第188話 全部の欄を埋めても、必要な検査とは限らない
朝の入口はいつも通り暗く、低い二基の灯りが返却棚だけを照らしていた。ゼフが三箱を順番に確かめ、一番から三番まで異常0。物理箱3、穴札12、朝値変更0。補修班許可段+1にも変化はない。
昨日は、複数の職人による検品そのものは残した一方で、三人、五人、七人と判子を増やし、その数を品質の順位へ変えるやり方を0にした。
重要なのは何人が見たかではなく、何のために、どこを見たかだった。その結果、市場では《材確認済》《取付寸法確認済》のように、具体的な確認内容を書いた商品が売れ始めている。
そこまでは良かった。
問題は、人間が比較できるものを見ると、次は形を揃えたくなることだった。
市場側の机には、朝から三種類の紙が並んでいる。
《金属製品標準検査十二項目》
《木製品標準検査九項目》
《革製品標準検査八項目》
フィンは金属用の紙を持ち上げ、上から順番に読んだ。
「材質、外観、割れ、寸法、穴位置、曲がり、表面、音、重さ、接合、仕上げ、耐荷……。昨日まで『何を見たか書けばいい』って話だったのに、一晩で十二個になったんだ」
「しかも全部埋めた商品には《十二項目完全検査》と表示する案があります」
ブラントが別紙を差し出すと、ミナはその下に書かれた価格表まで読んで眉を寄せた。
「八項目確認より十二項目確認の方が上等、という売り方ですね」
「比較しやすいだろう!」
声の主は、もちろん細身の商人だった。
今日はすでに《12/12》と大きく書かれた木札まで用意している。
「客は専門家じゃない。材だの取付寸法だのを一つずつ読ませるより、十二項目中十二項目確認済みと書けば一目で分かる。十なら少し下、八なら普及品。これなら商品同士を公平に比べられる!」
フィンは木札を裏返しながら、嫌そうな顔をした。
「昨日、判子の数を0にしたら、今日は欄の数になっただけじゃない?」
「全然違う! 今回は検査の中身がある!」
「その十二個、全部の商品に必要?」
レイナが聞くと、細身の商人は勢いよく頷いた。
「金属製品なら当然だ!」
レイナはすぐ近くに置かれていた小さな釘を一本持ち上げた。
「これも?」
男が止まった。
釘一本に、十二項目。
材質を見る。長さを見る。曲がりを見る。その程度ならまだ分かる。しかし、一つずつ重さを測り、音を聞き、耐荷重まで試すとなれば、釘より検査の方が高くなる。
フィンが釘と検査票を交互に見ながら笑った。
「この釘、検査だけで高級品になりそうだな」
「小物には簡略版を作る!」
細身の商人が即座に書き足そうとすると、ミナが静かに止めた。
「では小物の定義が要ります。釘は小物として、棚金具は? 荷車の留め具は? 同じ大きさでも橋に使うなら?」
男の筆がまた止まる。
昨日と同じだった。
品物の形だけでは、必要な検査は決まらない。
鍛冶工房主が机の端にあった二つの金具を持ってきた。見た目はほとんど同じで、大きさも材も近い。
「こっちは倉庫の棚を支える金具。こっちは井戸の巻上げ機に使う金具だ」
フィンが二つを見比べる。
「同じ十二項目じゃ駄目?」
「棚金具なら、寸法が合って、割れてなくて、普通に荷を支えれば俺は十分だ。井戸の方は繰り返し荷が掛かるから、穴の周りと曲がり方をもっと気にする。見た目が綺麗かどうかなんて後回しだな」
ミナは十二項目票の《仕上げ》へ指を置いた。
「つまり、棚金具では意味のある項目が、井戸金具では優先度が低いこともある」
「逆もある」
鍛冶工房主は頷いた。
「井戸で重要なところを、棚金具ではそこまで細かく見なくてもいい」
それでも細身の商人は諦めなかった。
「なら十二項目全部を見た上で、重要項目だけ二重確認すればいい!」
フィンが深く息を吐いた。
「増やす方向には迷いがないなあ」
午前、実際に《十二項目完全検査》の商品を一つ試すことになった。
荷車用の連結金具だった。
検査票には十二項目すべてに印があり、横には大きく《12/12》と書かれている。価格も通常品より銅貨八枚高い。
女商人がそれを持ち上げた。
「これなら私でも安心して買える、というのが売り文句ですね」
「そうだ!」
細身の商人が胸を張る。
そこで車輪工房主に、実際の荷車へ取り付けてもらった。
材質に異常なし。表面の割れもない。寸法も検査票の通りで、曲がりや仕上げにも問題はなかった。
しかし、取り付けて荷車を左右へ振ったところで、車輪工房主が手を止めた。
「これ、動きが渋いな」
細身の商人の表情が変わる。
「十二項目全部合格だぞ?」
「だから何だ。連結部は動くんだよ。寸法自体は合ってるけど、相手側と組むと遊びが足りない」
