第7章 第2話「ヴァルの霧」
東門の衛兵が御者と、短い言葉を交わした。
御者が答えた。
衛兵が頷いた。
馬車は再び動き出した。
東門のアーチが、馬車の上を通り過ぎた。
アーチを抜けたその瞬間に、霧が馬車を包んだ。
ヴァルの霧、と私はその名を確かめた。
母エリザベートが、前夜、私に教えてくれた首都の代名詞だった。
「リューヴェルは、年に、百日ほど、朝霧が、立つの」
「ヴァルの霧、と、呼ばれているのよ」
「あなたが、行く街は、霧の、街でもあるの」
母の声が、東門の霧の中でよみがえった。
──ヴァルの霧。
──たしかに、これは、霧の、街だ。
馬車は霧の中をゆっくり進んだ。
人の声が、霧の外側から聞こえ始めた。
港湾の雑踏の声だった。
私の知るアルセリアの中央広場の雑踏とは、声の層が違った。
──声の、層が、厚い。
──多くの、人が、近くに、いる。
馬車は港湾街の東端の馬車場に止まった。
御者が私たちに声をかけた。
「リューヴェル、港湾。お降りなさい」
私とニコは馬車を降りた。
旅行鞄を肩にかけ直した。
布袋をもう一方の肩にかけた。
御者に短く礼を述べた。
「ありがとうございました」
御者は軽く頭を下げた。
それから、馬の首を軽く撫でた。
馬車は別の客を待つため、馬車場の隅に寄っていった。
私とニコは、馬車場の入口に立った。
入口の向こうに、霧の層が広がっていた。
霧の向こうに、何かがある。
何があるかは、まだ見えなかった。
私は深く息を吸った。
息の中に、潮の匂いと、霧の湿りと、人の体温と、煙突の煙の匂いが、混じっていた。
四つの匂いが、同時に、肺の中で、出会った。
──ここは、首都だ。
──私の知る街では、もう、なかった。
馬車場の入口から数歩進むと、霧の層が少し薄くなった。
足元の石畳が見えた。
石畳は、アルセリアのサヴァン通りより、少し湿っていた。
海の近くだから、湿っている。
そして、地面の高さが、海の高さに近かった。
港湾街は、街の最低層だった。
──私は、いま、リューヴェルの、最も低い場所に、いる。
──ここから、学院は、登った、先に、ある。
その縦の関係を、足の裏で確かめた。
ニコが私の隣で、口を開けて上を見上げていた。
「テオ」
「あれ」
ニコの指の先を見た。
霧の上に、何本もの影が立っていた。
最初は、それが何か、分からなかった。
数を数えると、十数本あった。
そして、影のてっぺんに横棒があった。
横棒の両側に、布が垂れていた。
──船の、帆柱だ。
ニコが私より先に気づいた。
「帆柱」
「ええ。船の、帆柱」
「あんなに、たくさん」
「ええ。たくさん」
私は空を見上げた。
霧の上に、帆柱の先端と、横棒と、たたまれた帆の白さが浮かんでいた。
帆の白さは、霧の白さとは別の白さだった。
布の白さだった。
人の手で織られた白さだった。
──これは、ありえない、けれども、ある。
自室で六属性をひとつずつ試した数週間、何度も確かめた、あの「ある」感覚が、いま、新天地の港湾の空の上で、また立ち上がった。
馬車場の入口を出ると、港湾の雑踏に入った。
雑踏の最初の印象は、声だった。
声の種類が多かった。
フランディア語の声が、まず聞こえた。
そのあいだに、別の子音の連なりの声が混じった。
南の言葉、北の言葉、東の言葉。
母エリザベートが教えてくれた三つの言葉のどれかに、似たものが雑踏の中に確かにあった。
ただ、母のゆっくりとした子守唄の響きとは、別の響きだった。
雑踏の中の外国語は、速く、強く、商売の言葉だった。
港湾の労働者が、樽を転がしていた。
樽は石畳の上で、ごろ、ごろ、と低く鳴った。
労働者の声が、樽の音の上に重なった。
「もういっぱい、こっち」
「あっち、塞いでる」
「のかせ、のかせ」
声は、フランディア語だった。
ただ、アルセリアで聞いていたフランディア語よりも、訛りが強かった。
港湾の訛りだった。
魚を運ぶ車が、私たちの横を通り過ぎた。
車の上に、銀色の魚が積まれていた。
魚の匂いが強く鼻に届いた。
潮の匂いの奥に、魚の生臭さがあった。
ニコがわずかに顔をしかめた。
