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第2章 第3話「鏡月の塩」

鏡月の三週目、台所の朝は、薪のはぜる音から、始まった。


私は、五歳になっていた。


身体が、ようやく、台所の作業卓に、踏み台なしで、両肘を、乗せられるようになっていた。


母エリザベートは、保存庫から、市場で買い足した白菜風の野菜を、両腕で、抱えてきた。


葉の量は、私の身体を、ひとつ、隠せるほどあった。


「テオ。今日は、お母さんの、大事なお仕事の日よ。手伝ってくださる?」


「かあさま、おしお、おもいでしょ。ぼくが、もつ」


私は、自分の口でそう答えた。


母が笑った。


「あら、テオは、もう、お母さんの心配をする子になったのね」


母の指先は、すでに、わずかに赤かった。前夜の繕い物の針の跡が、今朝の冷えで、よりはっきりと浮かんでいた。


私は、その指先を覚えた。


母は、台所の保存庫の前から、瓶を、十個、運び出した。


瓶は、すべて、空だった。


陶器の素肌が、朝の光を、ぼんやりと、返した。


「シュー・サレ、今年も、たくさん、漬けるのよ。神月の頃には、これが、家の食卓を、救うの」


「シュー・サレ」


私は、その音を、自分の口で、繰り返した。


母は、葉野菜を、長椅子の高さの作業卓に、広げた。


葉は、まだ、結月明けの瑞々しさを、わずかに、残していた。緑が、青と白を、混ぜたような色で、層を、なしていた。


母は、私の前に、踏み台を、置いてくれた。


「テオ、ここに乗って、お母さんの隣に、立っていらっしゃい。お塩を、擦り込むのよ」


私は、踏み台に、上がった。


作業卓の上が、ようやく、私の肘の高さに、なった。


母が、塩壺を、開けた。


塩壺の中身は、満杯だった。沿岸の塩田から、月初に届いたばかりの、粗い結晶が、白く、層を、なしていた。


母は、塩を、右手で、すくった。


「テオ、見ていてね」


母の指が、葉の表に、塩を、振った。


それから、もう片方の手で、葉の上を、ゆっくりと、押した。


塩は、葉の上で、しゅるしゅる、と、音を、立てた。


葉の繊維の中から、水が、にじみ出てきた。


「ほら、葉さんが、お水を、出すでしょう。これが、シュー・サレの、最初の合図」


私は頷いた。


頷きながら、目の前の現象を観察していた。


葉の細胞壁が、塩の浸透圧で、水を外に押し出している。


二十八歳の私の、生物の教科書の知識が、囁いた。


五歳の私の口は、別のことを言った。


「かあさま、はっぱさん、なみだ?」


母が、また、笑った。


「あら、テオは、優しい子ね。葉さんの涙、と、言うのは、初めて、聞いたわ」


母は、私の手に、塩を、ひとつまみ、握らせてくれた。


「テオ、これを、葉に、振ってごらん。優しく。塩を、擦り込みすぎないように」


私は、自分の小さな手で、塩を振った。


塩の結晶は、私の指の間から、ぱらぱら、と葉の上にこぼれた。


それから、もう片方の手で、葉を押した。


葉から、水がにじんだ。


私の指先が、わずかに赤くなった。


塩の結晶の角が、子供の柔らかい皮膚を、ほんの少し引っ掻いていた。


母の指先と、同じ色だった。


私は、その色を見た。


そして、自分の中で、ある記憶が、霧の向こうから、こちらを覗いた。


前世の、母の指先。


塩を、白菜に、擦り込んでいた、母の指先。


冬の台所の、湯気の向こうで、私の母が、いつも、その作業を、していた。


私は、それを、知っていた。


知っていたが、二十八年間、その指先の色を、はっきりと、思い出したことが、なかった。


今、私の中で、その色が、霧の向こうから、こちらを、見ていた。


ただ、霧は、まだ、晴れなかった。


私は、目を、ぱちぱち、と、瞬いた。


霧は、消えた。


私の指先と、母の指先の、赤さだけが、目の前に、残った。


「テオ、上手にできているわよ」


母の声が、私を、現世に、戻した。


私は、頷いた。


頷きながら、もう一度、葉に、塩を、振った。


母と私は、二刻ほど、並んで、塩を、擦り込んだ。


母の腰は、途中で、何度か、伸びをした。妹クララは、居間で、人形と、遊んでいた。マリエンヌは、洗濯物を、中庭で、干していた。


