未踏の地デスペル
数時間前の大嵐が嘘の様に、風が草木を弦の様に軽く弾き、濁った海水の規則的な波の音が子守唄の様に奏でられていた。
「生きてるのかよ」
他人事の様に呟いた彼の独り言は、やけにこの地では浮いた様に響き、波の音が唄を邪魔をするなと言わんばかりに、一層その音を穏やかに、大きく奏でる。
――慣れない事を、するんじゃなかった。
イントス・エフォートの頭に、後悔の念がゆっくりと染みる。数時間前までは、雲一つない快晴の西の海で三色殻を探していたのだ。
砂浜にあるはずの目的の物を夢中で探すイントスに、避難する暇を与えない程急に訪れた湿気った風の渦は、頼んでもいない滝の様な雨と雷を引き連れ、理不尽な程大きな波を立てる厄介者であった。災害に巻き込まれる中で彼は本能で死を覚悟した。
しかし、現実は海岸に打ち上げられて、着ていた衣類は海水を吸い、彼の装備していた関節を保護する防具は紛失こそはしたが、生きている。命を拾ったと歓喜すべきか、自身の不運を恨むか、どちらにせよ彼は途方に暮れていた。
「なんだ、おまえ。どっからきやがった?」
イントスの頭上には人種とは明らかに構造が異なる、両の手に生えた羽毛で風を掴み、その大柄な身を宙に保つ鳥人の「魔族」がいた。
「人種かよ、めんどくせえもん見付けちまったな」
目の前の異質な強者に感じる畏怖の縄に、本能を縛られたイントスが言葉を探し当てるよりも早く、鳥人が呟きそれに波の子守唄が音で応える。魔族からみれば貧弱な人種であるイントスは、鳥人の羽が生えた気味の悪い腕で撫でる様に頬を打たれた記憶を最後に、強い衝撃と共に意識を手放した。
「――お主が人種を連れてくるとは珍しいな、プトル」
「腹が減ってなかったんだよ、めんどくせえ。まあ、ここに連れてくりゃ誰も文句言わねえんだろ? 後は頼んだぜ、村長さんよ」
イントスが次に意識の光を感じたのは、遠くから曖昧に聞こえる会話と、自身の首に感じた違和感を不快に感じたからだ。
――首輪?
自身の首に付けられた堅牢な石の首輪と、周囲に満ちた酸い臭気に、己が置かれた状況を理解するのに苦労しているイントスの後方で、一つの影が動いた。
「新入りか」
動く影が、人間であることをイントスが認めるよりも早く、濃厚な臭気が鼻腔に触れたが、「新入り」と呼ばれた彼は言葉を探す。
「ここは、どこだ?」
「お前も魔族に捕まったんだろ? ここは育人村だ。俺等は喰われる為にここにいる。まあ、地獄みたいなもんだな。魔族に従う道しか残ってねえ」
初対面の会話としては一方的過ぎるイントスの質問にも、先住者であろう不衛生な髭と、長い灰色の髪を肩口で遊ばせた彼は意に介さず答える。
「地獄? 従う? 何を言ってるんだ。こんなの西羽や左羽が黙ってないだろうが!」
イントスの頭には、理不尽な現実を受け入れる器が用意されてはいない。次々と注がれる理不尽な現実の実は、彼の小さな器から零れ落ちていった。
「落ち着けよ。そうなるわな。あぁ、変な気だけは起こすなよ。この首輪のせいで魔力も使えねえし、魔族ってのは化け物揃いだ。仮に魔力が使えたとしても、遊ばれながら殺されるのがオチだぜ」
先程から感じる自身にかかる体の重みが、魔力を絶たれている為だという事に合点がいくが、それでもイントスの頭の理解は追い付いていない。
――何故、俺がこんな目に。人助けをする所か、魔族の餌になるのか? 何の冗談だ。
「どっちが先に喰われるか分かんねえけど、仲良くやろうや。ここは人間が大半だが、獣人や小人、巨人も生活してる。気難しい奴等が多いから、何かあったら俺に聞け。カワーズだ」