昨日の五印金具と似ているが、今度はさらに分かりやすかった。
検査票の十二項目は、確かに全部見てある。
ただし、《実際の相手部品と組んだ時に必要な動きがあるか》という、その荷車にとって重要な項目が入っていなかった。
フィンは《12/12》の木札を見つめた。
「全部埋まってるのに、必要なところが空いてたんだ」
「十二項目が間違ってるわけじゃない」
ミナが補足する。
「この商品、この用途に対して足りなかっただけです」
レイナも頷いた。
「満点票。仕事では未確認1」
細身の商人はしばらく黙ったあと、勢いよく筆を取った。
「十三項目目に《組付動作》を追加する!」
フィンがすぐに頭を抱えた。
「そうなると思った」
車輪工房主は笑いながら首を振る。
「棚金具に組付動作なんか要らんぞ」
「荷車用だけ十三項目!」
「水車ならまた別だ」
「なら用途別表を――」
今度は革帯の男が、横から細身の商人の肩を叩いた。
「やめておけ。たぶんまた増える」
全員がそちらを見る。
革帯の男は少し不満そうに顔をしかめた。
「何だ。その顔は」
「学習が進んでる」
フィンが言うと、男は「お前には言われたくない」とだけ返した。
次は木製品を見ることになった。
市場案では九項目。材種、節、割れ、反り、寸法、表面、乾燥、接合、仕上げ。
そこへ木工房職人が二枚の板を持ってくる。
一枚は倉庫棚用。もう一枚は水車羽根用。
棚板は九項目のうち七つを見るだけで十分だという。一方、水車羽根では表面仕上げよりも、木目の向きや水を受けた時の変形の方が重要になる。
「木目は九項目にないですね」
ブラントが確認する。
木工房職人は肩をすくめた。
「家具なら木目を見る意味が別になるし、全部入れ始めたら終わらんぞ」
さらに革製品でも同じことが起きた。
馬具に使う革紐と、帳簿を束ねる革紐。
見た目は似ていても、馬具なら引張りと擦れへの強さが重要になる。帳簿紐なら、そこまでの強度より扱いやすさの方が大事だ。
革帯の男は八項目表をしばらく眺めたあと、自分から紙を裏返した。
「これを全部の商品に当てるのは無理だな」
フィンがにやにやしながら顔を覗き込む。
「今日は自分から0って言わないの?」
「言わせたいだけだろ、お前」
「ちょっと」
「0だ」
周囲から小さな笑いが起きた。
ただし、だからといって検査項目の例そのものが無意味なわけではなかった。
若い職人や、初めて扱う品物では、「何を見ればいいか」の候補があると助かる。
鍛冶工房の若手が十二項目表を見ながら言った。
「俺はこれ、参考には欲しいです。何もないと表面だけ見て終わることがあるので」
鍛冶工房主も否定しない。
「新人向けの見落とし防止には使える。ただ、全部埋めろと言われると邪魔だな」
そこで一枚の紙を作り直す。
《金物で確認することがある例》
材。
割れ。
寸法。
穴位置。
曲がり。
組み付け。
使用時の動き。
必要なら、他も見る。
それだけ。
十二枠は作らない。空欄も作らない。点数も付けない。
若手職人は紙を見て頷いた。
「これなら使う物だけ拾えます」
細身の商人は納得できない顔をした。
「客同士で比較できない」
女商人が答える。
「客が欲しいのは、検査表を比較することではなく、自分の用途に合う品を選ぶことですよ」
「でも、詳しくない客はどうする!」
「何に使うか店へ言えばいいでしょう。大事な物なら、必要な確認を聞きます」
女商人は少し考え、朝の《12/12》商品ではなく、《荷車連結用・材確認・割れ確認・組付動作確認》とだけ書かれた別の商品を選んだ。
「私はこっちを買います。四項目しか書いてありませんが、私が知りたい四つなので」
細身の商人が《12/12》の札を見た。
「十二対四なのに?」
「必要な四対、必要か分からない十二です」
フィンが吹き出した。
「今日の満点、それでいいんじゃない?」
レイナ 「満点」
女商人はすぐに手を差し出した。
「何か出ます?」
「0」
「知ってました」
午後には、市場の表示も早く変わり始めた。
朝には《12/12》《9/9》《8/8》が目立っていたが、夕方になると、《井戸用・軸穴確認》《荷車用・組付動作確認》《水車羽根・木目と反り確認》と、用途に合わせた表示が増えている。
売上も変わった。
完全項目表示商品。
朝から計8。
用途別確認表示商品。
15。
項目数だけを売りにした商品は、昼以降ほとんど動いていない。
「市場がまた早いですね」
ブラントが数字を読み上げると、女商人は当然という顔で答えた。
「客が買う理由に近い方が残りますから」
公共補修側でも、一件だけ同じ考えを使う。
橋の留め金を交換することになった。
