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第10章 第3話「家系の時間軸」

朝の鐘五つが、サヴァン通りの方角から、低く、響いた。


起床の鐘。アルセリアの市街の、教会の鐘。


私は自分の部屋の寝台の上で、目を覚ました。


四ヶ月ぶりの、家の寝台。


枕の匂いが、学院の寮のものとは違っていた。


母エリザベートが毎月、香草の小袋を寝室の引き出しに入れ替える。


その香りがまだ、寝台の麻布に薄く残っていた。


私はしばらく、寝台の上で天井を見ていた。


家の天井の梁の節の位置を、完全記憶は私が生まれた年のものから保持していた。


四ヶ月で、節の位置は変わっていなかった。


私は起き上がった。


旅鞄を、まだ、開けていなかった。


旅鞄の中には、ふたつ折りの紙束——書き写した古代語の引用句が七枚と、原本の一枚。


旅鞄を机の上に置いたまま、私は寝間着のまま食堂に降りた。


食堂で、四人。


父アンリ、母エリザベート、妹クララ、私。


兄マルクは学院の長期休暇前で、まだリューヴェルの寮にいた。


「よく、お帰りなさい、テオ」


母エリザベートが椅子から立ち上がって、私の両頬を両手で包んだ。


「痩せたわね」


短く言って、頬の両側を軽く押した。


「……はい、母上」


私は応えた。


母の手は家にいた頃と同じ、わずかに湿った温かさ。


クララが椅子から身を乗り出した。


「お兄ちゃん、お土産は?」


「……ええ、用意してあるよ。後で」


「ほんと?」


「ええ」


母が薬草茶を私の前に置いた。


「朝食の後で、テオの好きな、栗の蒸し菓子を、出すわね」


父アンリは対面の席で、薬草茶を一杯、口に運んだ。


それから、私に向いた。


「今日、午後、図書館に、連れて行こう」


短く、言った。


私は薬草茶の杯を両手で持ったまま、応えた。


「……はい」


「お前が、知るべきことが、ある」


母エリザベートは、わずかに視線を父に向けた。


父はその視線に、頷きで応えた。


母は、何も言わずに台所の方へ向いた。


私はその短いやり取りの奥行きを、感じ取った。


母は、父が私を図書館に連れて行くことを知っていた。


おそらく、何を私に見せるかも知っていた。


家系の何かが両親の間で、既に共有されていた。


クララは、栗の蒸し菓子の話で頭がいっぱいだった。


「お兄ちゃん、栗の蒸し菓子、知ってる?マリエンヌが、昨日から、仕込んでたの」


「……知ってる」


クララの黒い瞳が、薬草茶の湯気越しに私を覗き込んだ。家系の重い話の隣で、末娘の真っ直ぐな視線だけが、食堂を平熱に保っていた。


食堂は、夏が抜けたばかりの薄い朝の光の中で、静かだった。


朝食の後、私は自室に戻った。


旅鞄を開けた。


クララへの土産——リューヴェルの市場で買った、薄い葡萄糖の飴を出した。


母への土産——リューヴェルの古い祈祷書の、写本の小冊子。母が若い頃に読んだという書物の、現代版。


父への土産——書店で買った、新刊の地名考証の小冊子。


それらを抱えて、もう一度、食堂に降りた。


クララは葡萄糖の飴の包みを両手で受け取って、跳ねた。


母は祈祷書の小冊子を両手で開いて、ゆっくりと頁をめくった。


「Mon dieu——わたくしが、最後に、これを、読んだのは、何年前かしら」


父は地名考証の小冊子を受け取って、表紙を見た。


「ありがとう、テオ」


短く、応えた。


「昼食の後、図書館に、行こう」


昼食を終えた。


私と父アンリ、二人で玄関を出た。


サヴァン通りを徒歩で、図書館へ。


鏡月の昼、白石造の街路に、収穫祭の名残の麦穂の飾りが、まだ軒先に残っていた。


書店の看板の影が石畳に、長く伸びていた。


父は、無言だった。


私も、無言だった。


二人の足音が、石畳の上で揃って響いた。


四ヶ月前、私は、神月十四日の夜に、父と、書斎で、向き合った。


その夜、父は、私に、あの羊皮紙を、渡した。


今、私は四ヶ月ぶりに、父と二人で街路を歩いていた。


「お前が、知るべきことが、ある」


朝の食堂での父の言葉が、私の中でまだ温度を保っていた。


王立図書館の前庭に、入った。


玄関上の石彫——「螺旋に絡む蔦と本」——を、父が一度、見上げた。


私は父が見上げる姿を、横で見ていた。


