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第1章 第1話「水色の朝」

最初に気付いたのは、温度の違いだった。


水ではなかった。空気だった。


それまで私を包んでいた温かい液体は、もう私の周りにはなかった。代わりに、乾いた、けれども冷たくはない空気が、私の濡れた皮膚を撫でていた。


私は、自分が今、外側にいることを理解した。


理解したけれども、それを言葉にすることはできなかった。私の喉は、たった今、産声を上げ終えたばかりだった。私の意志は、その喉に追いついていなかった。


「──おやおや、まあ、よくお泣きで」


声がした。


女性の声だった。年配の、けれども張りのある声だった。


私はその声の方向に、目を向けようとした。


向けようとしたけれども、視界は、ぼんやりと白かった。


ぼんやり、というよりも、ほとんど何も見えていなかった。形は分かる。明るさの差は分かる。だが、色は曖昧で、輪郭は曖昧で、私が知っているはずの「視覚」とは、まるで違うものだった。


新生児の視力は、おおよそ〇・〇二程度。


そんな知識が、ふと、私の中を通り過ぎた。


私はその知識に、自分自身が驚いた。


なぜ、そんなことを知っているのか。なぜ、自分が今、新生児だと思ったのか。


考えようとしたが、考えがまとまる前に、また誰かの声が降ってきた。


「ご立派な男の子ですよ。元気な、いい泣き声で」


産婆だ、と私は思った。


その単語が、私の中で勝手に浮かんだ。産婆。子を取り上げる女性。私は今、その人の手に抱かれている。


「エリザベートさま、すぐにお見せいたしますね」


別の名前が、聞こえた。


エリザベート。


それは、誰の名前だろう。


私はぼんやりとした視界の中で、自分が布に包まれていく感覚を覚えた。柔らかい布だった。温かかった。産婆の手は、節くれだっていたけれども、優しかった。


布越しに、私は、別の温度に近づけられていった。


それは、人の体温だった。


汗の匂いがした。けれども不快ではなかった。それは、長い時間をかけて何かを成し遂げた人の匂いだった。


「ああ、本当に……」


その声が、震えていた。


「あなたの、子よ」


私は、自分が母の腕に抱かれていることを、悟った。


母の顔は、よく見えなかった。


ぼんやりとした白い面と、その上に滲んだ蜂蜜色の何か。たぶん、髪だ。光が当たって、その髪が金色に光っているのが、辛うじて分かった。


「テオドール」


その口が、動いた。


「あなたの名前は、テオドールよ」


私は、その名前を、聞いた。


テオドール。


聞いたことのない、けれども、聞いたことがあるような気のする、名前だった。


私は、母の腕の中で、もう一度泣こうとした。


産声ではなく、ただの、新しい泣き声を。


けれども、私の口から出たのは、泣き声ではなかった。


それは、こんな音だった。


「ふぁ……あ……」


息を吐いただけだった。


私は、それでいいと思った。


私は、もう、産まれた。


産まれたばかりの自分には、息を吐くことだけで、十分だった。


「奥様。お父様もお呼びしておりますが」


産婆の声が、もう一度聞こえた。


「ええ、お願い。アンリも、待っているはず」


母の声が答えた。


私は、自分が今、何かの家にいることを理解し始めていた。


それは、病院ではなかった。


私の聴覚は、まだ感度が悪かったけれども、それでも分かった。空気の流れが、病院のそれではなかった。木の匂いがした。古い木の、けれども磨かれている木の匂いだった。乾いた草を編んだような匂いもした。ろうそくの匂いも。


ろうそく?


