柔らかなものに包まれている刺
柔らかなさわり心地。手でなぞる。ふわふわとしていて、それは自分への好意を表している。
他のどのようなものにも変えがたい。ゴムボール?手触りがざわざわする。わたあめ?重量感が無さすぎる。
自分の力で立っていて、それを支えるかのように柔らかな心地を楽しむためのもの。そこに自分からの好意があるわけではなく、ただ、相手からの無償の好意を感じる手段となっている。
それは、他人に対して行うものではない。だが?自分が特別だと言わんばかりにその行為に意味を見いだす。
それが好意である。
では、好意を不用意に振るものは何か。固い固い、鉄の刺。人は、好意の中に固い刺を仕込ませている。
なぜ、そんなことを言うのか?
癖になり、人の興味を惹くからだ。
もちろん、虐めのようなものや、倒錯した過激な刺ではない。だが、正義感のような真っ直ぐさを持っている。
人によっては、柔らかい物のみを好意と呼ぶだろうが、固い刺を好意と呼び、柔らかく潰されそうなものを意気地無しと呼ぶ場合もある。
では、本当に刺を当てられることは癖になりうるのか。倒錯でなく、普通と言えるのか。
刺による痛みは、柔らかな好意によってしか癒すことができない。刺と柔らかさを両方備えているならば、尚且つ、痛みに対する理解があって癒やそうとするのならば、それは高度な好意である。
刺の好意は自然で注意をしない意味では普通。
柔らかく優柔不断なこともまた自然であり普通。
決断し、柔らかく癒やそうとするならそれは優秀。
柔らかな好意に必ずしも意気地無さが伴うわけではない。決断し、柔らかな好意を与えられる機会など、多くはない。人によっては、刺を当ててる自分を正当化し続けることだってある。
刺も柔らかさも、好意から派生しているからこそ全く同じ意味を持っている。
話は逸れるが、ラブコメの主人公は好意をぶつける決断を正当化されている。そのため、相手からの好意の返報を貰う期待と、好意の決断を行う刺の心地よさを同時に感じられる。
虚構は虚構である。現実に受ける刺を癒す手段にはなり得ない。
自分は敵対心や悪意と一緒に考えているという懸念もあると思う。だけれど、その始まりは柔らかにしろ尖っているにしろ好意であるのは確かだと思っている。




