蛇足 エマの日記
お嬢様が就寝したあとの屋敷は、しんと静まり返っていた。
私は1人、執務室の片隅で書類を整理する。
蝋燭の明かりは、紙の上に細い影を落としていた。
手は動かしているが、頭の中ではまだ今日のことが引っかかる。
「侍女から情報が漏れる……ですか」
お嬢様はそう読んでいた。
読んでいたからこそ、逆に利用した。
結果として、計画は次の段階へと進んでいる。
失敗ではない。
むしろ、喜ばしいことだ。
それはわかっている。
わかっているが、私の胸の奥には小さな棘が刺さったままだった。
侍女が情報を漏らす。
他人事ではない。
ソフィア様の侍女が悪意を持っていたわけでもないだろう。
ただ、世間話の中でうっかりと口を滑らせただけだ。
あるいは、巧みに引き出された。
真実はどちらでもいい。
問題なのは、それが主人の足を引っ張りかねないということだ。
「……。同じことをしないとは言い切れませんね」
私はペンを止める。
自分でどれほど注意を払っていても、気づかないうちに何かを漏らしている可能性はある。
それは慢心ではなく、事実として受け入れなければならないことだった。
お嬢様は今回、その穴を塞ぐのではなく利用するという手を選んだ。
しかし、いつもそれができるとは限らないだろう。
内側に穴があれば、いつか取り返しのつかない形で開くこともある。
「気を引き締めないといけませんね」
私はそう思いながら、再びペンを取った。
✿✿✿❀✿✿✿
お嬢様が変わったのは、あの朝からだ。
まるで、地獄の淵から戻って来たように、それからのお嬢様は苛烈を極めた。
もちろん、実際に地獄に行ったわけではないだろう。
その前の晩も、すやすやとお休みになっていたのだから。
しかし私には、そう表現するよりほかにない。
あの朝のお嬢様は、前夜と別人のように目の色が違った。
眠れなかった様子もなく、取り乱した形跡もない。
ただ、静かに、何かを決めた人間の顔をして座っていた。
最初は私の気のせいかとも思った。
次の日も、またその次の日も、お嬢様の判断は迷いがなかった。
動く前から答えを知っているかのように、先手を打ち続けた。
証拠を集めた。
罠を仕掛けた。
舞踏会の場で、完璧に反撃した。
私はずっと、それを問わずにいた。
問えなかったのではない。
問うつもりがなかったのだ。
お嬢様に何があったのかは、わからない。
しかし、向かおうとしている方向は見えていた。
それで十分だと、私も思っていた。
理由を知らなくとも、自分にできることはある。
足場を作ること、情報を集めること。
お嬢様が動ける状態を、常に整えておく。
侍女の仕事とは、そういうものだと私は信じている。
✿✿✿❀✿✿✿
「……エマ?」
声がした。
顔を上げると、扉の隙間からお嬢様が顔をのぞかせていた。
寝衣のまま、髪もほどいている。
珍しいことだ。
「どうかされましたか?」
「眠れなくて」
それだけ言って、お嬢様は部屋に入ってきた。
椅子を引いて、お嬢様が私の向かいに腰を下ろす。
私は何も言わずに立ち上がり、小鍋で温めていたミルクをカップに注いだ。
受け取ったお嬢様が、両手でカップを包む。
しばらく、私たちは黙っていた。
蝋燭の炎が、かすかに揺れている。
「……今回は読み違えたわ」
お嬢様がぽつりと言った。
「ドリアンが侍女まで取り込んでいることは、初回から想定できたはずなのに……」
初回から?
お嬢様は最初から次女から漏れることを懸念していたはずだ。
何を仰っているのか、私にはよくわからない。
だからこそ、私は静かに遮った。
「お嬢様、もう十分ではないでしょうか」
お嬢様が私を見る。
私は表情を変えずに続けた。
「今回の件で、私も学んだことがあります。どれほど注意を払っていても、内側に穴は生まれうる。それならば穴を恐れるのではなく、穴があることを前提に動けるようになればいい。……お嬢様はすでに、そうなさっていました」
お嬢様がわずかに目を細めた。
「あなた、いつもそうやってさらりと正論を言うのね」
「お嬢様のそばで学んでおりますので」
短い沈黙のあと、お嬢様が小さく息を吐いた。
「……あなたがいてくれてよかった」
ぼそりと、独り言のような声だった。
私は答えない。
代わりに、静かに頭を下げた。
お嬢様がカップを置いて立ち上がり、「おやすみ」とだけ言って部屋を出ていく。
その背中が廊下の暗がりに消えるまで、私は見送った。
一人に戻った部屋で、私は再び書類へ向きなおる。
忠誠ならば、とうの昔から持っている。
義務は、果たし続けてきた。
しかし、それだけではない何かが、胸の中にあることに私は気づいていた。
この方が次に何を見るのか。
どこへ向かうのか。
その先を、自分も見たいのだ。
ただそれだけのことが、私をここに立たせている。そんな気がする。
蝋燭の炎がまた揺れて、すぐに静かになる。。
明日もやることは決まっていた。
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