父は玄関で、警備の見習い司書に軽く会釈した。


見習い司書は、「副司書長」と短く応えた。


それから、私に視線を向けた。


私を知らない顔だった。


父は、「次男だ。今日は、一日、私に、同行する」と短く言った。


二階の北側の、父の執務室。


中庭側の窓辺に、母からの小さなハーブの鉢。


ローズマリーと、タイム。


家にあるものと、同じ種類。


父は執務室の机の、左の引き出しから鍵を取り出した。


黄銅製の、中世風の鍵。


「ここから先は、お前以外には、見せない」


短く、言った。


執務室を出て、廊下を進み、階段を降りた。


一階奥の、人気のない書架の通路。


鉄柵の前で、父は立ち止まった。


鉄柵の向こうに、棚が並んでいた。書物の背が、鉄柵越しに見えた。


父は鍵を回した。


鉄柵が低い音を立てて、開いた。


「ここが、特別書架の、上段だ」


「地方の郷土史、地方民俗、家系図、地名考証。許可制で、外部の研究者にも、閲覧を許す範囲だ」


私は棚の書物の背を、見渡した。


完全記憶が書物の題名を、片端から保持し始めた。


父は上段の前を通り過ぎて、奥の別の扉の前に立った。


中段の扉。


別の鍵を、引き出しの中ではなく、上衣の内ポケットから取り出した。


「中段の鍵は、私の身に、付けている」


そう、説明した。


中段の扉を開けた。


中段の棚には、より古い革表紙の書物が並んでいた。


父はその中の三冊を選んで、取り出した。


一冊。


「古代語綴字概論」


二冊目。


「古代語・現代対訳語彙集(断片)」


三冊目。


「フランディア地方の古代語混入記録」


父は三冊を、私の方に差し出した。


「この三冊を、お前に、貸そう」


私は両手で受け取った。


革表紙の手触り、頁の厚み、わずかな埃の匂い。


完全記憶は、この三冊のすべての外観の情報を保持し始めた。


「学院の語学室には、入門用しか、ない。我が家のこの中段には、もう少し、踏み込んだ書物がある」


「ただし、これは、王立図書館の蔵書だ。家には、持ち帰らない」


私は頷いた。


「……写すのは、よろしいでしょうか」


父は、わずかに目を細めた。


「良い。だが、急ぐな」


「急ぐな」が、ふたたび出た。


四ヶ月前、神月十四日の夜、父があの羊皮紙を渡した時と、同じ言葉だった。


父は三冊を執務室に持って戻る、と告げて、書架の通路を戻った。


執務室の机の上に、三冊を並べて置いた。


「もう一つ、見せたいものが、ある」


そう言って、父は再び書架の通路へ戻った。


中段の隣の、下段の小部屋の扉。


別の鍵。


引き出しの奥の、鍵付きの小箱から取り出した。


「ここから先は、副司書長の判断でしか、開けない」


下段の小部屋の扉を開けた。


小部屋は、暗かった。


父が壁の燭台に、ろうそくを灯した。


ろうそくの光が、小部屋の壁を、薄く、照らした。


壁に、何枚もの、拓本が、貼られていた。


古文書の銘文の、拓本。


拓本の中の、字形を、私は、ろうそくの光の下で、見た。


一枚、二枚、三枚——


四枚目の拓本の、中央の、ある一語で、私の視線が、止まった。


その字形——


完全記憶の中の、祖父の手紙の、三枚目の、ある場所の語と、同じ。


「ノアン」と、私が、心の中で、呼び始めていた、あの形。


「……父上、この字形は」


私は、拓本を、指差した。


父は、頷いた。


「それが、お前が、図書館で、見つけた一文と、同じ系統だ」


「この拓本は、お前の高祖父オーギュストが、二百年前に、地方の石碑から、写し取ったものだ」


「家系の蒐集が、地方民俗記録の中に、引用句として、薄く、漏れていることが、ある」


「お前が、結月の中層で、見つけたのは、おそらく、その一例だ」


「……二百年前」


私は、繰り返した。


「高祖父、オーギュスト」


父は、もう一度、頷いた。


小部屋の、奥に、二つの、木の椅子が、向かい合わせに、置かれていた。


父は、奥の椅子に、座った。


「ここに、座りなさい」


私は、対面の椅子に、座った。


小部屋の、ろうそくの光は、小さかった。


拓本の貼られた壁が、ろうそくの揺れに、合わせて、わずかに、明暗を、変えていた。


「ここで、話す」


父は、しばらく、沈黙した。


私は、待った。


父の沈黙を、待つことは、家にいた頃から、私が、覚えていた、一つの所作だった。


