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第1章 第2話「古き言葉の値段」

古い書物を、積んだ、露店だった。


店主は、年老いた、女だった。


頭巾の下から、白い髪が、のぞいていた。


膝の上で、客と、何かを、数えていた。


指を、折りながら。


ひとつ。ふたつ。みっつ。


その響きが、さっき、私の足を、止めたものだった。


母の、もうひとつの言葉。


レヴァンタの、言葉。


客が、銅貨を、置いて、去った。


店主は、私を、見た。


何かを、言った。


通商語だった。


私には、分からなかった。


けれど、私の目は、もう、店主の言葉では、なく、台の上の、書物に、向いていた。


古い書物が、積んであった。


革の表紙。ひび割れた背。色の褪せた、文字。


その中の、一冊に、私の目は、吸い寄せられた。


私は、断りを、入れることも、できないまま、その一冊に、手を、伸ばした。


店主は、止めなかった。


ただ、私の手元を、見ていた。


表紙を、開いた。


古代語だった。


西方の、古代語。


故郷の学び舎で、長い時間をかけて、学んだ、あの文字だった。


私は、息を、ひとつ、ついた。


知っている文字が、異国の市場の、露店の上に、あった。


埠頭で、ひとつも、言葉が、通じなかった、あの私に。


私は、目を、凝らした。


《真理の眼》を、開いた。


世界の、輪郭が、わずかに、くっきりと、した。


物の、奥に、ある、成り立ちが、見える。


それが、この眼の、力だった。


文字の、奥が、見えた。


紙の、繊維の、古さ。革の、なめしの、年代。書き写された、筆の、運び。


それらが、ひとつの、像を、結んだ。


この書物は、古い。


だが、書かれた言葉そのものは、もっと、古い。


つまり、これは、原本では、ない。


写しだった。


ずっと後の世に、誰かが、古い言葉を、書き写したもの。


私は、《完全記憶》を、たどった。


学び舎で、読んだ、古代語の、文法。綴りの、癖。


それと、目の前の文字を、照らし合わせた。


合った。


ところどころ、写し手の、癖で、崩れては、いた。


けれど、元の言葉は、私の知っている、西方の古代語だった。


私は、最初の頁の、一行を、読んでみた。


「水は、低きに、流れ……」


その先は、虫食いで、読めなかった。


それでも、その一行だけで、胸が、高鳴った。


これは、古い世の、誰かが、世界を、観察した、記録だった。


水が、低きに、流れる。


当たり前のことを、誰かが、書き留めた。当たり前を、当たり前と、思わずに。


私は、別の、頁も、開いた。


「火は、高きに、昇る。されど、その源を、断てば、消ゆ」


そこは、読めた。


火は、高きに、昇る。


私は、前の生で、その理由を、知っていた。


温められた空気は、軽く、なる。軽いものは、上へ、行く。


この書物を、書いた者は、理由までは、知らなかった、かもしれない。


それでも、見て、いた。火が、昇るのを。


そして、書き留めた。


理由を、知らなくても、人は、世界を、観察できる。


観察を、書き留めれば、それは、千年を、越えて、誰かの手元に、届く。


それは、私が、前の生から、ずっと、してきたことと、同じだった。


海を、越えても。生まれ、変わっても。


世界を、見て、書き留める者が、いた。


私は、頁を、めくった。


途中から、文字が、変わった。


知らない、文字だった。


同じ、古い言葉のはずなのに、形が、違った。


丸みが、違った。線の、組み方が、違った。


《真理の眼》を、向けても、《完全記憶》を、たどっても、その文字は、像を、結ばなかった。


読め、なかった。


私は、その頁を、しばらく、見ていた。


古代語にも、種類が、あるのだ。


私が、学んだのは、その、ひとつ。


世界には、私の知らない、古い言葉が、まだ、あった。


その事実は、私を、少し、怖がらせ、そして、それ以上に、強く、惹きつけた。


知らない、ということは。


まだ、学べる、ということだった。


私は、書物を、閉じた。


そして、店主の顔を、見た。


これを、買いたい、と、思った。


だが、ここで、また、言葉の壁が、立ちはだかった。


店主が、指を、三本、立てた。


それから、何かを、言った。


数の、言葉らしかった。きっと、値だった。


けれど、三、の、次の単位が、分からなかった。


銅貨で、三なのか。銀貨で、三なのか。


桁が、分からなければ、高いのかも、安いのかも、分からない。


私は、困った。


困って、それから、手の中の、書物に、目を、落とした。


そうだ。


言葉は、なくても、この書物の、中身は、私には、見えている。


私は、書物を、もう一度、開いた。


そして、店主の前で、《真理の眼》で、見たことを、身振りで、伝えようと、した。


まず、表紙を、指で、叩いた。


次に、中の文字を、なぞった。


そして、首を、横に、振った。


これは、原本では、ない。写しだ。


店主の、眉が、動いた。


私は、続けて、後ろの、読めない文字の頁を、開いた。


その文字も、指で、なぞり、また、首を、振った。


由来の、知れない、写し。それが、三、の、はずが、ない。