市場案の金属十二項目のうち、今回見る必要があると判断したのは、材、割れ、主要寸法、穴位置、取り付け後の動き、それから既存構造との干渉。
六つ。
残る六項目は記録しない。
ブラントが確認した。
「未検査扱いにはしませんか?」
レイナは首を横に振る。
「不要だった」
空欄。
イコール。
失格。
ではない。
必要がないから見なかったのと、見るべきなのに見落としたのは違う。
この差を消してしまえば、職人は点数を下げないために不要な欄まで埋め始める。
そして、もっと悪いことが起きる。
必要な検査をすることではなく、紙を満欄にすることが仕事になる。
橋金具は必要箇所六つを確認し、異常0。そのまま取り付けて完了した。
事故0。
夕方、領主へ報告すると、机には朝の《12/12》金具と、橋で使った六項目確認の金具が並べられた。
領主はまず十二項目票を見た。
「こちらは全部確認済みなのに、荷車へ付けたら動きが悪かった」
「はい」
ミナが答える。
「こちらの橋金具は十二項目のうち六つしか確認していませんが、必要な場所は確認済みです」
領主は二つを見比べた。
「では、六点と十二点ではない?」
「違う」
レイナが答える。
領主は少し考え、今度は自分から言葉を続けた。
「欄を埋めた数は、仕事に必要な確認をした数ではない。必要な六つを見たなら、不要な六つを見なかったことで品質が下がるわけではない……ということか」
レイナ 「満点」
領主 「よし」
フィン 「今日は一発だった」
領主 「最近、分かってきただろう」
レイナ 「危険」
領主 「また自信過剰か?」
「学習済み」
一瞬だけ静かになり、フィンが笑い出した。
「レイナも学習してる」
「私は元から」
「強い」
ブラントが今日の集計をまとめる。
金属十二項目統一案、木製品九項目統一案、革製品八項目統一案は、いずれも公共基準化0。全項目記入義務0、項目数による品質順位0、満欄商品への公共優先0。
検査項目の例示そのものは残し、新人や不慣れな仕事の見落とし防止として利用自由。
《12/12》荷車金具では、十二項目確認済みにもかかわらず用途固有の組付動作未確認1。実使用前に発見して調整し、事故0。
公共橋金具では必要項目6だけを確認し、異常0。未確認の不要項目を減点扱いにはしない。
市場販売は、全項目表示商品8、用途別確認表示商品15。
細身の商人は朝から使っていた《12/12》の札を見つめ、しばらくしてから裏返した。
「項目数を売るのはやめる」
フィンが驚いて見る。
「自分から?」
「その代わり、《用途別完全検査》で売る」
「ちょっと怪しい言葉になったな」
「商売だからな!」
女商人が笑った。
「内容が本当に用途別なら、好きに売ればいいでしょう」
「市場」
レイナもそれ以上は止めなかった。
夜になっても入口は暗く、二基の灯りは低いままだった。返却棚の三箱にも異常はない。
全部の欄を埋めることが、丁寧な仕事とは限らない。
必要のない検査まで増やせば、時間も金も掛かる。それだけならまだしも、紙を満欄にすることが目的になれば、本当に見るべき場所が抜けていても「十二項目確認済み」という数字だけが残ってしまう。
だから、検査項目は候補として使う。
必要な物を拾う。
仕事に合わせて足す。
要らない物は見ない。
空欄を怖がって埋めるのではなく、必要な場所が空いていないかを見る。
「今日も一つ」
レイナが帳面を閉じると、フィンは朝から残っていた《12/12》の木札を裏返した。
「統一検査表は0。でも、見る場所の候補は残した」
「項目数での順位も0です」
ミナが続け、ゼフは橋金具の記録を確認した。
「必要確認6。異常0。事故0」
ユハも入口を一度見てから、いつも通り「通路正常」と答えた。
そこでブラントが、最後の紙を一枚取り出した。
「次の要望があります。項目を統一しないなら、せめて各項目の『合格ライン』だけは共通化してほしい、と」
フィンの笑顔が少し消える。
「例えば?」
「金具の寸法差は何分まで、縄の摩耗は何割まで、木の反りはどこまでなら使用可、といった数値です」
ミナは紙を読みながら首を傾げた。
「同じ寸法差でも、棚と水車では許せる幅が違いそうですね」
「うん」
レイナは短く答えた。
「明日見る」
俺は板へ一行だけ残した。
金属12・木9・革8の統一検査項目と満欄順位を0とし、検査項目は見落とし防止の候補だけ残した。《12/12》荷車金具では用途固有の組付動作未確認1を発見して事故0、公共橋金具は必要6項目だけ確認して異常0。空欄数ではなく必要な場所が空いていないかを見る形で閉じた。次は、項目を揃えない代わりに出てきた「合格ラインの数値だけは統一する」案が、本当に仕事を揃えられるのかを見る。