「魚の、匂い」
「ええ」
「アルセリアでは、こんなに、強く、嗅がなかった」
「ここは、海港だから」
「海港」
ニコがその言葉をゆっくり繰り返した。
──ニコは、私と、同じ、内陸の、子だ。
──海港の、匂いを、初めて、嗅いだ。
そのことが、私とニコの距離を、また少しだけ縮めた。
私は雑踏の中をゆっくり進んだ。
ニコも、私の横に並んだ。
旅行鞄を肩にかけ直しながら。
雑踏の中で、子供の声も聞こえた。
港湾の子供たちが、樽の隙間を走り抜けていた。
犬が走っていた。
馬のいななきが、奥の方から聞こえた。
雑多な生活の音だった。
私は港湾の奥を見た。
霧の層がまだ厚く、海の方を覆っていた。
海そのものは見えなかった。
ただ、霧の向こうに海がある。
そのことが、空気の中の塩の匂いから、確かに分かった。
──海は、まだ、見えない。
──ここから、海を、見るためには、霧が、晴れるか、霧を、抜けるかが、必要だ。
──今日は、たぶん、どちらも、ない。
その判断を、胸の奥で受け止めた。
港湾街の西の出口に、上りの坂が始まっていた。
坂の入口に、看板が立っていた。
看板にはこう書かれていた。
「プラス・デ・デバ ── 議論広場、こちら」
ニコと私は、看板の方へ歩いた。
坂は緩やかに上っていた。
石畳が坂の上で、まだ湿っていた。
ただ、坂を上るほどに、空気の中の潮の匂いが少しだけ薄くなった。
──ここから、登る。
──港湾は、終わり。
坂を登り切ると、広い広場に出た。
広場の中央に、石の演壇が立っていた。
演壇の上に、男が一人立っていた。
男は何かを話していた。
広場には十人ほどの人が立ち止まって、男の話を聞いていた。
──路上講義、と、母さんが、教えてくれた。
──首都では、晴れた日に、学院教授が、広場で、無料の、講義を、することがある、と。
ただ、今日は霧の日だった。
霧の日でも、講義は行われるらしい。
私とニコは、広場の端に立ち止まった。
男の声が、霧の中でよく響いた。
「……古い書物が、誰にでも、開かれるべきか、否か」
「学者議会で、繰り返し、議論されている」
「だが、開放には、複製の問題が、ある」
「手稿の劣化が、ある」
「……印刷の発達が、追いついていない」
男の話に、私は黙って耳を傾けた。
──父さんも、これと、同じ議論を、している。
──だが、声の数が、違う。
アルセリアの王立図書館アルセリア館で、父アンリは副司書長として、特別書架の保全と分類を担当していた。
その仕事の根本にある問いが、いま、リューヴェルの議論広場の霧の中で、別の人によって繰り返されていた。
──父さんの仕事は、ここでも、続いている。
──父さんは、一人ではない。
その確認を、胸の奥に置いた。
ニコは男の話をしばらく聞いてから、私に小さく囁いた。
「テオ」
「ええ」
「ここでは、議論が、街路の、言葉だな」
「ええ。たぶん」
「アルセリアの、賢者広場でも、似たことは、あった。だが、ここまで、自由じゃ、なかった」
「ここでは、議論が、街路の、言葉だ」
ニコのその一文を、私は黙って受け止めた。
それは、首都の文化のひとつの輪郭だった。
私たちは広場を横切った。
広場の南東の出口に、もうひとつの看板が立っていた。
「学府丘 ── 王立学院、こちら」
矢印の先は、上りの坂だった。
坂は、議論広場の坂より急だった。
両側に、背の高い街路樹が立っていた。
冬枯れの楡だった。
楡の枝が、霧の中に薄く伸びていた。
私たちは学府丘の坂を登り始めた。
坂を登るほどに、霧が薄くなった。
ヴァルの霧は、低い場所にたまる霧だった。
学府丘の半ばに達するころには、霧は足元の下に退いていた。
私は坂の途中で振り返った。
振り返った先に、これまで通ってきたリューヴェルが見えた。
最も低い場所に、港湾街。
港湾街は霧の中に半分沈んでいた。
帆柱の先端だけが、霧の上に出ていた。
少し高い場所に、議論広場。
広場の演壇の男が、まだ話していた。
その上に、坂と街路樹。
そして、坂の上に、私たちがいた。
──三層が、霧の中に、薄く、見える。