店主は、しばらく、私の指の動きを、見ていた。


それから、低い声で、笑い、何かを、言った。


たぶん、小僧、目が利くじゃないか、とでも、言ったのだろう。


店主は、指を、一本、折った。


三本が、二本に、なった。


値が、下がった。


知識が、異国で、初めて、通貨に、なった、瞬間だった。


それでも、二本の、単位が、まだ、分からなかった。


私は、思い出そうと、した。


母が、私の指を、折って、数えてくれた、あの響きを。


ひとつ。ふたつ。みっつ。


その先も、母は、数えた。


私は、聞き流して、いた。


けれど、《完全記憶》は、聞き流したものさえ、しまっていた。


母の声が、内側で、よみがえった。


幼い日の、台所の、あの響き。


私は、店主の立てた、二本の指を、見て、母の言葉で、数を、言ってみた。


舌が、もつれた。


発音は、きっと、ひどいものだった。


店主の目が、丸く、なった。


それから、老いた女は、声を、上げて、笑った。


腹の底から、面白そうに、笑った。


笑いながら、何かを、言った。


私の、ひどい発音を、真似て、いるようだった。


隣の店の女が、それを、聞いて、一緒に、笑った。


私の、顔が、熱く、なった。


けれど、嫌な、熱さでは、なかった。


笑われた、というより、面白がられた、という、熱さだった。


ひとしきり、笑って。


老いた女は、笑いを、収め、低い声で、ひとこと、言った。


「ハラース」


その言葉だけは、分かった。


母が、ときどき、買い物の終わりに、使った言葉。


もう、決まり。これで、仕舞い。


交渉が、成立した、のだった。


私は、レヴァンタ金貨を、二枚、台に、置いた。


店主は、それを、受け取り、書物を、古い布で、包みはじめた。


皺だらけの手が、丁寧に、布の端を、折り込んだ。


品物を、扱う手つきでは、なかった。


何か、大切なものを、送り出す、手つきだった。


書物は、預かり物なのかもしれない、と、私は、思った。


この老女も、いつかの、誰かから、預かって、いつかの、誰かへ、渡している。


包みを、受け取るとき、店主が、私の顔を、見て、言った。


「サイー」


旦那。お客人。


埠頭で、私に、果実を、売ろうとした男も、その言葉を、使っていた。


あのときは、客として、見られた、というだけだった。


けれど、いま、同じ言葉が、違って、聞こえた。


値を、知る者。言葉を、かろうじて、渡せた者。


そういう者として、私は、サイー、と、呼ばれた。


私は、書物の包みを、抱えた。


胸の奥が、温かかった。


母は、言った。


言葉は、橋だ、と。


幼い日の私は、その意味が、分からなかった。


橋は、川の上に、架けるものだ。言葉が、なぜ、橋なのか。


いま、分かった。


橋は、渡ってみて、初めて、橋になる。


渡る前は、ただ、向こう岸が、あるだけだ。


母は、三つの言葉を、話せた。


フランディアの言葉。レヴァンタの言葉。それに、北の言葉も、少しだけ。


幼い私は、それを、ただ、母の癖だと、思っていた。


けれど、母は、きっと、知っていた。


言葉が、いくつ、あれば、いくつの岸へ、渡れるか、を。


母が、私に、遺したのは、金でも、剣でも、なかった。


橋の、架け方だった。


私は、今日、ひとつ、橋を、渡った。


ひどく、よろめきながら。それでも、渡った。


市場の、奥へ、進んだ。


買った書物を、抱えたまま。


茶寮の前で、足を、止めた。


男たちが、低い卓を、囲んで、茶を、飲んでいた。


その会話に、ときどき、フランディア語の単語が、混じった。


私は、聞くとは、なしに、聞いた。


「東の、砂の国だ」


ひとりが、言った。


「あそこの、神官たちが、近頃、こぼしている、というぞ」


「何を」


「神の、声が、遠い、と」


私の足が、止まった。


「気のせいだろう」


別の男が、言った。


「いや。砂の国だけでは、ない。西の、学問の国でも、何か、あったらしい。学び舎で、おかしなことが」


「神の、声が、遠い、か」


「さあな。商人の、噂だ」


男たちは、笑って、別の話に、移った。


茶の、湯気が、立っていた。


私は、その場を、離れた。


神の、声が、遠い。


それは、私が、船の上で、実験ノートに、書いた、言葉と、同じだった。


賢者神の声が、出立の朝から、遠い。


私は、それを、自分だけの、違和感だと、思っていた。


気のせいかもしれない、と、書き添えた。


けれど。


東の、砂の国の、神官が。


西の、学問の国の、学び舎で。


同じことを、言っている。


私は、すぐには、動けなかった。


茶寮の喧騒が、急に、遠く、聞こえた。


もし、これが、気のせいで、ないのなら。


私の額の奥の、あの遠さが、私だけの、ものでないのなら。


それは、何を、意味するのだろう。


私は、考えようと、して、やめた。


噂は、噂だ。商人の、茶飲み話だ。


確かめる術は、まだ、ない。


それも、船の上で、ノートに、書いたとおりだった。


私は、買ったばかりの、書物を、抱え直した。


包みの布が、胸に、当たった。


遠いのは。


遠いのは、私だけ、では、ないのか。

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