23 不吉な気配
ヴィクターの言葉には悪意がない。
それはリディアもわかっている。ヴィクターは本当にそう信じているのだ。
疑いもなく当然のこととして、薬は2人の手柄だと確信している。
黙るリディアに構わず、ヴィクターはつづけた。
「リディアのためでもあるんだ。侯爵家の名義があれば、リディアの薬は確実に王宮の目に留まる。リディアが望んでいるのは、あの子たちに薬を届けることだろう?」
患者のことを持ち出されては、反論することが難しい。
子供たちも事情を話せばわかってくれるだろう。
目的は栄誉にはない。
リディアの脳裏に、元気になった子供たちの姿が浮かんだ。
心の中で結論を出し、リディアはヴィクターに向きなおる。
「ひとつだけ約束して。まだ危険な副作用が残っているの。これが解消されるまで、申請は急がないで。私がゴーサインを出すまで、待っていてほしいの」
つかの間、ヴィクターは考えるように間を置いた。
「わかった」
迷いのない返事。
ほっとしたようにリディアが息を吐く。
これでよかったのだろうかと自問したが、答えは出そうにない。
一つだけはっきりしているのは、強い副作用が残ったままの薬を患者に届けるわけにはいかないということだ。
難病にかかったばかりの体力が十分な子供はともかく、今のままでは薬を使うことがかえって命を奪いかねない。
それだけは絶対に譲れなかった。
ヴィクターは立ち上がり、軽く手を振って調合室を出ていく。
扉が閉まったあともリディアはしばらく動けなかった。
その扉の向こうで、ヴィクターは独り言ちる。
『腕はいいんだが、心配性だな』
それはあまりにも小さなつぶやきで、リディアの耳には入らなかった。
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翌日のことだった。
診療所に向かうという朝の習慣を終えたリディアが、自分の家に戻ると、入り口の前に見慣れない馬車が止まっていた。
家紋には見覚えがある。
社交界でもそれなりに名の知れた、貴族の紋章だった。
扉を開けると、若い令嬢が一人、店内を物珍しそうに見回していた。
年は自分よりいくらか若いかもしれない。
整った顔立ちに、隙のない微笑みを浮かべている。
「……いらっしゃいませ。本日はどうされましたか?」
リディアが声をかけると、令嬢はゆっくりとこちらに振り返る。
「まあ、あなたがリディア嬢……失礼、リディアさん?」
声は甘く、柔らかい。
だが、わざわざ言い直したところに、ヴィクターと同じ種類の臭いを感じた。
「そうですが……」
「以前からお噂はかねがね。すばらしい腕をお持ちだと、ヴィクター様もおっしゃっていましたわ」
さりげなく、ヴィクターの名前が差しこまれる。
リディアはこの令嬢の話を、ヴィクターから聞いたことはないというのに。
「……。失礼ですが、お名前を伺っても?」
令嬢が、優雅に一礼する。
「あら、申し遅れましたわ。セリーヌと申します。ヴィクター様とは、幼い頃からの知り合いなんですの」
リディアは愛想笑いを崩さないまま、相手の目を見た。
ヴィクターは貴族なのだから、相応の付き合いもあるだろう。
そこはいい。
だが、その婚約者の自分に、あえて幼い頃から知っているとアピールするものだろうか。
マナーとしてどうなのかと、リディアは内心でむっとした。
それに、最近社交界への出入りが増えたと聞いた家の令嬢が、ちょうどセリーヌという名前だった気もする。
「そうですか。ヴィクターがお世話になっているようで」
「こちらこそ。……ところで」
セリーヌが棚に並んだ薬草に視線を向ける。
「研究中の薬があると伺いましたわ。子どもの難病に効くものだとか」
「……。ええ、まだ完成はしていませんが」
「まあ、すばらしい。ヴィクター様もとても楽しみにされているようでしたわよ」
また、ヴィクターの名前が出てきた。
名前の部分だけ、心なしか声のボリュームが大きかった気がする。
「……ランドール家の新しい功績になりますものね」
最後の一言は、ほとんど独り言のような口ぶりだった。
リディアは何も答えない。
返す言葉がなかったのではない、あまりセリーヌと会話をしたくなかったからだ。
「ごめんあそばせ」
セリーヌは薬を1つ購入して、満足げに帰っていった。
馬車が通りを曲がって見えなくなってから、リディアはようやく小さな息を吐く。
「ランドール家の功績……」
昨夜、ヴィクターが言ったことと、奇しくもそれは同じ言い回しだった。
本当に偶然なのだろうか。
「今は薬の開発に集中しないと……だよね」
頭を振ってリディアは雑念を追い払う。
だが、いつまで経っても、小さな不安がべったりと胸の中にこびりついていた。
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