慈母
最初に神があり、神の名前があった。
神は世界を造り、そして血を流した。血は魔となり、魔は悪にも善にも染まった。
悪に染まった魔は無数の怪物となった。
善に染まった魔は人になった。
無色の魔は世界に広がり、あらゆる命を作っていった。
神は魔を通してあらゆる命を見張り、やがて審判の日に裁きを下す。
神の掟に従う者を掬い上げ、逆らうものに罰を与える。
その神の名はアニマである。
当然ながら、その神話をジュガンは知っていた。
神話というか、常識以前の話ではある。字の読み書きができない子どもですら知っている、この世界の根本の物語。
だからこそ、魔力を持たないものは、命がないにも関わらず動く、虚無の使いであり忌むべきものだ。
そのことくらいは分かっている。
だが、だからといって実際に魔力を持たない少年を目にした時に恐怖し忌避するかというと別の話だ。
ジュガンは決してそんなことはしない。何故ならジュガンはその神話に、物語に何の思い入れも持っていないからだ。
いや、ジュガンはこの世のありとあらゆることに対して思い入れを持とうとはしない。
ただ、金を持ちたい、楽をしたい、偉ぶりたいという俗欲のままに行動するだけだ。
そして、そのために使えるのならば、神話も使う。
ただ、それだけのことだ。
一方のライドンは違う。いや、ライドンこそが一般的な反応なのだ。
聖剣の遣い手として現れた魔力を持たない少年を恐れ、敵視している。そして、今、その少年と自分の愛娘が一緒にいることに狼狽し、不安に襲われている。
「何とか、何とかならないのか、ジュガン」
縋るようにこちらを見てくる中年の男に、ジュガンは隠すことなく侮蔑の目をする。
どうせ、その侮蔑を見抜く程度の才覚も持たない男だ。
「さて、ライネ様はあれで聡明なお方ですから。ライネ様がよしとしているなら、様子を見るのも手だと思いますが」
ジュガンの言うことに基本的には嘘はない。
ライネは切れ者だ。
いや、その言い方では生易しい。ジュガンの意識では、ライネは眠った獅子だ。彼女が起きれば、この国を纏め上げ、この戦乱の世を渡ることができるだろう。そう思っている。
だからこそ、ジュガンはライネが邪魔だった。
ライネは、ジュガンがサイの国の癌であることを正しく理解している人物だった。
そのことを理解しているのは、サイの国で二人。
つまりライネと、ジュガン自身だ。
「あの娘が賢いことは知っておる」
激情にたるんだ頬を震わせながら、ライドンは言う。
「だが、あの娘は同時に天使のように優しい。その優しさにつけこまれないかが心配なんだ」
確かに優しいだろう。とてつもなく。
ジュガンは冷笑を浮かべて心中で罵倒する。
優しくなければ、とっくの昔にお前を殺しているだろうさ。俺がこの国の癌なら、お前はその癌の培養液だ。俺のような男を重宝する、自分の頭では何も物事を考えない、ただの傀儡だ。
「ご心配なく。ライネ様には何もないように気を配っておきます。それに、すぐに奴は馬脚を現しますよ」
言葉だけは丁寧に、目をぎらつかせてジュガンは言う。
そうだ、そうでなくては困る。
ライネだけではない。あの聖剣の遣い手も、邪魔なのだ。
ライネの提案が入れられ、朽木刃がライネの護衛をするようになってから四日が経った。
その四日間の間、朽木刃はライネに頼んでいくつかの本を手に入れた。文字が読めるかどうかは不安だったが、聖剣の加護は会話だけでなく読み書きにまで及んでいるらしく、何の差しさわりも無く理解することができた。
本は歴史書や動物、植物図鑑の類が数冊だ。それも、そんなに詳しいものを求めたわけではない。子ども向けのものを特に選んでもらった。
いきなり詳しいものを読んでも知識として身につかないし、そもそもそんなに必要ではない。朽木刃に今必要なのは、この異世界の大まかな輪郭のようなものだ。
そうして、それはようやく掴みつつあった。
アニマ神のことも知り、魔力のない自分がこの世界でどのように思われるのかも何となくだが実感できつつあった。
四日間の読書について、朽木刃は概ね満足だった。
逆に失望したのは、レフティアについてだ。
神聖武器という単語、この世界について彼女が知っている知識、前に呼ばれた遣い手について。
知りたいことはいくつもあった。
だが、それについての答えは、
「分からん」
だった。
「分からんって、どういうことだ?」
朽木刃はもちろん、隣にいたライネも興味があって身を寄せての質問の答えがそれだったので、朽木刃は顔をしかめて聞き返す。
