プロローグ
「朽木君、気分悪いの?」
突然、普段そこまで喋ったことのない隣の席の女子生徒に喋りかけられた朽木刃は驚き戸惑いつつも、
「え、別に。どうして?」
と曖昧に微笑みながら質問で返す。
「あ、顔しかめてるみたいだったから、ごめん、変なこと言って」
恐縮する女子生徒に、朽木はにこりと再び微笑む。別に気にしないで、という意味を込めた微笑みで、それで安心した女子生徒は再び授業に集中するべく前を向く。
不覚だ。
朽木刃は舌打ちをしたくなる衝動を必死でこらえる。
授業中で、誰も自分の顔など見ていないと気が緩み、表情を隠すことすらできていないとは。
同時に、今日の放課後に待ち受ける出来事が、自分の表情をそれほど険しくするものかと再認識して、両肩が重くなるような思いがする。
朽木刃は高校二年生。体格は中肉中背だが、見る人間が見れば無駄なく筋肉が全身をまとっていることに気づくだろう。目が隠れるかどうかくらいの長さまで硬く太い黒髪が無造作に伸びていて、目が隠れがちなところがどこか陰気な印象を与える。それ以外の目鼻立ちは平凡ながら整っており、「髪型で損をしてる」「もったいない」という声が実はごく一部の女子生徒からは出ている。無論、本人は知らない。
成績は中の中の上、といったところ。運動はそこまで得意ではない。身体能力や反射神経は十人並みなのだが、どこか動きがおかしいのだ。「センスがないとしか言いようがない」とは、体育の時間の朽木刃のバスケットをする動きを見たバスケ部員のクラスメイトの評だ。
部活は郷土研究会に入っている。が、活動をしたことがない。幽霊部員、というよりも郷土研究会自体が実質的な帰宅部なのだ。この学校では全員がいずれかの部に入部しなければいけないため、こういう部も存在価値がある。
授業が終わり、放課後になる。
朽木刃はクラスに友人が数人いる。といっても休日に遊びに行ったりするような仲ではなく、休憩時間に喋ったり、あるいは一緒に帰ったりする程度の仲。当然、いつも一緒に行動するわけではない。
だからその日、挨拶をして一人で帰る朽木刃を見ても、誰も意外には思わなかったし、印象にも残らなかった。
彼は、元来から、平凡な、そして影の薄い生徒なのだ。
朽木刃は一人暮らしだ。母は幼い頃に亡くし、父とはある事情から離れて暮らしている。一人で狭いアパートに暮らしている。
だがまっすぐにアパートに帰ることをせず、学校を挟んで逆方向に彼は歩いていく。
着いた先にあるのは、一軒の大きな古民家だ。慣れた様子でその古民家に上がると、奥にある板張りの道場までするすると朽木刃は歩いていく。
「師範」
やがて道場で自分に背を向けて座禅を組んでいる目的の人物を見つけたので、声をかける。
「おお、来たか、刃」
振り返るのは、道着姿の偉丈夫だ。筋骨隆々とした姿の三十男の名は、三上太郎。
この道場の主であり、風魔一刀流の師範だ。
「まあ、座れや」
「はい」
素直に三上の前に座り、二人は向かい合う。
「お前、この道場に通いだして何年になる?」
あくまでも穏やかな顔と声で三上は切り出す。
「二年です」
「そうか、そんなものか」
感慨深げに三上は頷く。
父親の紹介で朽木刃がこの道場に入門したのは、中学の卒業を目前したある日のことだ。
高校からは一人暮らしをすることが決まっていた息子を、逞しくしようと思ったのが父親が紹介した動機で、古武術にそれなりに興味のあった朽木刃は特に逆らうこともなく、それに従った。
「二年とは思えない上達ぶりだ。才能がなければ、一生を捧げてもその境地に至れない人間もいるというのに」
三上の言葉は決して大げさではない。
朽木刃が、風魔一刀流における「崩し」に天賦の才があったのが始まりだった。
崩しとは、タイミングや緩急、呼吸をあえてずらし、歪める技法だ。いわば常に相手と呼吸を合わせないことによって、相手の隙を作り出す、あるいは不意を衝く技法であり、風魔一刀流の基本であり奥義だ。
それを、朽木刃は最初に習った時から自然と行えた。三上と数人の門弟は誰もが驚嘆した。
それまで、全ておいて平凡であり特に得意とするものを持たなかった朽木刃にとって、それが嬉しくて仕方がなかった。紹介した父親と師範が驚くほど急速に鍛錬にのめりこみ、そして二年。
今や、十年以上風魔一刀流に身を捧げている高弟をも超える実力を持つようになっていた。崩しが染み付いてしまって、学校で運動する際にも妙にタイミングのおかしい動きをしてしまって変な目で見られるほどだ。
「だが、問題はその技量をどう使うかだ、そうだろう?」
「はっ……」
頭を下げながら、周囲を伺う。誰もいない。気配もない。どうやら門弟は出払っているらしい。
今、この場には朽木刃と三上の二人きりだ。
「ヤクザの用心棒とはな。お前の父親がどうしてお前を一人にさせたのか、分からないわけでもないだろうに」
朽木刃の父親は極道だった。
海外の組織との抗争が悪化したために息子にまで危険が迫ることを避けて、また息子が自分の影響を受けることを恐れて、朽木刃を遠ざけたのだ。
「父は何も知りませんよ」
父の腹心であり、自分も幼少より世話になっている男に無理を言って用心棒の口を探してもらった。
「知らなければいい、というものでもなかろうに。その仕事を始めて、どのくらいだ?」
「半年です」
半年経って、ようやくこの話が三上の耳に入ったということだ。
「ふむ、殺したか?」
平然と穏やかにそんな質問をする三上もまた常人ではない。
