1 婚約破棄と処刑、そしてやり直し
「キャサリン・エルフェルト。私はここに、お前との婚約を破棄する」
それはあまりにも唐突な宣告だった。
華やかな音楽が流れていたはずの大広間は、王太子の一言で水を打ったように静まり返った。
王宮の舞踏会。
貴族たちの視線が、一斉にキャサリンへと突き刺さる。
――ああ、ついに来てしまったのね。
キャサリンはゆっくりと顔を上げ、目の前に立つ婚約者のジェームズ殿下を見つめた。
端正な顔立ち。
整えられた金髪。
かつては、そのすべてを愛しいと思っていた。
けれど今は、そこに微塵の愛情も感じない。
――どうして、こんなにも愚かな人だと気づけなかったのかしら。
胸の奥にあるのは、驚きでも悲しみでもない。
ただ、冷え切った理解だけだった。
「理由をお聞かせ願えますか?」
キャサリンが努めて静かに問い返すと、ジェームズ殿下は鼻で笑った。
「白々しいな。お前が何をしたのか、この僕が理解していないとでも?」
言葉と共に、ジェームズ殿下の隣に立つ少女が、一歩前へと歩み出る。
ふわりと揺れる淡い桃色のドレス。
守ってあげたくなるような、か弱い微笑み。
「キャサリン様……どうしてこのようなことを……」
震える声でそう言ったのは男爵令嬢のミレイユ。ジェームズ殿下の新しい恋人である。
「彼女は見たのだ。お前が他の男と密会しているところをな。申し開きがあるなら聞いてやろう」
ざわりと会場が揺れた。
密会。
不貞。
社会において、それは致命的な罪だ。
奔放なふるまいがどうにか許されるのは、婚約する前が限度である。それは貴族であっても変わらない。
「証拠もある」
そう言って殿下が示したのは、一通の手紙だった。
甘い言葉が並ぶそれは、確かに恋文のようにも見える。
差出人の名は、ほかでもなくキャサリン。
――なるほど。
その瞬間、キャサリンの中ですべてが繋がった。
「……身に覚えがございません」
キャサリンの返事に、ジェームズ殿下は露骨に眉をひそめた。
「見苦しいぞ、キャサリン。これでもまだ言い訳をするつもりか」
「キャサリン様……もう、おやめください……」
ミレイユは涙声で、隣に立つジェームズ殿下の腕にすがりついた。
大した演技力である。
どうせその顔には涙の一滴も流れていないだろうに。
それでもミレイユは、自分こそが被害者であるとの主張をはばからない。
――ここまでは、前回と同じ。
だれもキャサリンの言葉を信じない。
証拠は揃えられ、関係者の証言も用意されてしまっている。
まるですべてが、最初から決められていたかのようだ。
「以上だ。キャサリン、お前との婚約は正式に破棄する」
その宣告に拍手は起きなかった。
代わりに広がったのは、冷たい視線と囁きだ。
『不貞の令嬢』
『王子を裏切った最低の女』
それらのすべてを、キャサリンはただ受け止めるしかなかった。
この時までは。
✿✿✿❀✿✿✿
石畳の冷たさが、膝を通してキャサリンに伝わって来た。
牢の中は暗く、ほのかに湿っている。
「処刑は明朝だ」
淡々と告げた看守の言葉を、キャサリンはどこか他人事のように聞いていた。
――処刑……。
その言葉に恐怖を感じなかったわけではない。
けれど、それ以上に胸を占めていたのは、理解できないという思いだった。
――どうして?
自分は何もしていないはずである。
あの手紙にも覚えがない。
なのになぜ、自分はこんなことになってしまっているのだろう。
――ジェームズ様は、どうしてあんなにも簡単に……。
信じていた。
ジェームズ殿下だけは、最後まで自分の言葉を聞いてくれると信じていた。
――愚かでした……。
視界がじんわりと滲む。
それでも涙は目からこぼれ落ちなかった。
「もし、もしも……もう一度機会があるならば」
ぽつりと、だれにともなくキャサリンはつぶやく。
――今度は決して……。
その先を決意するよりも早く、キャサリンの意識は闇に沈んでいた。
✿✿✿❀✿✿✿
キャサリンが目を覚ます。
最初に感じたのは、柔らかな寝台の感触だった。
「……。ここは?」
見慣れた天蓋。
見慣れた調度品。
間違いない。
ここは自室だ。
――あり得ませんわ。
処刑されたはずの自分がどうして?
慌てて起きあがったキャサリンが鏡を見やる。
そこに映っていたのはやつれた囚人ではない。何事もなかったかのように公爵令嬢のキャサリンが映っていた。
――本物?
自分の体だという実感が持てず、思わず、キャサリンは頬を手で触っていた。
まもなく、机の上に置かれた一通の招待状に気がつく。
王宮舞踏会への招待。
開催日を見やったキャサリンは驚きに目を見開いていた。
「1週間後……?」
手が震える。
これは夢だろうか。
それとも今までの出来事が夢なのだろうか。
「……」
つかの間、思索の海に溺れていたキャサリンが、首を横に振って立ちあがる。
――いいえ、違うわ。
胸の奥底に今もなお残っている感覚が、そんなあいまいな感想を否定した。
あの冷たい石畳。
あの絶望。
すべてが、あまりにも鮮明だった。
「……そういうことですのね」
ゆっくりと、息を吐く。
そして、鏡の中の自分を見つめながらキャサリンは静かに笑った。
「よく分かりましたわ」
――これはやり直し。
天の気まぐれか。それとも神の奇跡か。
いずれにせよ、自分は過去へと戻って来たのだ。
自分が処刑される7日前に。
それならば、もはややることは決まっている。
――今度は間違えない。
かつて愛した男性の顔を頭に思い浮かべる。
そして、何の迷いもなく決意した。
「あなたの婚約破棄は、こちらから利用させてもらいます」
その瞳には一片の未練も残ってはいなかった。
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