私の指先は、もう、すっかり、赤くなっていた。


けれども、私は、手を、止めなかった。


止めなかったのは、母の指先が、まだ、止まっていなかったからだった。


私は、母の隣に、立っていたかった。


ただ、それだけの理由で、私は、塩を、葉に、擦り続けた。


夜、私は、自分の小さなベッドで、いつものように、眠った。


夢を、見なかった。


身体が、その日の作業で、すっかり、疲れていた。


朝、目を覚ますと、指先の赤みが、まだ、少し、残っていた。


私は、その赤みを、見て、満ち足りた、気持ちに、なった。


シュー・サレの瓶は、保存庫の北の棚に、十個、並んだ。


母は、毎日、瓶の蓋を、少しずつ、開けて、空気を、入れ替えた。


「テオ、葉さんが、お塩と、お話しているのよ。あと、十日もすれば、おいしい、シュー・サレになるわ」


私は、頷いた。


頷きながら、保存庫の薄暗がりの中の、十個の瓶を、見上げた。


瓶の中では、葉が、ゆっくりと、色を、変えていた。


緑が、わずかに、抜けて、白に、近づいていた。


私は、その変化を、毎日、覗き込んだ。


二十八歳の私の中の研究者は、それを、乳酸発酵の手前の、塩漬けの段階だと、解釈した。


五歳の私は、それを、葉さんの、お話の進み具合だと、感じた。


両方の解釈が、私の中で、矛盾せずに、並んだ。


仕込みの、四日目の、午後だった。


母が、買い物に出ていて、マリエンヌも、洗濯物を、取り込みに、中庭に、出ていた。


クララは、居間で、人形と、昼寝の境目を、彷徨っていた。


私は、台所の片隅に、一人だった。


私は、保存庫の戸を、そっと、開けた。


十個の瓶が、薄暗がりの中で、ぼんやりと、並んでいた。


私は、その中の一つの瓶の前に、立った。


蓋は、母が、毎日、ずらしていたため、わずかに、緩んでいた。


私は、踏み台に、乗った。


瓶の口に、顔を、近づけた。


塩と、葉と、水の、入り混じった匂いが、立ち上ってきた。


私は、その匂いを、深く吸い込んだ。


その瞬間。


私の中で、霧が晴れた。


前世の、台所の、冬の朝。


湯気の中で、母が、白菜の漬物を、皿に、盛っていた。


母の指先は、赤かった。


塩で、傷んでいた。


私は、その傷んだ指先から、皿を、受け取った。


皿の上には、白菜の薄漬けが、二切れ、乗っていた。


私は、その二切れのうち、一切れだけを、食べた。


残りの一切れを、皿に、残したまま、私は、研究室に、向かった。


母は、私の背中に、何か、言った。


私は、振り向かなかった。


それが、母と、私が、最後に、交わした、漬物だった。


──二年前の正月だった。


私の中で、二十八歳の私が、その言葉を、囁いた。


──最後に会ったのは、二年前の正月だった。


その囁きは、前世の最後の冬から、私が、すでに、知っていた事実だった。


知っていたが、その事実が、これほどまでに、鮮明に、戻ってきたのは、初めてだった。


母の指先の、ひび割れの、形。


皿の縁の、薄い欠け。


漬物の、塩の効き具合。


私が、半分残した、その意味。


それらが、すべて、霧の向こうから、こちら側に、こぼれてきた。


そして、その後ろから、もっと別のものが、雪崩のように戻ってきた。


二十八年間のすべての記憶が、書庫として、私の中に並び始めた。


並び方には、順番があった。


古い、感覚の記憶から、先に来た。指で握った砂の重さ、肌に触れた水の温度、口に含んだ食べ物の塩の濃さ。言葉になる前の記憶が、最初に戻ってきた。


そのあとに、出来事の記憶が、続いた。


幼稚園の、青い砂場の砂の感触。


小学校の、廊下の窓ガラスに、映った夕日の色。


中学校の、初恋の少女の、ノートの匂い。


高校の、化学の教科書の、ページの折り目。


大学の、夜の研究室の、攪拌子の回る音。


修士の、徹夜明けの、コンビニのおにぎりの温度。


博士の、五年目の、深夜の、低温恒温槽の、青白い表示。


書庫の、最後の棚に、最も新しい記憶が、来た。


直近の、もっとも重い記憶が、最後に並んだ。


爆発の、衝撃の、白い光。


肌の表面で、薬品が燃える感覚。


意識が暗転していく、その一瞬の底で、私が握りしめていた、母の漬物の、塩の効いた味。


死。


