第3話 私はこうやって食事をするって言ったんじゃない!
「――すぅ……」
深く息を吸い込み、ぎゅっと抱きしめ、顔を思い切りこすりつける。
冷たくて整ったその顔立ちは、感情が解き放たれるにつれて少しずつ赤みを帯び、呼吸も速くなっていった。
「……やっと、家に帰れた!!!」
強烈な仕事のプレッシャーが、この瞬間だけは完全に吹き飛んだ。布団に顔を埋めたまま、離れたくない。
――やっぱり、この匂いが一番落ち着く。
リンヴァルトと出会ってから、もう何年も経つ。
前教皇の突然の死以来、教会は歴史上最悪の暗黒時代に突入した。内には腐敗と権力闘争、外には魔族の侵攻。治安が整っていた帝国ですら邪神の災害事件が絶えず、常に緊張が続いていた。
後継者になる準備なんて一切していなかった自分が、突然、女神アリーシアに「次代の教皇」として選ばれる――。その重圧は、天だけが知っているだろう。
あのとき討伐隊の失踪を調査するため、偶然この小さな町に来た。
人の気配のない野外と冷たい川を前にして、崩れかけた精神はもう耐えられず、思わず川に飛び込んで泣きじゃくった。……そんなとき、通りがかったリンヴァルトに助けられたのだ。
そのまま感情の制御が効かなくなり、涙でぐちゃぐちゃの顔を隠すこともできず、彼に引きずられるようにキャンプへ連れて行かれた。
「すごく……恥ずかしい」
思い出すだけで顔から火が出そうになる。
でも――彼と出会ったからこそ、彼の奇抜な発想に救われて、あの辛い時期をなんとか乗り越えられた。
もちろん、最終的に彼と結婚したのは“彼の身分を整えて恩を返すため”であって、恋愛感情なんかじゃない。……恋愛脳になったわけじゃ、ない。
この真実を知っているのはごくわずか。
和平協定が崩れた直後、魔王が魔族を離れて人間界に潜入したという疑いが浮上した。邪神教会と手を組み、恐ろしい計画を進めている可能性すらある。
だから私はこの町に来た。魔王の痕跡を追い、正体を突き止めるために。
そしてリンヴァルトと結婚したのも、目立たない身分を得て調査を続けるため。
――まさか、本当に彼を好きになったなんて、あるはずがないでしょう?
……いや、正直に言えば、ほんの少しだけ、リンヴァルトを好ましく思っているのは事実だ。
でも、それは当時慰めてくれたことへの感謝から生まれた感情であって、純粋な“恋”とは違う。
私はヴィアーナ、恋愛脳な教皇ではない。
それに――もし魔王と戦って命を落としたとき、リンヴァルトが悲しむのではと心配して……感情を抑え、彼を夢中にさせないようにしている、なんて……そんなこと、あるわけない。
「……それにしても、魔王は今どこに潜んでいるのだろう?」
目を閉じても、思考は止まらなかった。
結婚前からずっと、この町で徹底的に調べ尽くした。通りすがりの犬にすら目を光らせたほどだ。
だが結果は――空振り。手掛かり一つ掴めなかった。
「もう魔族に戻ったのかもしれない……」
「いや……推測は難しい……」
意識がだんだんぼやけていく。
隣に漂う安心する香りを感じながら、眠気が押し寄せ――視界は闇に包まれていった。
最後に残ったのは、ただ戸惑い交じりの小さなつぶやきだけ。
「正直言って、この悪女の寝顔は……可愛すぎる」
ベッドの端に腰を下ろし、胸に頭を預けてくるヴィアーナを見下ろしながら、リンヴァルトは思わず微笑んだ。
普段の冷たい女教皇の顔は影もなく、眠っているときはまるで灰色の猫のように従順で甘えん坊だ。
繊細なシルクのパジャマに包まれた完璧な肢体。淡い金の髪。細い指が、無意識のまま彼の手を掴んで離さない。
――もう、何度も見た光景だ。
たとえ“契約結婚”だとしても、こうして過ごす日常は普通の夫婦と何も変わらない。
「……いつか俺が魔王だと知ったら、その場で震えて祈り始めるんだろうな」
「ふふ……そのときは、どうやって可愛がってやろうか」
彼女の怯えた顔を想像して――背筋がゾクゾクと震えた。
心の中で、あの高慢な教皇を徹底的に屈服させるシミュレーションすらしてしまう。
「女神アリーシアから、大事に守られている教皇を……魔王の俺がNTRする……最高じゃないか」
思わず片手で顔を覆う。指の隙間から覗く視線は、興奮で揺れていた。
「ああ……脳が震える……!」
「ん……?」
不意に、金色の瞳がゆっくりと開いた。
「――やっと起きたか」
目を覚ましたヴィアーナに、リンヴァルトはさりげなく視線を逸らしながら、手を伸ばしてその頬をむにっとつねる。
「何をしてるの?」
冷たい声。だが寝起きのせいか、わずかに柔らかさを含んでいた。
「もちろん、飯の時間だから呼びに来たんだ。……どうした、顔色が悪いな?」
そう言いながら、頬をつねった手が顎を撫でて――さらに下へ。
指先は器用にボタンを外し始めていた。
「ただ、仕事に疲れただけよ」
眉をひそめるヴィアーナ。だが、完全に振り払おうとはしない。
「長く家を空けていたからって……その埋め合わせで、こんなふうに甘やかす必要は――」
気づけば、ボタンは全て外され、足まで押さえられて――。
「ご、ご飯! ご飯を食べれば元気になるから!!」
必死の叫びに、リンヴァルトは一瞬ぽかんとした顔をしたあと――にやりと笑った。
「……なるほど、飯か」
彼は彼女の腰に手を回し、そのまま軽々と抱き上げる。
柔らかな腰の感触に、思わず口元が緩んだ。
「じゃあ、飯を食いながら……お前の元気、さらに倍増させてやろう」
「わ、私はこうやって食事をするって言ったんじゃない――リンヴァルト!!!」