──最低層、中層、中高層。
その層を、足の感覚で受け止めた。
視線を横に振った。
ヴァル川の中州が、霧の上に見えた。
中州の上に、ふたつの尖塔が立っていた。
朝、東街道の最後の坂を降りながら見た、あの双子の尖塔だった。
夕暮れではなかった。
午後遅めの霧の中だった。
それでも、双子の尖塔は、霧の上にはっきり浮かんでいた。
ニコが私の横でそれを見ていた。
「テオ」
「あれは……?」
「王立図書館の、本館、らしい」
「父さんが、月に、一度か、二度、出向く、所」
ニコは頷いた。
「お前の父さんが、あそこに、行くのか」
「ええ」
「すごい、所、だな」
「私も、まだ、見ただけだ」
──父さんが、月に、一度か、二度、登る、川中島の、本館。
──私は、まだ、その中には、入っていない。
ただ、見上げることができる場所には、来た。
その距離を、胸の奥で受け止めた。
私たちは坂を再び登り始めた。
坂はまだ続いていた。
両側の楡の枝の奥に、別の建物の屋根が見え始めた。
赤い瓦の屋根。
灰色の石の壁。
学院街の外周の建物だった。
坂を登り切ると、目の前に、石造の大きなアーチが立っていた。
アーチの上に、文字が刻まれていた。
「フランディア王立学院」
アーチの両側に、守衛が二人立っていた。
守衛は灰色の制服を着ていた。
腰に短い剣を帯びていた。
剣冠館の教官と共通の装備らしかった。
私とニコは、アーチの前に立った。
旅行鞄を肩から降ろした。
入学許可状を、布袋の中から取り出した。
灰色の蝋印の白い封筒だった。
ヴァルメール家にもモロワ家にも、神官事務室から同じ蝋印の封筒が届いていた。
私たちはそれを、守衛の片方に差し出した。
守衛は封筒を受け取り、中の書類を確認した。
書類の上で目を走らせた。
「ヴァルメール、テオドール」
「本科一年、賢者専攻」
「第二寮」
「入寮の手続きは、北側の、事務棟へ」
私は頷いた。
「モロワ、ニコ」
「本科一年、導師専攻」
「第一寮」
「同じく、事務棟へ」
ニコも頷いた。
守衛は書類を封筒に戻し、私たちに返した。
「ようこそ、フランディア王立学院へ」
「学院の、規則は、入寮後に、寮母から、説明があります」
「お入りなさい」
私たちは深く頭を下げ、アーチを抜けた。
アーチを抜けたその先に、学府丘の中央広場が広がっていた。
中央広場は円形だった。
円の中央に、石の噴水が立っていた。
噴水は冬の午後の霧の中で、静かに水を噴き上げていた。
そして、円の外周に、建物の影が四つ見えた。
西に塔の形。
東に長い館の形。
南に煙突の立つ工房の形。
北にもっとも大きな図書館の形。
──塔、館、炉、図書館。
──四角。
その四角を、目で受け止めた。
ただ、四角をゆっくり見渡している暇はなかった。
事務棟は、中央広場の北西の角にあった。
噴水の横を通り、事務棟の入口に向かった。
事務棟の入口には、もう一人守衛が立っていた。
私たちは入学許可状をまた見せた。
守衛は頷き、私たちを中に通した。
事務棟の内側は、長い廊下といくつかの部屋に分かれていた。
寮の手続きをする部屋は、廊下の突き当たりだった。
私たちは突き当たりまで歩いた。
部屋の扉を開けると、寮母が机の向こうに立っていた。
寮母は中年の女性だった。
短い灰色の髪。
温かい眼差しの奥に、厳しさがあった。
「ヴァルメール、テオドール、と、モロワ、ニコの、お二人ですね」
「はい」
「お待ちしておりました」
寮母は机の上の書類をめくった。
「ヴァルメールさん、ね」
「第二寮の、二階、東向きの、お部屋」
「お部屋番号は、202号」
「ご同室は、サルダンさん。レヴァンタからの、お方」
「モロワさん」
「第一寮の、三階、西向きの、お部屋」
「お部屋番号は、308号」
「ご同室は、別の、地方からの、お方」
寮母の、声は、淡々と、していた。
ただ、淡々の中に、新入生を、迎える、温かさが、わずかに、混じっていた。
私たちは、頷いた。
「夕食は、各寮の、食堂で、午後六時半の、鐘で、開きます」
「初日は、寮の、規則の、説明を、しますので、必ず、出席なさい」
