25 無自覚な悪意
ヴィクターが動いたのは、それから10日後のことだった。
リディアへの相談もなく、未完成の処方を完成品として王宮に申請した。
名義はランドール家。
内容はリディアが7年かけて積み上げて来た研究の成果だった。
「……」
ただし、副作用の問題は解消されていない。
ヴィクターには、悪いことをしているという自覚がこれっぽっちもなかった。
妻の功績は夫のものでもある。
それを信じて疑ったことは一度としてない。
申請を急いだのは、早く薬を届けたかったからにすぎなかった。副作用のことも、リディアの気にしすぎだと思っていた。
根拠はない。
無自覚な悪意だ。
ただ、そう思っていた。
「上出来ね」
その報告を聞いたセリーヌは満足げに微笑んだ。
ヴィクターの屋敷を辞したあと、馬車で1人になった瞬間だけ、その笑みが少しだけ違う色を帯びた。
思ったよりも、ずっと簡単だった。
残りの手順は、すでに頭の中にある。
証拠書類の改竄。
偽証言の準備。
リディアを「横取りしようとした詐欺師」に仕立て上げるために、細かい仕込みを用意してある。
「忙しくなるわね」
やることは多いが、難しくはない。
相手は所詮、平民の薬師だ。
後ろ盾もなく、社交界での地盤もない。
ひとたび貴族の証言と書類が出れば、言葉一つも覆せはしないだろう。
セリーヌは馬車から外を見つめながら、段取りを頭の中で組み立てていった。
焦る必要ないのだ。
落ち着いてやれば、必ずうまいく。
「あの薬師さえいなければいいのよ」
いつかと同じ台詞を、リディアはくり返した。
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リディアが申請のことを知ったのは、偶然だった。
王宮に出入りする薬師仲間から、何気なく話が耳に入って来たのだ。
「そういえば、リディア。ランドール家が新薬の申請を出したっていうけど、あれってあなたの研究じゃなかった?」
言葉が胸に刺さる。
「いつの話ですか?」
「先週だったかしらね。……もう受理されて、時間が経つはずだけど」
しばらく、声が出なかった。
ヴィクターが「わかった」と言ったのは、まだ記憶に新しい。
待ってほしいとも言った。
副作用が残っているから、処方は早計だと。
「そう……ですか」
どうにかそれだけ答える。
薬師仲間が何か言っていたようだが、よく聞こえなかった。
頭の中では、ヴィクターの声が反響している。
『わかった』
それは穏やかで、迷いのない声だった。
いったい、ヴィクターは何にわかったと言っていたのだろう。
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リディアはその夜、調合室に1人で座っていた。
机の上には、まだ完成していない処方の記録が広げられている。
「……どうして」
声にならない問いが、暗い部屋に溶けた。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、胸の奥に重たいものがある。
ヴィクターに悪意がなかったと信じたいが、今ではそれもどうなのか怪しい。
「……」
きっとヴィクターは、良かれと思ってやっただけなのだろう。
そう信じたい。
少なくとも、薬を早く届けたかったことだけは本当だろう。
だが、もしも症状の重たい子供に使われてしまったら……。
誰が責任を取るのだろうか。
そもそも、責任なんか取れるのだろうか。
命を奪いかねないリスクがまだ残ったままだというのに。
「……はあ」
リディアは自分の手のひらを見つめた。
7年分の、薬草の染みが残っている手だ。
このままではいけない。
そこははっきりとわかっているのだが、どうすればいいのかという手段を、リディアには見つけられなかった。
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