「一人も。ただ、身動きできないくらいに打ち据えた後で引渡したりはしましたから、俺が撃退した刺客が全員今も生きているかどうかは知りません」
「どうして殺さなかった?」
「戦争中か、もしくは明らかな正当防衛じゃなければ殺しませんよ。俺にも倫理観くらいある」
「ほう、倫理観か」
初めて、虎のように三上が笑う。牙の如く犬歯が剥き出しになる。
「倫理観のあるお前がどうして、ヤクザの用心棒なんてするんだ? おまけに、卒業後は海外に行くことを計画しているそうじゃないか。英会話の勉強もしていると聞く。傭兵にでもなるつもりか?」
そこまで知られていることに朽木刃は心底驚く。
まったく、この師匠は得体が知れない。どうやってそこまで自分について調べたのか。そんな素振りなんて見せていなかったはずなのに。
「朽木。風魔一刀流の極意の一つには『無禅』がある。だが、それは何も善悪の区別をなくせというわけじゃあないぞ」
「承知しています。そして、同じように極意に『変幻剣』があることも」
「む」
痛いところを突かれたのか、三上の口が止まる。
風魔一刀流の極意とは「崩し」「無禅」「変幻剣」の三つ。
崩しとは上記のようにタイミングやスピードを変えることで敵の虚を突く技法だが、同時に「敵の裏をかき、虚を突き、崩して勝つ」ことを至上とする思想も意味する。
無禅とは、精神の絶対性の否定だ。精神的に高級なものが戦いに勝つというのを否定し、あくまで実によって勝負は決する、常に精神よりも実を取らねばならぬという思想。
そして、変幻剣とは、剣が自由自在に変化することを意味する。拘ることなく、有益なものがあれば己の技に取り入れ、また不必要ならば歴史のある技術も捨て去る。いや、剣であることを捨ててもいい。剣を持つことが何の意味もない世ならば拘らずに剣さえも捨てろ、これが変幻剣の思想である。
「今の世が風魔一刀流の意味がまるでないものだとは思いません。危険はどこにだってある。護身術程度の意味合いならあるでしょう。しかし、例えば表技に何の意味がありますか?」
風魔一刀流において表技とは、剣を用いた技である。
「今の世で護身術として使うなら、無手技で十分でしょう。表技が活躍する余地などほとんどない。例えば、無手技では敵わない相手と遭遇した時に、偶然にも側に鉄パイプでも転がっている状況でもあれば別ですが。そんな偶然をもって、風魔一刀流は今の世にも必要だと言えますか?」
「ならば、表技を捨てろと?」
「逆です。表技が必要な場に行けばいい。そして、そこで思う存分に技を使い、変えていけばいい。そうしてこそ、変幻剣に則ることになるでしょう」
いつしか、朽木刃の目は爛々と輝いていた。
「木刀で表技を使い、こちらを襲ってくる刺客を打ち倒したその時の感覚はこの全身に染み付いています。しかし、それを異常だと仰りますか? 師範も、自らが身に付けた技術を、必要とされる場で思い切り使いたいと思っているでしょう。そんなことは考えたこともない、とは言わせませんよ」
「夢想はするさ」
三上は苦く笑う。
「武術家であれば誰だって思う。が、それを実際に行う奴がいるとはな。やはり、将来は戦場に行く気か」
無言をもって答える朽木刃に、三上はため息を漏らして、
「強情な弟子だ。よかろう、好きにしろ」
「え?」
止められるか、破門を言い渡されるかと思っていた朽木刃は思いもよらなかった言葉に呆然とする。
その隙を見逃さず、胡座を組んでいた姿勢から一瞬で飛び上がった三上の両手が朽木刃の襟首を摑んだ。
やられた。
空中に担ぎ上げられた瞬間、朽木刃は歯噛みする。
見事に崩された。受身、いや、間に合わない。体が動かない。
そうして、三上によって床に後頭部から叩きつけられ、朽木刃の意識はとんだ。
どうしたものか。
道場に伸びた弟子の姿を見て、三上は悩む。
とてつもない弟子だ。完全に虚を突いたと思ったあの瞬間、朽木刃はすぐさま反撃をする用意があった。三上の指をとる、あるいは目に指を突き入れるといった方法で十分に投げを防げた。
三上はそれを肌で感じていた。
だがそれをしなかった。できなかった。その理由も三上は理解していた。朽木刃は、無意識のうちにそれをしなかったのだ。それをすれば、殺し合いになると分かっていたから。
朽木刃は風魔一刀流に心を奪われた魔人となってしまったが、それでも倫理はあった。いや、三上の知る限り、朽木刃はまともすぎるほどまともな人間だ。ただそのまともさを凌駕するほどの大きな、己の技を存分に使いたいという欲求に食い荒らされただけだ。
だから、自分の師と、殺し合いをするという展開に無意識のうちにセーブがかかったのだろう。
「叩き直せるものなら直したいが」
呟いて三上は夕日を見る。
時代の皮肉、生まれた国の皮肉というものをこれほどまでに感じたことはなかった。朽木刃の欲求を、理解できるがゆえになおさら。
「生まれた時と場所を間違えたか。戦乱の時代で戦って死ぬのが幸せな子を、どう扱うべきかな」
一応、倒しては見たものの、これで「未熟でした」と全てを考え直すような弟子でもない。
「誰か、戦の場に奴を連れて行ってくれないものか」
神床にある、鹿島大明神と香取大明神の掛け軸に目を移し、三上は呟く。
その願い、聞き入れた。
不意に、そんな声が聞こえた気がした。
「はて?」
何か不思議な気分になった三上は、眉を寄せてしばらく掛け軸を見ていたが、やがて意を決したように伸びているはずの弟子に目をやる。
既に、そこに朽木刃の姿はなかった。