「主様には悪いが、妾は覚えてないぞ。なにせ、随分長い間眠っておったからのお。もしくは、あのライドンという王の妾の起こし方が無茶だったからかもしれん。とにかく、今の妾は記憶があやふやなのじゃ。何となく、自分の在り方や機能については分かるが、他は分からん」
と、記憶喪失な割には暢気かつ尊大なレフティアにライネも朽木刃も呆れ返ったものだった。
そして、今、朽木刃は馬車に揺られていた。
腰には、特別にあつらえてもらった竜革の鞘があり、そこに聖剣が納まっている。
細身の両刃の剣である聖剣は、風魔一刀流が主に扱う日本刀とはかなり造りが異なる。
だが、朽木刃はそこまで深刻には捉えていなかった。武器があろうとなかろうと、得物が何であろうと、それに対応して敵を倒し身を守り、つまり状況を有利にすることこそ全ての武術の真髄だ。それが朽木刃の武術に対する理解だった。
「もうじき着きます」
同じ馬車に、朽木刃に向かい合わせで座っているライネが呟く。目は遠くを見ており、既に意識は馬車が着いた後の行動に向けられているようだ。
「下々の暮らしの視察に、相談に乗ってゴブリン退治か。一国の姫がここまでするとはのお」
朽木刃の隣に座っているレフティアが感心半分、呆れ半分といった顔をする。
「私には名前と力がある。王の手が届かないところに私が手を伸ばしてこそ、名前も力も意味がある。そう思いませんか?」
慈愛の笑みを浮かべるライネに、朽木刃は黙って鞘に納まっている聖剣を見たまま、
「立派なことだ。尊敬するよ、本当に」
乾いた声だが、その言葉に嘘はない。
朽木刃はライネのことをこの四日間で尊敬するに至った。
ライネは弱いもの、貧しいものに手を差し伸べ続けていた。民の目線で物事を見て国の理不尽を探し、見つけたらそれを攻撃した。時には父を利用し、名前を使い、強硬手段に訴えていた。
わずか四日間の間にも、ライネは朽木刃が驚くほど精力的に動き回り、罪なく虐げられている人々を助けて回っていた。
そして、今、親衛隊を引き連れ、小さな村の近くに住み着いたゴブリン退治まで引き受けている。
貴族はいざ知らず、平民達は誰もがライネを尊敬し、崇めているようだった。
「ただ、ライネ」
ふい、とようやく朽木刃は顔を上げてライネに目を合わせる。
「お前が」
そこで言葉を切り、ライネの目を観察するかのようにじっと見た後、目を聖剣に戻し、
「いや、何でもない」
その朽木刃の様子に、レフティアはきょとんとした顔をして、
「なんじゃ?」
と首を傾げる。
そして、ライネは黙って、聖剣に目をやっている朽木刃をじっと見ている。
初の実戦だ。
そう思えば、明らかに自分が高揚していることを朽木刃は認めた。
この四日間、これまでライネに付いていて戦闘はなかった。それが、ついに始まる。
馬車が着いたのは、木の生い茂る森の入り口だ。ここからは徒歩で森に入っていかなければならないらしい。
「住み着いたのはゴブリンが数匹、あなた達が勝てない道理がありません」
戦闘準備を整えつつある親衛隊に向かって、ライネが言う。
「けれど、今回は動かないで」
親衛隊の面々の動きがぴたりと止まり、どういうことかと問う視線がライネに集まる。
「遣い手様」
「ん、ああ」
さっそく聖剣を握り、鞘から抜き放っている朽木刃は声をかけられて、少し遅れてから反応する。
「私は父に約束しました。あなたの力を見極めると。ここは、遣い手様お一人に任せてよろしいですか?」
「ああ」
願っても無い、と付け足したいくらいだった。
朽木刃にとって、ようやく初めての実戦。一人で、じっくりと味わいたかった。それに、親衛隊と一緒に戦えるとは思えなかった。この四日間、親衛隊は完全な危険人物として朽木刃を警戒していた。少しでもおかしな素振りをすれば斬りかかるつもりなのが見てとれていた。
「大丈夫ですか? ゴブリンは下級ですが魔術を使います」
「知っている」
動物図鑑で得た知識だった。
魔術についても、原理や正体については全く理解していないが、しかしそれがどんなものかというイメージくらいは四日間で掴んでいた。
正直なところ、魔術を使う相手と戦えることに朽木刃は高揚していた。初めての経験だ。
「レフティア」
「何じゃ?」
「戻っておいてくれ」
「うむ」
文句を言うこともなく、傍らに立っていたレフティアが消える。
聖剣に戻ったのだろう。
突然少女が消えたことに親衛隊の何人かは驚きをあらわにするが、いちいち説明するのも面倒なので朽木刃は黙って剣を手に持ち、森に踏み入る。
背中に親衛隊、そしてライネの視線を感じながら、朽木刃は森の中を進んでいった。