私は、自分の中の何かが、その単語に反応するのを感じた。


ろうそく。


私の知っている世界では、ろうそくは、もう日常的に部屋を照らす道具ではなかった。停電のとき、誕生日のとき、儀式のとき。それくらいしか、ろうそくは使わなかった。


それなのに、この部屋には、ろうそくの匂いが、当たり前のように漂っていた。


ここは、どこだ。


私は、自分の中で、その問いを抱えた。


抱えたけれども、私の身体は、まだ、その問いに応えるだけの力を持っていなかった。


私は、母の腕の中で、ただ、温かさに身を委ねた。


身を委ねながら、私はもう一つの問いを抱えた。


──私は、誰だ。


工藤智哉。


その名前が、まだ、私の中にあった。


二十八歳。物理化学。研究室。爆発。


それらの記憶は、確かにあった。


けれども、私の身体は、その記憶に対して、あまりにも小さく、あまりにも新しかった。


私の身体は、今、この世界の新生児だった。


そして、私の意識は、二十八年間生きた工藤智哉の続きだった。


私は、その二つを、どう繋いだらいいのか、まったく分からなかった。


足音が、近づいてきた。


それは、男性のものだった。落ち着いた、けれども急いだ歩み。


扉が開く音がした。


「──エリザベート」


その声を聞いた瞬間、私は、なぜか胸の奥が、熱くなるのを感じた。


私の知らない声だった。


私の知らない声のはずだった。


それなのに、その声は、私の身体の、深いところに、響いた。


「アンリ、生まれたわ」


母の声が、笑った。


「男の子。あなたの息子よ」


私の視界に、新しい影が加わった。


その影は、大きかった。けれども、威圧的ではなかった。むしろ、私の上に屈み込むようにして、ゆっくりと近づいてきた。


その人の眼鏡が、ろうそくの光を反射していた。


私には、それが眼鏡だと分かった。


なぜ分かるのか、私には説明ができなかった。


「──ああ」


その声が、震えた。


「ああ、こんなに小さい」


それから、その人は、しばらく言葉を継げなかった。


母が、笑った。


「あなた、もっと何か言ってくださらない? せっかくこの子の最初の顔を見るのに」


「……何を、言えばいいのか、私には、分からなくて」


その人──父アンリは、そう答えた。


「私はね、本を読むときは、いくらでも言葉を見つけられる。だが、生まれたばかりのお前の前では、私は、何も知らない男になる」


私はその言葉を、確かに、聞いた。


聞いて、私は、自分の身体の小さな喉から、もう一度、声を漏らした。


「あ……ふぁ……」


それは、笑い声ではなかった。


けれども、私は、笑おうとしていた。


私は、その瞬間、確かに思っていた。


──この人は、私の、新しい父だ。


そして、私は、今度こそ、


この人と、


話そう、と。


「──奥様」


産婆の声が、別の調子で響いた。


それまでの祝いの声ではなかった。


それは、息をひそめた声だった。


「奥様、お顔を、ご覧くださいまし。お子様の、額を」


母の腕が、私を、少しだけ動かした。


ろうそくの光が、私の額に、まっすぐ落ちた。


私は、自分の額に、何かが温かく触れているような感覚を覚えた。


それは、布ではなかった。


それは、誰の手でもなかった。


それは、私の内側から、にじみ出てくるような、温度だった。


母の息が、止まった。


父の影が、こちらに、もう一度屈み込んだ。


「──これは」


父の声が、低く、震えた。


「神紋」


その単語が、私の上に、降ってきた。


神紋。


私の知らない言葉だった。


私の知らない言葉のはずだった。


けれども、その言葉は、私の中で、ある形を、ぼんやりと結んだ。


──螺旋。本。星。


なぜか、その三つの形が、私の頭の中に、勝手に浮かんだ。


私は、その三つの形を、見たことがなかった。


それなのに、私は、それらを、知っていた。


「螺旋と、本と、星」


産婆が、震える声で、唱えるように言った。


「──知の御印。学びと探究の御印にございます」


産婆の視線が、ほんの少し、母の方へ、揺れた。


「──賢者と、俗には、呼ばれる御印にございます。私の、長い職歴で、お目にかかるのは、これが、初めてにございます」


その声を聞いて、母の身体が、私を、もう一度ぎゅっと抱きしめた。


「テオドール」


母の声が、私の名を、もう一度呼んだ。


「あなたは、知の御印を、戴いて、生まれてきたのね」


私の額の温度が、少しずつ、引いていった。


何かが、私の額から、空中に、ゆっくりと消えていくのを、私は感じた。


それは光だったのか、熱だったのか、私には分からなかった。


ただ、消えた。