「明日の朝の、入学式の、案内は、お部屋の、机の上に、置いてあります」
「何か、ご質問は?」
私は首を軽く横に振った。
ニコも同じだった。
「では、それぞれの、寮へ」
「ようこそ、王立学院へ」
寮母はわずかに微笑んだ。
事務棟を出て、中央広場で、私とニコは向き合った。
「テオ」
「ニコ」
「夕食は、それぞれの、寮で」
「ええ」
「だが、明日の朝、入学式の、大講堂で、また、会う」
「ええ。また、明日」
私たちは軽く頷き合った。
そして、別々の方向に歩き始めた。
ニコは第一寮の方向へ。
私は第二寮の方向へ。
第二寮は、学府丘の南東の寮区にあった。
寮区は、五棟の建物が緩やかな弧を描いて並んでいた。
男子寮が三棟。
女子寮が二棟。
私の第二寮は、男子寮の中央の棟だった。
第二寮の入口に立った。
入口の扉は、木製で重かった。
私は扉を押した。
扉が低く軋んだ。
内側は、薄暗い石造の玄関ホールだった。
玄関ホールの奥に、階段が見えた。
階段は石造の螺旋階段だった。
私は階段を登り始めた。
二階まで、二十数段だった。
階段の石の踏み面が、わずかにすり減っていた。
──ここを、何百人もの、新入生が、登ってきた。
──この、すり減りは、その人数の、跡だ。
その層を、足の裏で受け止めた。
二階の廊下に出た。
廊下の東側に、扉が並んでいた。
202号室の扉は、廊下の突き当たりのふたつ手前だった。
扉の上に、銅製の小さな札がかかっていた。
「202」
私は扉の前に立った。
深く息を吐いた。
それから扉をノックした。
中から声が聞こえた。
「どうぞ!」
明るく人懐っこい声だった。
私は扉を開けた。
部屋は二人部屋だった。
机が二つ。
寝台が二つ。
衣装箱が二つ。
窓がひとつ。
窓は東向きだった。
窓の向こうに、霧の層と、その上に薄くヴァル川の双子の尖塔が見えた。
部屋の奥の半分で、ひとりの少年が荷物を整理していた。
少年は私と同年代だった。
浅黒い肌。
明るい栗色の髪。
商人の子らしく、身なりは整っていた。
少年は私を見上げると、すぐに笑顔になった。
「やあ」
「君が、テオ・ヴァルメール?」
「俺は、マチュー・サルダン」
「レヴァンタの、サルダン商会、三男だ」
「よろしく」
マチューの声は、最初のひとことから距離が近かった。
私の寡黙さに戸惑う気配はなかった。
──この子は、初日から、たぶん、こうだ。
──そういう人らしい。
その判定を、胸の奥に置いた。
そして頭を軽く下げた。
「テオ・ヴァルメール、です」
「アルセリアから、参りました」
「よろしく、お願いします、マチュー」
マチューは笑った。
笑いは明るく、屈託がなかった。
「敬語、いらないぜ、テオ」
「俺たち、同期だ」
「同じ部屋の、同期、だ」
「ええ。けれども、初日だから」
「ふん、まあ、いいか」
「で、で」
「君は、賢者だってな」
「地方の、稀少クラス」
「驚いた」
「入学式の、点呼で、聞いた、わけじゃないけど、書類を、寮母から、見せられて」
マチューは私の書類のなにを見たのか、知っているらしかった。
たぶん、寮母から同室者の専攻を教えてもらったのだろう。
「俺は、召喚士系。砂蜥蜴を、一体、連れてる」
「あ、寮の規則で、生き物は、共同の小屋に、預けてる」
「後で、見せようか」
「ええ。ぜひ」
私は窓辺の机の方へ歩いた。
窓辺の机が私の机だった。
マチューがそれを私に譲った形だった。
「窓辺の、ほう、譲るぜ」
「ありがとう」
「俺、寝るとき、窓辺の、ほうが、寒く、感じる」
「南方育ち、だからな」
「冬の、フランディアの、夜は、まだ、慣れない」
「だから、奥の、ほうが、いい」
マチューの説明は自然だった。
譲ったというより、自分の好みで奥を選んだ、というふうだった。
──マチューは、譲りつつ、譲った、ことを、強調しない。
その配慮が心地よかった。
私は机の上に旅行鞄を置いた。
実験ノートを、最上段の引き出しに収めた。
予備のノートと筆と墨を、二段目に収めた。
母の薄い羊皮紙を、三段目に収めた。
机の上には、何も残さなかった。