脳内で飛び交う怒りの火花を抑え、差し出された黒く薄汚れた手に、慣れない動作と握手の答えでイントスは返した。カワーズの敵意が無いであろう主張が、イントスの頭を沈静させる。
「イントスだ。とりあえずは、礼を言う。悪い、混乱してた」
「無理もない、みんな初めはそうだ。まあ座れよ、地面だがな」
「――って事は外部の助けは諦めた方がいいのか?」
辺りには申し訳程度に目線を遮る役目を担う、石を重ねただけの仕切りがあり、辛うじて人が生活をしている気配を「新入り」のイントスに感じさせる。
「あぁ、外部から助けがくるって事は魔族と人種との睨み合いを無視して、この【デスペル】に攻め込む事になる。魔族にやりたい放題やられても防戦一方の人種の主団体が、そんな馬鹿な事する訳ねえ」
「確かにそうだが、ではこのまま喰われるのを待つのか?」
「そうだ。今まで何人も逃亡や反乱を試みた奴等はいたぜ。そうゆう奴等は一人残らず捕まり、俺等の前で必ず見せしめとして食事会が開かれる。人種の中でも人間の脳味噌は、格段にうまいと目の前で頭をほじり、皮膚だけを剥ぎ取られて目の前で炙りながら、同胞が喰われるのを見た。人ってのはそう簡単には、死なないもんなんだとその時知ったよ。頭をほじられても、皮膚を剥ぎ取られても、心臓は中々動きを辞めない。体は生きる為に活動する様に作られてるからな。まだまだあるが、聞くか」
「もういい、辞めてくれ」
「大人しくしてりゃあな、訳のわからん草を食わされて意識が飛んだ状態で喰われる。それに、喰われるのを待つだけだと言ったが、正確には強けりゃ死期は伸びる」
「強ければ?」
カワーズの瞳が鋭くイントスを捉えたが、強さへの憧れを持つイントスは臆する事なく視線に応じた。
「なんだ、腕に覚えがあるのか? 贄戦ってのがあってな、村人同士が殺し合うんだ。魔族は、強い人種を喰らうのを好む。この村で強い者は、食料じゃなく強者の血筋を繁殖する役目を担うんだ。簡単に言えば贄戦に勝ちゃあ、待遇が良くなるのさ」
「弱い奴はただの家畜って事か」
自身の無力さを普段は認めないイントスだが、今回ばかりは背筋に嫌な汗が吹き出るのを感じた。西羽の入団適正をパスできない自分が、人種同士で命のやり取りをする事が酷く他人事にさえ思える。
「いや、待て。この首輪はどうなる? これを付けている状態で魔力は使用できないだろ?」
魔力に難はあるが体術に自信があったイントスは、魔力無しでの戦いならばと、一縷の望みに縋ったがカワーズは笑う。
「安心しろよ。それじゃ力の弱い俺等人間や、小人に勝ち目ねえだろ。贄戦に選ばれた奴は、戦闘中この首輪を一時的に外されるし、能力も使えるぜ。武器は無いがな」
イントスとカワーズの考えには齟齬があったが、この場で弱さを露見する事が得策では無いことをイントスは悟る。
「そうか、なら能力次第で希望はあるかもしれないな」
「贄戦に選ばれねえのが、一番さ。体は拭く事しかできねえし、日々の労働もきついが飯はちゃんと食える。女もいるから、気が合えば抱くこともできる。ただ、俺等は魔族の家畜ってだけだ。割り切った奴の勝ちさ」
腑に落ちないイントスではあったが、先住者達や魔族が整えた制度の流れには逆らえず、その日から新入りとして村で過ごしてゆく。
新入りであるイントスは様々な仕事をした。村の付近で採取した素材と、同じく村で作成した穀物酒を魔族が住む街まで届ける運搬業や、村人が自生する為の畑仕事、人手が足りなければ調理にも携わり、家等を作成する事が禁じられている事を除き、一見すれば人種が住む村と大差無い日々を過ごしていく。しかし、イントスは徐々に恐怖を感じていた。昨晩までは確実にいた村人が、年齢が上の層から朝になると数人消えている事に、すなわち、使えない奴等から喰われる、この制度に──