「ヴァルメール家は、代々、古文書を、密かに、集めてきた家系だ」


父は、短く、言った。


「四代前から——お前の高祖父オーギュストの代から、本格的に、なった」


「初めは、地方の郷土史の蒐集だった」


「次に、古い字体の写本」


「私の祖父の代——お前にとっての曽祖父——で、ある統合が、結ばれた、と、聞いている」


父は、私に、視線を、向けた。


「お前が、神月十四日の夜に、受け取った、あの三枚は、私の祖父——お前の曽祖父の、手によるものだ」


私の、息が、わずかに、止まった。


「祖父、と、私は、お前に、言ったかもしれない」


「正確には、曽祖父だ」


私は、初めて、訂正を、受け取った。


四ヶ月、私はあの羊皮紙を「祖父の手紙」と、内側で呼んでいた。


その呼び方が、半歩、ずれていた。


——いや。


完全記憶は、神月十四日の夜の、父の言葉と、家系図の世代を、最初から、整合しないまま並べていた。


「四代続いた副司書長」の世代を数えれば、私の世代から見て、エミールは三代上。


「祖父」ではなく、「曽祖父」。


その算数を、私は内側のどこかで、たしかに、見ていた。


だが、訂正しなかった。


父が、いつか、自分で訂正するまで、待つ。


そう、内側で、選んでいた、のかもしれない。


完全記憶があっても、呼び方を、自分で先に直してしまえば、父の言葉の重みが、半歩、軽くなる。


私はそれを、避けていた。


「……曽祖父、エミール、と」


私は、口に出した。


父は、頷いた。


「エミール・ヴァルメール」


「お前の、私の、父の、父だ」


「いずれ、お前が、もっと読めるようになった時に、肖像を、見せる」


「今日は、まだ、見せない」


私は、何度か、頷いた。


父は、続けた。


「私は、副司書長として、公式の蔵書を、管理している」


「だが、私の祖父——曽祖父エミールの遺品は、家系の私物として、別に、保管している」


「お前が、古代語を、読めるようになった時、私は、それを、お前に、開く」


「それまでは、開けない」


父は、短く、息を整えた。


「お前の判断ではなく、私の判断だ」


「家系の家長として、決めている」


私はその「判断」の重さを、受け取った。


「……はい、父上」


父はしばらく、何も言わなかった。


ろうそくの炎が、わずかに揺れた。


拓本の壁の明暗が、わずかに移った。


「お前に、見せられるのは、ここまでだ」


「だが、見せた、ということを、お前は、覚えておきなさい」


「……承知しました」


私たちは椅子から立ち上がった。


父がろうそくを消した。


小部屋の扉を閉めて、鍵を回した。


執務室に戻った。


机の上に、三冊の古代語の書物が並んでいた。


父は机の前に座った。


私も対面の椅子に座った。


「この三冊を、写すのは、自由だ」


「書写には、時間がかかる。学院で、写すか、家で、写すか、お前が、決めなさい」


私は三冊の表紙を、指先で確かめた。


革表紙の、わずかなひび。


表題の、年代を経た、薄い金箔。


頁の厚みの、わずかな不揃い。


「……家で、写します」


「鏡月の残りと、無の日の、五日間」


父は応えた。


「そうか」


「お前の母も、学院時代に、死語学を、齧った」


「お前が、写し終えたら、母に、見せるといい」


「母は、お前より、もう少し、先の音を、知っている」


私は頷いた。


父は、もう一つ付け足した。


「ただし、これは、急ぐな」


「古代語を、副技能として、取得するかどうかは、学院で、考えなさい」


「家での書写は、家での書写だ。学院の副技能とは、別に、進めればよい」


私の内側で、何かが、決まった。


「……副技能として、取得します」


父は、わずかに目を細めた。


「そうか」


それ以上は、言わなかった。


夕食を終えた後の、書斎。


三人——父アンリ、母エリザベート、私。


クララは、母エリザベートが寝室に寝かしつけた後。


書斎の暖炉に、薪が静かに燃えていた。


父が母に、短く伝えた。


「テオが、古代語を、写したいと言っている」


「この鏡月の残りと、無の日の、五日間で、三冊を」


母エリザベートは暖炉の前の椅子から立ち上がった。


書斎の本棚の、上から二段目の薄い手帳を取り出した。