私は、台所の床に、座り込んでいた。


立っていられなかった。


身体が、震えていた。


涙が、頬を、伝っていた。


呼吸が、浅く、速くなっていた。


五歳の身体は、二十八歳の死を、もう一度、受け止めるには、小さすぎた。


私は、その小さな身体の中で、二十八年分のすべてを抱えていた。


膝の中に、頭を埋めた。


額の温度が、上がっていた。


ただ上がっているのではなかった。


額の中央が、内側から押されているような熱が、私の中に、ひとつの図形を描いていた。


私は、その図形を、目を瞑っていても感じた。


視界の上端に、ほんのり、明るさが滲んだ。


私は、それを、見ようとした。


見ようとして、見えるはずもなかった。


私は、自分の額を、自分の目で、見ることが、できなかった。


ただ、内側からの光だけが、私の中に、灯っていた。


台所の戸が、開く音が、した。


「テオ?」


母の声だった。


母が、買い物から、戻ってきていた。


母は、保存庫の戸が、開いているのを、見た。


それから、その手前の、床に、座り込んでいる私を、見つけた。


「テオ、どうしたの。気分が悪いの?」


母の声が、私の隣に、屈み込んできた。


母の手が、私の背中に、触れた。


その手が、止まった。


母の視線が、私の額の中央に、向けられた。


「テオ……」


母の声が、いつもの声ではなくなった。


「テオ、額が……」


私は、顔を、上げなかった。


上げられなかった。


涙が、まだ、私の頬から、零れていた。


「動かないで。少しだけ、じっとしていてね」


母の声は、低くなった。


低くなったが、震えていなかった。


二年前、私が、産まれた朝、母が、産婆と、神紋を、見たときと、同じ声だった。


母は、私を、自分の腕の中に、引き寄せた。


そして、自分の身体で、台所の戸の方を、覆った。


「テオ、大丈夫よ。お母さんが、ここにいる」


母の声が、私の耳に、近かった。


「呼吸を、ゆっくり、なさい。お母さんと、一緒に」


母の胸が、私の頬に、当たった。


私は、母の呼吸に、自分の呼吸を、合わせた。


ゆっくり。


ゆっくり。


私の身体の震えが、少しずつ、収まった。


額の温度も、ゆっくりと、引いていった。


視界の上端の、滲みも、消えた。


私が、母の腕の中で、ようやく、顔を、上げたとき、母の目は、私の額を、もう一度、確認した。


「もう、大丈夫よ」


母の声が、震えた。


それは、終わってから、ようやく、現れた、震えだった。


その夜、両親が、私を、書斎に、呼んだ。


クララは、すでに、眠っていた。


書斎の暖炉の前で、私は、父アンリの隣の、絨毯に、座らされた。


母は、私の反対側に、座った。


父は、しばらく、暖炉の火を、見ていた。


それから、ゆっくりと、口を、開いた。


「テオ。今日、お前の額に、二年前の朝と、同じ、印が、出たそうだ」


私は、頷いた。


頷いてから、自分の口で、こう、答えた。


「おでこ、あつかった」


「ああ、そうだ。お前の、額の、印は、お前の、特別な印だ」


父の声は、低かった。


「テオ、よく聞きなさい」


私は、父の灰青色の目を、見上げた。


「この印のことを、家の外で、話してはならない。お父さんと、お母さんと、兄さんと、お前の妹だけが、知っている、家族の、秘密だ」


私は、頷いた。


「とうさま」


「うん」


「ぼくの、おでこ、わるい、こと?」


父が、しばらく、沈黙した。


それから、母と、目を、合わせた。


母が、私の手を、握った。


「テオ、悪いことでは、ないのよ。お前は、特別な子供だ、と、お父さんと、お母さんは、知っているの」


母の声は、優しかった。


「でも、ね、テオ。特別なものは、時に、人を、驚かせるの。だから、家の外では、見せないようにするのよ。お母さんも、お父さんも、それを、お手伝いする」


私は、頷いた。


頷きながら、自分の中で、二十八歳の私が、その説明を、書き留めた。


これは、神紋の、秘匿運用の、原則だった。


家族の四人だけが、知っている。


家の外には、絶対に、見せない。


子供にも理解できる言葉で、両親が、はっきりと、教えてくれた。