「――それじゃあ、この村で力を持つ連中は血縁だらけなのか?」
「そうだ。力を持つ村長の血を継ぐ子は、強い力を持つことが多いからな。だが、村長の子だろうがなんだろうが、魔族の位が上の方にいる奴等の飯や祭典の時は、強い魔力を持つ奴等から選ばれるから、喰われる危険があるのは一緒だぜ」
「そうか」
「繁殖する役目を担うまで上に行こうと思ったら、贄戦を何度も勝ち続けなきゃならねえ。こういっちゃなんだが、お前の能力じゃ上にはいけねえよ。使い道のねえやつから喰われるんだぞ、何か知恵を絞らねえと」
「そうは言っても、贄戦で勝つしかないだろう。労働環境はもう整っているんだ」
「まあ、お前が言う能力が本当なら、対人戦でのチャンスもあるかもしれねえな」
「嘘をついて、何の得になるんだよ」
「確かに、損しかねえわな。まあ、感謝してるぜ。信用してくれてるってことなんだろ」
かたかたと笑うカワーズに、イントスは目立った反応こそ見せはしなかったが、カワーズにはそれが彼なりの肯定だと短い付き合いで理解していた。
彼等が親交を深めるきっかけになったのは、カワーズに対してイントスが己の欠陥的な発現能力を吐露した時からであり、その後は二人でいる事が多くなり贄戦の気配がぴりぴりと肌を刺す現在も続いている。
村の立場が低い人種から生け贄として差し出される村人達は、日々懸命に生きていた。生に執着を持った覚えがないイントスだが、不運な人生と魔族に対する怒りを感じながらも、なんとか折れる事や夜に喰われる事なく、生きていく。
精神面で強くあれたのは死が身近に迫る状況下での、信頼の置ける「友」の存在が大きい事が関係しているのだろう。
「明日は贄戦だ。人選はいつも通り当日発表する」
ある日の夜に村人を数百人を並ばせ、石段の上に立つ村長の声はいやに響き、イントスにとって初めての贄戦を告げる。震えた村人に混じって直立するイントスは、恐怖に紛れてはいるが確かな欲望を認めていた。
――生き残りたい。俺はまだ何もやりたいことを、やれていないじゃないか。女を抱いた事もなければ、今までの人生、何かを成し遂げた事もない。命を賭けなければいけないこの状況でなら、俺は必ず才能を発揮できる。だが、それでもやはり怖い。己の命を奪われる覚悟もしていないのに、人の命を奪う事が俺にできるのか。
――贄戦は例外を除き、新入りに対してはほぼ参戦が決まる。
カワーズから得た情報が頭の中を過り、嫌な汗が背筋を伝う。その日、イントスが深く眠る事はなかった。
「イントス、前へ出ろ」
翌日、村中の多種多様な人種が大きな円を作った中央で、村長の口から自身の名を聞き間違えようのない程の声量で伝えられた。どこかで自分の名を呼ばれないと楽観視していたのか、イントスの顔は血の気を無くす。
「お前には初戦をやってもらう。カワーズ、お前も前へ出ろ。二人とも首輪を外す」
「は?」
思わず声が漏れたイントスであったが、それもそのはず。この村で唯一の友の名を挙げられたのだ。
何故? イントスの脳内での問いに答える者は、誰一人としていない。彼の理解が追い付くよりも早く、村長が両者の首輪を外す鈍い音が響く。
「よお、イントス。こりゃあ、夢だったら相当な悪夢だな」
――何かの間違いだろう? 何故、何百といる村人から俺達二人が選ばれなければならないんだ。
「片方が死ぬまでやり合え。殺せなければ、食料として両者を献上する。では、始めろ」
意義を申し立てる間もなく、村長の抑揚の無い一声で命を賭けた戦いが始まった。