ただ、机の左の隅に、入学式の案内の紙が置いてあった。
寮母が用意してくれたものらしかった。
私は引き出しを閉めた。
閉めながら、胸の奥で、確かめた。
──祖父エミールの手紙の、木箱は、アルセリアの、机の、引き出しに、ある。
──ここの、机の、引き出しに、その代わりに、実験ノートを、置いた。
二つの机が、二つの街にある。
二つの机の引き出しに、二つのものがある。
──ここの机では、私は、未来を、書く。
──あの机では、過去が、待っている。
その配置を、黙って受け止めた。
衣装箱を開けて、着替えを並べた。
簡素なシャツが二枚。
下着が三枚。
予備のローブが一枚。
それで、ほぼ終わりだった。
マチューは私の荷ほどきを横目で見ながら、自分の荷物を続けて整理していた。
マチューの荷物は、私のものより量が多かった。
色とりどりの布や紐や小箱が出てきた。
「マチューの、荷物は、多いね」
「ああ。母さんが、心配性で、いっぱい、詰めた」
「南方の、保存食、たくさん、入れてくれた」
「あとで、お裾分けする」
「干し蜜柑、好きか?」
「食べたこと、ない」
「うわ、それは、人生で、損してる」
「あとで、食べさせる」
マチューの口調は屈託がなかった。
──この子は、人を、警戒する、ということを、知らない。
──いや、知らないのではない。
──ただ、初日には、警戒を、出さない。
その違いを、胸の奥で受け止めた。
荷ほどきがひと通り終わると、マチューは寝台に腰を降ろした。
私も窓辺の椅子に座った。
椅子は木製で固かった。
ただ、長く座っても疲れない形だった。
学院の什器の設計だった。
私は窓の方を向いた。
午後遅めの光が、霧を透かして室内に入ってきていた。
霧はまだ退いていなかった。
ただ、霧の上に、双子の尖塔の上半分がはっきり見えた。
朝、東街道で見たときと同じ、双子の尖塔だった。
夕暮れに近い光が、霧を少しずつ赤く染め始めた。
霧の白さの中に、ほのかな紅が混じった。
その紅の中で、双子の尖塔が立っていた。
立っていた、というより、霧の上に浮いていた。
──これは、ありえない、けれども、ある。
──あれは、本物の、双子尖塔だ。
自室で六属性を初めて試したときの、あの感覚が、いま窓辺でまた立ち上がった。
ただ、あの手のひらの中の「ある」とは違った。
いま、私の目の向こうに開いているのは、街の規模そのもの、だった。
私の手のひらでは抱えきれないものが、霧の向こうに広がっていた。
マチューが、私の、視線を、追って、窓の、ほうを、見た。
「あれ、本館だな」
「ええ。王立図書館の」
「俺、まだ、中に、入ったこと、ない。テオは?」
「私も、ない。父さんが、月に、一度か、二度、出向く、所、らしい」
「お前の父さん、図書館員?」
「ええ。アルセリアの、王立図書館の、副司書長」
「うわ、すげえ」
「ヴァルメール家って、書物の、家か」
「半分は、そう。半分は、ふつうの、家」
マチューは、笑った。
「ふつうの、家、か」
「いい、表現だな」
夕食の鐘が鳴り始めた。
低い、ゆっくりとした鐘の音が、寮区の上空に、ひとつ、ふたつ、と響いた。
合計で、六つ、半、鳴った。
午後六時半の鐘だった。
「食堂だ」
「降りようか」
「ええ」
私とマチューは、椅子と寝台から立ち上がった。
部屋の扉を開けた。
廊下を階段の方へ歩いた。
階段の踏み面のすり減りが、降りるときも足の裏で確かめられた。
食堂は、第二寮の一階の北側にあった。
長い木のテーブルが三列。
各列に二十人ほどが座れた。
その日の夕食には、五十人ほどの寮生がいた。
賢窓塔の生徒が多めだった。
そのほか、剣冠館の新入生も何人か混じっていた。
私とマチューは、列の隅に座った。
夕食は簡素だった。
白いパン。
野菜のスープ。
塩漬けの魚。
薄い葡萄酒。
私は塩漬けの魚を、ひとくち口に含んだ。
塩の味が強かった。
港湾の海の匂いと繋がっていた。
──ここの、塩は、海から、来ている。
──アルセリアの、塩は、内陸の、岩塩から、来ていた。
──同じ、塩でも、来歴が、違う。
その来歴を、舌の奥で受け止めた。
