでも魔力を持っていれば魔力を感じられるようになる、と作成者は申していたそうです」
「……」
もう絶句するしかない。
つまりこの魔導書さえあれば、誰でも魔法を使えるようになるってこと?
魔法とは多くの時間と努力、そして持って生まれた才が必要な技術のはずだ。学ぶのに多額の資金もかかり、結果魔法を手にできるのはごく一部の限られた者達だけだった。それこそ、時間と金銭に余裕のある貴族階級くらいの。そしてそれゆえに、一流の魔導士とは一騎当千の戦力として戦場で畏れられてきたのだ。それが…
「つまり、この魔導書があれば一流三流はともかくとして魔導士を大量に育成できる、ということね。いえ、魔力を持たない人間なんてほとんどいないのだから実質軍の全員が魔導士になる、ということになる。そんな軍が1000…いいえ、500であっても悪夢だわ」
「はい、まさしく。それは現在の軍事事情からすればまごうことなき悪夢でしょう。魔導士と一般兵の差は埋め難いものがあります。魔力で身体能力を強化できるだけの騎士でも、一人で一般兵10人を相手に圧勝できますから」
まさに無敵の軍勢だ。そんな軍勢が仮に5000もいれば、この国など簡単に滅ぼされるに違いない。王城を守る精鋭の近衛騎士ですら、1000しかいないのだから。一人一人が騎士以上の兵力を持つ兵が5000もいれば問答無用で押しつぶされよう。
「…グラーフ」
「はい」
「この魔導書を作った人物、何者なのかしら?」
私の質問に、グラーフは僅かに躊躇いを見せ、やがてゆっくりと口を開いた。
「名はカナタ=デイブレイク。今年で12歳になるデイブレイク子爵家の三男です」
「…は?」
一瞬言葉の意味が分からず、聞き返してしまう。こども…?この魔導書なんていうとんでもない代物を作ったのが?
「…本当?」
「はい。あくまでヘルマーしか接触していないため顔までは私には分かりかねますが、名前は間違いありません。多くの情報も、これの製作者がその人物であると裏付けています。ほぼ、間違いないことかと。またこの本も独学で作成したもののようで、本人もこの『魔導書』の価値はよく分かっていないようです」
さらに続きを聞いて、私は驚きを隠しきれなかった。
グラーフの調査によると、そのカナタ=デイブレイクは現デイブレイク子爵の妾との間に生まれた庶子らしい。幼少期は病弱で虚弱。よく寝込み、社交の場にも顔を出すことはなかったという。お披露目さえ行われていないそうだ。
そして5歳になったときにデイブレイク子爵領の領都から田舎にある村デルカンデラに移り住んでいる。名目では療養となっているようだけれど、これはおそらく正妻に嫌われて追い出されたのだと思われる。三男だったために子爵も黙認したのだろう。母親も死んでいるし。実際それ以降、カナタ=デイブレイクは両親と接触していない。グラーフの調べた限りでは資金援助も最初以降行われていないようだ。
そんな子が、あの魔導書を作り出した。
「ははは…なんてことかしら。まさか冷遇されていた子がこんな偉業をなすなんて。デイブレイク子爵が知ったらいったいどう思うかしら?」
「正直に申しまして、大変暗い感情を抱かれるかと」
「まあ、そうでしょうね。これがもし世に出れば、その製作者としてカナタ=デイブレイクの名は世界に知れ渡る。それを冷遇していたとなれば、デイブレイク子爵への非難が殺到するでしょうね。下手したら男爵に降格されるかも。その上、カナタ=デイブレイクは莫大な―それこそデイブレイク子爵を圧倒的に上回る財と名声を得る」
そうなってしまっては、デイブレイク子爵家はおしまいだ。そしてきっと、デイブレイク子爵はカナタ=デイブレイクがここまで優れた才を有していることを知らないのだろう。もし知っているなら、田舎の村に送るなんて措置は取らず、自分の手元で飼いならしているはずだ。なにせカナタ=デイブレイクは、けた外れの富を生む金の鶏なのだから。
だからこそ、惜しい。
「…確保したいわね、その子」
カナタ=デイブレイクはおそらく、育てれば王国の未来を背負って立つに足る人物になる。自覚していないとはいえ、なんの教育機関にも通わず、独学で魔導書を作り上げるなどという非常識を成し遂げたのだ。絶対に、田舎の寒村で一生を終えるようなことがあってはいけない。もちろん、誰かに飼い殺されるようなこともだ。
「グラーフ、その子はたしか三男なのよね?それも庶子の」
「はい」
「なら、デイブレイク子爵家の後継者になる可能性は限りなくゼロなわけね」
貴族家は基本、長子相続が推奨されている。よほどのことがない限り、家を長男以外が継ぐことはない。
「いっそのこと、継承権を放棄させる形で身柄を引き受けられないかしら?」
「可能かとは思いますが、理由はいかがなさいますか?下手なことを言えば、デイブレイク子爵家にカナタ=デイブレイク氏の価値を悟られかねませんが」
「そうね…。なら、こうしましょう。叔父様に頼んで、王立学園の推薦状を用意するわ。理由は書いた本が優れていたから、というのでどうかしら?本人もまだこの魔導書の価値には気が付いていないようだし、普通の学術書として表向きは扱いましょう」
「そうでございますね…。形としては、問題ないかと思います。ヘルマーは今までに魔導書の前身と思われる本もカナタ=デイブレイク氏から買い取っているそうです。いずれも優れた魔法教本だったとのことでした。ある程度の金銭を与えておけば、デイブレイク子爵も文句は言わないでしょう」
「厄介払いできて金銭も入る、と考えるでしょうね。まったく、哀れなものだわ」
叔父様とは、国王である私の父の弟君にあたる方だ。現在は王立学園にて理事長の席に座り、学園に関することでは絶対的な権力をお持ちになっている。私もかなり良くしてもらっていて、よく知っている。
「わかったわ。ならそれでいきましょう。私は叔父様のところに行くからグラーフは準備なさい。ヘルマーにはデルカンデラへ向かう準備をさせなさい。叔父様からの推薦状が手に入り次第、向かってもらうわ。なんとしても、この子を王都に連れてきなさい」
こうして、カナタ=デイブレイク本人の知らないところで事態は動き始めた。カナタが王都に来るのはこれから半年後、花咲く春のことである。