沈黙の月曜日
僕たちの同好会室へ行く50メートル弱の廊下は、自分の状態を考えると異常なまでに遠かった。
なんで、僕がこんな目に合わなければならないのか。長袖のカッターに滲んだ血を押さえながら自答する。きっと、俺がこの知多東工業高校のヒエラルキーの一番下だからなんだろう。
別に、勉強ができなかったり、運動神経の抜かれたでぐだったりするわけじゃない。ただ単にヒエラルキーの一番下、“ナード“ってだけなんだ。
ナードの役割ってのは簡単で、大多数の代わりに、一部のフラストレーションの肥溜になるだけだ。でも、別に僕じゃなくたっていいはずだ。別科のデブだったり、隣のクラスのチビだったりしてもいいはずだろ?
昼休みの校舎には、ラジオDJかぶれの放送部の奴らが、斉藤和義なんか流しちゃっている。青春を回想したような歌詞は、廊下の天井に十数メートルごとに設置されたスピーカーを振動させる。それが、秒速340メートルで僕の今一番ひどい口元の傷を震わせた。
あいつら、意味もなく殴られた僕が、ゴルゴダの丘を登るキリストみたいに廊下を歩いている間に、斉藤和義みたいな青春しやがって。
ーー今日も、4時限目の数学が終わった後、頭を伏せていた。宮田萌斗、潮理と目を合わせてはダメだ。ここ一週間は、彼らから消えることでやり過ごしていた。その前は、毎日嬲られていたんだから、僕にとってこの処世術は、イグノーベル賞ものだ。フロッピーディスクを発明した日本人博士だって、きっと思いつかない。
あいつらは、授業が終わると、食堂へ向かう。食堂にさえ行かなければ何もないんだ。頭を机に突っ伏しながらも、教室の出入り口を監視する。スライドドアのガラスにはまず、キャバ嬢候補生みたいな女子が写って、それから汚いジャイアンみたいなやつらが映し出されるのが確認できた。あいつら、今日も食堂行きやがった。ワンパターンなやつらめ。ライン工かよ。ドアのガラス窓から、あいつらの背中が消えるまで待って、硬い机から額を離した。
出て、食堂とは逆に向かえばもう大丈夫。悪性腫瘍と上手に付き合うみたいに振る舞っとけばあいつらにはやられない。今日で、無事故無違反5日目だ。
ほっと吐いた息になで下ろされた胸は、3分前以来久々に通常運行で収縮したり膨張したいしている。それを確認して、まっすぐ廊下の方向へ向かう。今日は、コンビニで適当に済ませておこう。
ドアに手をかけて適当に開ける。順番に宮田の半身、宮田の全身、潮の半身、潮の全身が見えた。自分の脳の危険信号を出す回路が短絡した。目の前に宮田と潮がいるという情報だけが、同じ回路を何周も回っていた。
「来栖、最近冷たいじゃないの。一緒に飯でもどうよ」宮田が、肩を組んでくる。
「い、いや。今日は軽く済ませようと思ってるんだよね」宮田の腕から抜けようとするも、宮田が僕の制服の肩口を掴んで、逃さない。こういう時に限って視界だけは良好で、教室内の女子グループがこっちを哀れみで見ているのがわかった。手前の冴えない男子グループに目を落とすと、そのうち一人と一瞬だけ目が合って、すぐに視線は切れた。そいつは関わりたくないとばかりに、視線をハンバーグ弁当に落とした。
放送部は、空気の読めないリクエストに応じて、ミスチルの隔たりなんかを流している。宮田たちと自分の間に鉄骨壁でもあればいいのにと思っていたが、こいつらは、0.05ミリの隔たりさえも許してくれないようだ。
勿論、食堂なんかには連れて行ってもらえず、引きずられるようにして辿り着いたのは、部室棟の裏だった。食わしてくれるものなんて無いんだろう。喰らわされるものを想定して、最悪の痛みを創造した。部室棟の裏には、二人と連んでいる加藤史郎、佐々木久雄、それに宮田の彼女の高橋智海がいるのがわかった。
「なんかこっち見られたんだけど」高橋がみざるを得ない場所にいながらそう言う。
「みてんじゃねえぞ」そう言って宮田が、僕に首投げをかます。僕は地面に落ちて、肺の空気が一気に外に飛び出た。呼吸が困難な僕の襟元を宮田が掴んで、砂地に押し付けた。
「この、ヲタクが」加藤と佐々木が、動けない僕を蹴る。こいつらは、何かと理由をつけて、暴力を振るってくる。まだ、理由もなくのび太を殴るジャイアンの方がマシな気がした。
「おい、さっき智海見たんだから、金出せよ。返事しろよ」宮田が更に襟元を強く握り直して言う。空っぽの肺からは、酒で焼けた親父のような声すら出ずに、僕は黙っているしか選択肢はなかった。
「聞いてんのかよ」佐々木が蹴ってくる。それを見てか、高橋は、爆笑しているようだ。
「もういいじゃん。さっさと終わらそうぜ。」潮が宮田に言った。僕は、潮に立たされて、宮田に制服のポケットを弄られる。
「や、やめろよ」やっと酸素を摂取できた肺を使って、抵抗する。宮田は、僕の財布を取り出すと、うるさいと顎目掛けて、拳を飛ばした。脳は揺れて、頭蓋骨の壁面に何度もぶつかって、意識を明後日に飛ばした。ーー
今、揺れてスクランブルエッグになりかけた、脳に気を使いながら、廊下を歩いている。意識のあった前のことは、悪夢だったんじゃ無いかと、ポケットを確認するとみごとに財布がないことを再確認させられた。
せめて、陽に当たりたい。鬱病患者は陽に当たらないことで更に容態を悪化させていると思う。陽がある程で、空を見上げる。視界に見えたのは振動するスピーカーと、昔の不良に作られた、タバコのシミのできた天井だった。