「わたくしの、学院時代の、死語学のノートよ」


手帳を両手で、私の方に差し出した。


「わたくしが、覚えている範囲では、レヴァンタ語の、いくつかの古い語が、古代語と、姉妹のように、似ているの」


「Mon dieu——本当に、覚えているのは、たぶん、十語にも、満たないけれど」


私は手帳を両手で受け取った。


軽い。


革表紙ではなく、麻布の表紙。母の少女時代の、手作りらしい仕立て。


「……ありがとうございます、母上」


母は、私の頭を軽く撫でた。


「急がないで、テオ」


「歌は、急がない方が、長く、歌えるのよ」


母の手の温かさが、私の頭の上で長く留まった。


夜。自分の部屋。


机の前。


机の上に、五つが、並んでいた。


一つ。


学院図書館で書き写した、古代語の一文の原本の紙。


二つ。


書きかけの、アネットへの手紙——封のないまま、五行。


三つ。


父アンリへの書き始めの手紙——四行と、父からの返信の便箋一枚。


四つ。


父から借りた古代語の三冊のうち、最初の一冊——「古代語綴字概論」。


五つ。


母エリザベートから渡された、麻布表紙の、死語学のノート。


机の引き出しの、最下層。


そこに、麻布で包まれた、あの木箱がある。


四ヶ月前、リューヴェルに来る時、寮の机の中に移したが——


家に帰った時、私が最初にする所作は、決まっていた。


寮の机の引き出しから麻布の木箱を出して、自分の鞄に入れる。


家の自室の机の最下層に戻す。


そして、開けない。


家でも、私は開けなかった。


完全記憶は、その木箱の中の三枚の羊皮紙の全ての字を保持していた。


私は引き出しを開けないまま、頭の中で三枚目の冒頭を引き出した。


字形は、完璧に、私の中に、あった。


長音記号の傾き。


母音の連なり方。


子音単独の線の、終わりの跳ね。


そして——


「読めるのに、意味が、取れない」


そう、内側で、呟いた。


声には、ならなかった。


字は、私の中に、ある。


だが、それは、まだ、私の言葉に、なって、いない。


——ヴァルニエ教授は、家の書物のことを、知っていた。


その問いを、父に、聞こうとして、聞かなかった。


下段の小部屋での、父の沈黙の重みが、その問いを、別の機会へ、押し戻した。


「いずれ、お前が、もっと読めるようになった時に」と、父は、肖像のことで、言った。


教授の謎も、同じ「いずれ」に、預けてよいのだ、と、判じた。


私は机の上の五つを、もう一度、見渡した。


「字形は、私の頭の中に、四十六年前のまま、ある」


「だが、それは、まだ、私の言葉に、なって、いない」


「曽祖父エミールが、四十六年前の夜に、書きながら、何を、考えていたか、私は、まだ、知らない」


三行。


机の上に開いた新しい便箋に書こうとして——


書かなかった。


書く相手が、まだ、いなかった。


代わりに、頭の中で、もう一つを置いた。


「曽祖父の手紙の、三枚目の、ほぼ全部が、まだ、私には、閉じている」


「閉じているものを、開ける、には、時間と、母上の歌と、父上の索引が、要る」


二行。


「書き写すこと、も、引き出すこと、も、私は、選べる」


「書き写すことを、今度は、選ぶ」


二行。


最後の、一行。


「明朝、鐘八つから、書写を、始める」


机の上の五つを、もう一度、見渡した。


書きかけのアネット手紙は、五行のまま。


書き始めの父への手紙は、四行と父からの返信。


書き写した古代語の一文の原本は、七枚の他の写しと束ねて、引き出しの二段目。


古代語綴字概論は、机の中央。


母の死語学のノートは、その隣。


机の上に、新しい、もう一つの軸が立っていた。


机の上のろうそくを灯したまま、私はしばらく座っていた。


窓の外、サヴァン通りの方角に、月明かりが薄く、白石造の屋根を照らしていた。


鏡月の、半月。


私はろうそくを消した。


机の上の五つは、月明かりに薄く浮かんでいた。


古代語綴字概論の表紙の革の縁が、月光でわずかに光った。


「明朝、鐘八つ」


指先で、表紙の革の縁を、一度だけなぞった。


それで、明日が決まった、ということになる。


鐘十つが、サヴァン通りの方角から、低く、響いた。


就寝の鐘。

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