エピローグ
ほとんど何の混乱も起きず、スムーズに話は進んだ。
民衆は全員ライドンの退位を喜んだし、実質的にライネがこれから国を動かすことには熱狂的な歓迎をした。
貴族連中のほとんどは抱き込んでいたし、逆にライドンにべったりだった派閥は徹底的に排除する姿勢を明確にしてやった。
こうして、三日のうちに、サイはライネの国となった。
問題は山積している。
だがそれについての覚悟は既に、この座につく前からライネが覚悟していたものだし、策も練っていた。
問題は、誤算があったことだ。
「入りますよ」
物思いにふけっていたライネは、その声ではっと我に返る。
「どうぞ」
執務室に入ってくるのは、片目に黒い布の眼帯を巻いたジュガンだった。
「流石ですね、もう、この城も何年も前からあなたが主だったかのようだ」
大げさに手を広げてライネを讃えるジュガンの目に怒りはない。欲のために敵対して、欲のために協力する。ジュガンにとってはそれだけのことだ。今、ライネとうまくやることは自分の欲を満たすために必要なことだった。
「目の方は大丈夫ですか」
「ああ、これね。半月もすれば眼帯も取れますよ。別に問題ありません。今、敵が攻め込んできても片目で撃退してやります」
ジュガンは笑ってから、
「それで、俺の待遇についてですが」
と目を細める。
「その話ですか」
ため息と共に、ライネは手に持っていた書類の束を机に置いて立ち上がった。
「私は、あなたの力を評価しています。それにあなたにこの国を去られてはお終いです。ですから、あなたがこの国にいてくださるなら、出来る限りのことはさせていただこうと思っています」
ただし、と気品に満ちたライネの目が鋭くなる。
「私はこの国を滅ぼすつもりはありません。この国をゆっくりと滅ぼすような要求をあなたがしてきても、それに答えることはできませんから、そのつもりで」
「お父様とは違うというわけだ。了解しました。結構です」
特に気に留めることもなく、ジュガンは頷いてから、
「で、あっちの方はどうします? 国宝を奪って逃げた大悪人は」
と牙を剥くように笑ってみせる。
ライネの動きが止まる。
「俺としては、別にどうでもいいんですがね、けど、国宝を奪われたままというのはまずいでしょう」
「構いません。放っておきます」
かすれた声でライネが答えた。
「今のサイには彼を追うために力を割く余裕などありませんし、下手をすれば国宝を奪われるような危機管理能力のない国だと他国に思われかねません。マイナスです」
「そうですか、そう仰るならいいですが」
肩をすくめて、ジュガンは背を向ける。
「ただ、あの男にしてみれば、裏切り者は許さないんじゃないですか?」
声に皮肉を込めてそう言いながら、ジュガンは執務室を出て行った。
やがて、ジュガンがいなくなってから、ライネはゆっくりと椅子に座った。
そう、ライネにとっての誤算は、死ぬはずだった聖剣の遣い手がジュガンを打ち倒し、そして今も行方不明であるということだ。
最初にジュガンが倒されているという報告を受け取った時は、夢かと疑ったものだった。
だが、現実だった。
聖剣の遣い手はあのジュガンに勝ったのだ。
あの聖剣の遣い手は、最初からライネの言葉を信用していなかった。それはライネにも分かっていた。信用していないにしても、唯一の庇護者であるライネと一緒にいざるを得なかった。
だから、それを利用して、彼を囮にすることにした。
この国の未来のために、生贄にした。
ライネの覚悟で、意思で。
それなのに。
「勝って生き延びるとは」
呟いたライネの目が虚ろに彷徨う。
ジュガンの言うことはもっともで、朽木刃が自分を生贄にしようとしたライネに憎しみや怒りを抱き、復讐しようとすることはライネにとっても自然に思えた。
いや、そうでなくてはならないとすら思っていた。悪には、裁きがあるべきなのだ。
そう、悪だ。
為政者は、多数のために少数にとっての悪にならなければならない。
これから先、民や兵を斬り捨てなければならないことなど腐るほどあるのだろう。だから、こんなことで動揺してはいけない。
どちらにしろ、ライネに朽木刃を追うつもりはなかった。
聖剣はサイにとっては無用の長物であるし、ジュガンを倒した男を捕えるのにどのくらいの戦力を割けばいいのか想像もつかない。
「そう、放っておけばいい」
自分に言い聞かせる。
それで、もしも復讐するために自分の前に舞い戻ってくることがあれば、その時にきっちりと殺せばいいのだ。
ライネはそう結論付けた。
だが、どうして、自分の中にある感情を無視できず、困惑したライネはまた立ち上がって姿見の前に立った。
鏡の中には、気品に満ちた少女がいた。これまでの、深窓の令嬢といった儚げな雰囲気は消え失せ、代わりに威厳が備わりつつあった。
自分は、復讐のために朽木刃が再び目の前に現れることを望んでいる。
ライネはそう認めた。
そして、殺されたがっている。
自らが生贄にしようとした彼に殺されることで、自らの禊としようと、真っ当な人間として死ぬことを望んでいる。
だがそれは逃げだ。それもライネには分かっていた。
為政者として、真っ当な人間であることは許されない。これから自分はただの人間ではなく、王になるのだと、その覚悟はとうにしていたはずだった。
「それでも」
ライネは自分の胸に手を当てる。
「痛むものは痛むか」
胸の奥が、激しく痛んでいた。
それは良心を捨てた痛みであり、ただの少女が死んだ痛みだった。
そして、産みの痛みでもあった。
こうして、後に「サイの国の獅子」として恐れられる名君は誕生した。