消えた後には、私の額が、ただの新生児の額として、残された。


「──消えました」


産婆が、息を吐いた。


「ですが、確かに、ございました。神紋は、確かに、お子様に、刻まれました」


母は、私を、もう離さなかった。


「アンリ」


母の声が、父を呼んだ。


「アンリ、これは、家のことよ」


「ああ」


父が、頷いた。


「家のこと、だ」


二人の声は、誇りと、それから、わずかな恐れが、混ざっていた。


私は、その恐れの正体を、その時にはまだ、知らなかった。


私は、ただ、自分の額に、何かが在った、ということだけを、覚えていた。


そして、それが、私のこの新しい世界での、最初の謎だった。


夜が、更けていった。


私は、母の腕の中で、何度か浅い眠りに落ち、その度に空腹で目を覚ました。母の身体は、私に乳を与えるすべを知っていた。私は、その温かさの中で、生まれてから最初の食事を取った。


不思議だった。


二十八歳まで生きた私の知識は、私に「母乳には免疫が含まれている」「初乳と成乳の違い」「乳児の吸啜反射」といった事実を、次々と差し出してきた。


けれども、私の身体は、その知識を、必要としていなかった。


私の身体は、ただ、知っていた。


母の温度を。


母の匂いを。


母の鼓動を。


それは、知識ではなかった。それは、身体の知だった。


私は、自分が二十八歳の意識を持つ新生児であることを、否定できなくなっていた。


私は、明らかに、別の世界に、生まれていた。


工藤智哉として、二十八年間生きた記憶を、抱えたまま。


これは、夢ではなかった。


夢にしては、温度がはっきりしすぎていた。


母の腕は、温かかった。


父の声は、確かに、低く震えていた。


産婆の手は、節くれだっていた。


これらは、夢ではなかった。


私は、生きていた。


新しい身体で。


新しい家族の中で。


新しい名前で。


私は、その新しい名前を、もう一度、心の中で、なぞった。


──テオドール。


それは、私の、新しい、名前だった。


母が、私を抱いたまま、ふと、窓の方を見やった。


「アンリ、見て」


母の声が、囁いた。


「月が、今夜は、紅いわ」


父が、窓辺に立った。


私の視界には、ぼんやりとした光しか映らなかった。けれども、その光は、白くはなかった。それは、確かに、赤みを帯びた光だった。


「──紅月だ」


父の声が、低く、響いた。


「神月の、十五日に、紅月」


その言葉を、私は聞いた。


神月の、十五日。


私の生まれた日。


その日に、月が、紅い。


私は、それが、何を意味するのか、その時にはまだ、知らなかった。


ただ、知らないままに、私は、その紅い光を、自分の網膜の奥に、焼き付けた。


「アンリ」


母が、もう一度、父を呼んだ。


「これも、家のこと、ね」


「ああ」


父が、頷いた。


「これは、家のことだ。家の、秘密だ」


私は、母の腕の中で、目を閉じた。


私の額には、たった今まで、神紋が刻まれていた。


私の生まれた夜には、紅い月が、空に懸かっていた。


私は、二十八歳の意識を持つ、新生児だった。


私は、自分の人生の、最初の謎を、もう、三つも、抱えていた。


──私は、ここで、生きる。


私は、母の腕の中で、その決意を、温めた。


それは、誰にも聞こえない決意だった。


けれども、私には、聞こえていた。


私は、もう一度、空腹を覚えた。


私の身体は、新しい人生を、求めていた。


母が、私の唇に、もう一度、乳を含ませた。


私は、それを、夢中で、吸った。


吸いながら、私は、もう、工藤智哉ではないことを、確信していた。


私は、


テオドール・ヴァルメールだった。


そして、それが、


私の人生の、


二度目の、


朝の、


始まりだった。


紅い月は、その夜、明け方まで、空に懸かっていた。


産婆は、夜が明けるとともに、家を去った。


去り際に、産婆は、母にこう囁いたという。


「奥様。お子様のことは、どうか、お大切に。神は、ときに、強い印を、お与えになります」


母は、頷いた。


頷いたけれども、その夜の出来事を、誰にも、語らなかった。


父も、語らなかった。


ヴァルメール家の、


新しい子供は、


その名を、


テオドール、


といった。


その額には、神紋が、確かに刻まれた。


その生まれた夜には、紅い月が、空に懸かった。


それは、家の、秘密だった。


私は、その秘密ごと、


この世界で、


生きていくことになる。


次話「最初の言葉」へ続く

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