隣のテーブルでは、別の寮生たちが、明日の入学式の予習をしていた。
「学院長の、訓示」
「塔は問い、館は応え、炉は形にする」
「三つ揃いて、世は前へ進む」
「……これ、入学式で、必ず、聞かされるって」
「新入生は、立ち位置を、間違えるな、って」
「専攻の、列に、ちゃんと、並べ」
私は耳に挟むだけで、加わらなかった。
マチューも加わらなかった。
ただ、マチューは内心で笑っていたらしかった。
私と目が合うと、わずかに肩をすくめた。
「先輩の、噂話、を、もう、している」
「ええ」
「我々は、知らない、ふりで、いい」
「ええ」
私たちは、それで笑いを共有した。
食事が終わると、寮母が食堂に入ってきた。
食堂の入口の近くに立った。
軽く手を叩いた。
「みなさん、新入生は、夕食の、あと、各寮の、談話室に、お集まりください」
「寮の、規則の、説明を、いたします」
寮生たちは頷き、食事を進めた。
寮の規則の説明は、長くはなかった。
寮母が、寮の門限、共同浴場の使い方、食事の時間、消灯の鐘、その他いくつかの規則を、淡々と述べた。
新入生は、二十人ほどが談話室に揃っていた。
その人数の中で、自分が最年少のひとりであることを、再び意識した。
ほかの新入生は、私より一歳から三歳、年上に見えた。
ただ、誰も年齢の差を声には出さなかった。
説明が終わると、寮生たちはそれぞれの部屋に戻り始めた。
私とマチューも202号室に戻った。
部屋に戻ると、夜の霧が再び立ち始めていた。
窓の外の双子尖塔は、もう見えなかった。
霧が尖塔の影さえ隠していた。
──双子尖塔は、見えない。
──だが、知っている。
──そこに、ある。
──霧が、薄れれば、また、見える。
その「ある」を、胸の奥で受け止めた。
マチューはランプを灯した。
ランプの灯りで、机の上が温かい色になった。
マチューは机に向かって、何かを書き始めた。
「家族への、手紙」
私が尋ねる前に、マチューが答えた。
「母さんが、初日に、必ず、書け、と、言ってた」
「で、で、初日の、印象を、長く、書く、らしい」
「忘れる前に、書けって」
マチューは笑った。
「たぶん、明日には、もう、半分、忘れてる」
「ええ。たぶん」
私は頷いた。
私は自分の机に向かった。
机の上の、入学式の案内の紙を開いた。
明日の朝、六時半に起床の鐘。
七時、寮の食堂で朝食。
八時半、大講堂に集合。
九時、入学式開始。
──短い、紙、だった。
──簡潔だった。
その紙を、引き出しの二段目に入れた。
それから実験ノートを取り出した。
新しいページを開いた。
筆を取った。
ただ、今夜は長くは書かなかった。
──まだ、書くべきことが、整理されていない。
ページの上の隅に、日付だけを書いた。
「神月二十日前後。リューヴェル、到着」
それで筆を置いた。
実験ノートを閉じた。
椅子から立ち上がり、窓辺に立った。
夜の霧が窓の外を覆っていた。
霧の向こうに、街の灯りがぼんやりと見えた。
ヴァル川の中州の双子尖塔は、見えなかった。
ただ、私は知っていた。
そこにある、ということを。
胸の奥で、確かめた。
──ここは、首都だ。
──私の知る街では、もう、なかった。
──双子尖塔が、夕焼けの中に、浮かんでいた。
──そして、いま、霧の、向こうに、ある。
──明日、入学式。
マチューが自分の机から、私を見た。
「テオ、寝るか?」
「ええ。早めに、寝る」
「俺も、これ書き終えたら、寝る」
「明日、入学式」
「ええ。明日、入学式」
私とマチューは、それで初日の会話を閉じた。
私は寝衣に着替え、寝台に入った。
寝台は固く、毛布は厚かった。
学院の什器の感触だった。
毛布の中で目を閉じた。
ヴァルの霧の湿りが、寝台のシーツにまだわずかに残っていた。
潮の匂いが、霧の中からわずかに寝具に移っていた。
それでも、寝台の内側は温かかった。
寝台が、新しい毎日の最初の温度を抱えていた。
──明日、入学式。
──塔は問い、館は応え、炉は形にする。
──私は、塔の、徒に、なる。
その確認を最後に置いて、私は眠りに降りていった。