そして、その教えの中に、私を、責める色は、一切、なかった。


ただ、守ろうとする、温度だけが、あった。


「テオ」


父が、もう一度、私を、呼んだ。


「お前の額に、何かが、来るときは、お前は、お父さんか、お母さんに、すぐに、教えなさい。お父さんたちが、お前と、一緒に、それを、受け止める」


私は、頷いた。


「お父さん、お母さん」


私は、自分の小さな口で、二人を、同時に、呼んだ。


「ありがとう」


それは、私が、五歳の身体で、初めて、両親に、心の奥から、贈った、感謝の言葉だった。


前世の私は、二十八年間、両親に、その言葉を、まともに、贈ったことが、なかった。


今、私は、それを、贈った。


母の頬に、涙が、伝った。


父の眼鏡の奥で、目が、わずかに、細められた。


書斎の暖炉の火が、ぱちん、と、鳴った。


それから、十日が、過ぎた。


シュー・サレの瓶は、ようやく、食卓に、上がる時期に、なった。


結月明けの、初冬の夕食の、その日。


母が、保存庫から、最初の瓶を、運んできた。


瓶の中で、白菜風の葉は、もう、透き通るような、淡い金色に、変わっていた。


「テオ、クララ。今年の、シュー・サレ、できあがり、よ」


母は、瓶の蓋を、開けて、食卓の中央に、置いた。


塩と、発酵手前の、微かな酸の匂いが、立ち上った。


クララが、二歳の身体を、椅子の上で、跳ねさせた。


「しゅーされ、しゅーされ。クララ、すきなの」


母は、笑った。


「クララ、お行儀よくね。テオ、お皿に、取ってあげて」


私は、頷いた。


私は、瓶から、葉を、二切れ、取って、自分の小皿に、移した。


それから、もう二切れを、クララの皿に、運んだ。


「クララ、はい」


クララが、自分の小さな手で、葉を、掴んだ。


そのまま、口に、運んだ。


「しょっぱい、おいしい」


クララが、目を、丸くした。


母が、目を、細めた。


父が、暖炉の方を、向きながら、口の端を、緩めた。


私は、自分の小皿の、葉を、一切れ、口に、運んだ。


塩が、舌の上で、はじけた。


それから、葉の、わずかな、甘みが、来た。


その瞬間。


私の中の、書庫の、ある一冊が、静かに、開いた。


二年前の正月。


研究室に、向かう、前。


母が、私のために、皿に、盛ってくれた、白菜の漬物。


塩の効き具合。


私が、半分残した、その一切れ。


その味が、今、私の口の中に、戻ってきた。


完全に、同じ、塩の味だった。


二つの世界が、私の口の中で、ひとつの塩を、共有していた。


私は、皿の上の、もう一切れの葉を、見た。


見て、それから、父アンリの方を、見た。


父は、自分の皿に、シュー・サレを、まだ、取り分けていなかった。


私は、皿から、葉を、もう一切れ、取り上げた。


立ち上がって、父の小皿の方へ、運んだ。


「とうさま、これ、どうぞ。シュー・サレ、おいしいよ」


父の手が、止まった。


父は、しばらく、私の差し出した葉を、見ていた。


それから、ゆっくりと、受け取った。


「ありがとう、テオ」


父の声は、低かった。


低かったが、その低さの中に、いつもより、深い、何かが、混ざっていた。


私は、それを、覚えた。


完全に、覚えた。


夕食の後、私は、母の腕の中で、いつもの子守唄を、聞きながら、眠りに、落ちた。


落ちる直前、私は、自分の中で、こう、確かめた。


──私はその夜、母の漬物の味が、二つの世界で、ひとつの塩を、共有していることを、確かに、知った。


その確かさは、私の、二度目の人生の、三つ目の、贈り物だった。


一つ目は、父の、ただいま。


二つ目は、井戸の、見えない線。


三つ目が、今夜の、塩。


そして、額の温度は、もはや、判断する材料を、求めなかった。


家族が、その温度を、知っていた。


私は、その温度を、家族に、見せた。


家族が、それを、私と、一緒に、受け止めた。


それだけで、私には、もう、十分だった。


外では、結月明けの、夜の風が、中庭の井戸の縁を、静かに、通り過ぎていった。


第2章第3話「鏡月の塩」了


次話「実験ノート」(六歳・神月〜岳月)へ続く

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